私が原発に反対する理由



 私は数十年来原発に反対し続けてきました。大学の教師だった時期には、毎年の『キリスト教概論』の講義の中で、一度は必ずこの問題を取り上げて学生に関心をもつよううながしてきました。なぜ、キリスト教学の教師が原発問題を論じるのかと言えば、原発問題には政治的・経済的・社会的・倫理的な多くの問題が複合していて、原子力工学の専門家にだけまかせておくわけにはいかないからです。


原発は

@日本のエネルギー政策に関わる政治問題

Aエネルギー浪費にどのように対処するかという私たちのライフスタイルに関わる人生観の問題

B遺伝子破壊と人類の存続に関わる生命倫理的問題

Cエネルギーの問題を可能にし必然にした経済システムの転換に関わる経済的問題

D原発の建設・運転が必然的に大量の下請け労働者の人権問題・・・


等々の多面的な問題をもっています。

 これは原子力の『専門家』の自然科学的議論だけでは手に負えない問題です。もちろん、さまざまな立場があるのは当然のことですから、私の意見に固執するつもりはありません。私の意見を手がかりにして自分で考えるための材料を提供することが目的です。すでに大学を定年退職して10年以上になりますが、今回の東電福島事故に直面して、あらためて、これまで考えてきたことが、間違っていなかったと感じています。私が原発に反対する理由は簡潔に箇条書きにすれば次のようなものです。


1、原料のウラン鋼採掘という危険な仕事はアメリカやオーストラリアの先住民に押しつけてきたこと(『世界先住民ウラニウム・サミット宣言』)


2、原発は国家のエネルギー政策として推進されているために、政府と原子力メーカーと電力会社と推進学者の間に癒着が生まれて正常なチェック機能が失われていること。そのために原発に反対する人たちに対しては国策に反対する者としてイデオロギー的なレッテルが張られて排除され、原発の危険性についての学問的な検討がなされていないこと(高木仁三郎『原発事故は何故くりかえすのか』)


3、原子炉設計は科学的にできていても、巨大工事である原発の施工は、実際には、日本の土建工事の通例にならって、何重もの下請けにまかせられて、結果として数多くの手抜き工事が行われていて、ネジの閉め忘れやら、無資格者によるでたらめな溶接作業やら、設計と違う肉厚の配管やら、無数の危険極まりない工事が行われていること(元原発技術者菊池洋一さんの訴え)


4、手抜きをチェックするために不可欠の検査が、政府と電力会社の癒着のために甘くなり、電力会社の利潤最優先の方針によって曲げられてしまって、危険極まりない『事故隠し』が頻繁していること(東電原発トラブル隠し)


5、通常に運転していても日常的にパイプの経年劣化箇所などからの高温高圧高放射能の水蒸気の漏れが頻発し、その修復作業にある労働者は七重ないし八重の下請け労働者たちで、何の科学的知識も与えられずに放射能汚染を毎日のように繰り返し、数年で消えていきます。もちろん、13ヶ月ごとに行われる定期検査の時に原子炉の中に入って作業する下請け労働者たちの被曝は想像を絶するものがあります。このような下請け労働者の被曝労働なしには原発は運転できないこと(堀江邦男「原発労働記」)


6、無事に運転ができたとしても、使用済み核燃料の処理方法が全く未定で、数万年にわたって地下にガラス化して保存するなど、およそ正気の沙汰とは思えないような非科学的な対処しか考えられていないこと。


7、他の事故と違って、放射能による障害は人間の遺伝子を傷つけるという生命倫理的な問題を持っていること。従って、憲法に示された「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の侵害にあたること。


8、何よりも気になるのは、出発点がアメリカの核兵器であって、その利用可能エネルギー転換の具体化として原子力潜水艦のエンジンに転用されたものが、そのまま原発として使用されているのですから、アメリカの核政策の必要上、また核武装の願望を秘めている日本政府の必要上、必ず「安全神話」が形成されて、それを批判することが政治的圧力によって排除されて公平な議論ができないこと。


9、アメリカの核政策がICRPやIAEA等の原子力に関する国際機関の判断を曲げているために日本の世論が原発の危険性について的確な判断ができなくなっています。一番大きな問題は、ICRPが内部被曝の危険性を認めていないことだと思います。ヒロシマの原爆の非人間性を隠したいというアメリカの意向が強く働いているからだと思います。原発は通常運転中も必ず微量の放射性物質を流出させていますので、何の事故がなくとも、原発近辺の人々に乳がん等の異常を発生させていますが、内部被曝を認めない立場からは、このような問題は隠されてしまうということ。


 等々の理由で原発は少なくとも現状では科学的理由だけではなく、政治的・経済的・社会的な理由によって、安全な利用方法が確立していない未完成の技術だと言わざるを得ません。


10、最後に代替エネルギーの問題は経済学と人生観の問題です。これについては、私はむしろ楽観的です。現在の経済規模を維持することを考えれば、原発を廃止することは困難になります。しかし経済規模を縮小するとすれば、原発なしでも問題はないのだと思います。そして経済規模の縮小は避けられない必然的な方向だと私は思っています。というのは経済的に、1972年の金ドル交換停止以後の不換紙幣ドルの世界通貨としての強制通用システムがついに終りを告げて、ドル支配が終って、それにかわる地域共通通貨の時代が始まろうとしているからです。ということは、これまでのように、アメリカが紙くずのドルを無限に乱発することによって日本から無限に商品を買い続けることは不可能になったということです。1970年以後の世界経済の急膨張は、ドル基軸通貨体制による一種のバブル経済の中でだけ可能だったので、それが崩壊すれば、世界経済は縮小するほかないからです。

経済規模の大幅な縮小が避けられないというのが私の見通しです。それなら消費エネルギーも当然のことですが大幅に減少します。現状の経済規模を維持しようと思えば、原発なしでは困難ですが、経済規模を縮小せざるを得ない状況の中では、原発に依存しない経済はそれほど困難な課題ではないと思います。むしろ心配なのは、エネルギーの供給不足ではなくて、経済の縮小にともなう貧困や格差の問題ではないかと思っています。


 何よりも大切なことは、これらの問題を正しく判断し、適切に実行できる政府を私たちが作ること、縮小する経済規模にふさわしいライフスタイルを生み出す私たちの人生観ではないでしょうか。



(「私が原発に反対する理由」川端純四朗 2011,5,23)