< 罪なき臨終 >



 長老ヴァッカリは、陶器づくりの者の家で、病にふし、困苦し、重病であった。


 ブッダは、長老ヴァッカリに次のように語りかけられた。


 「ヴァッカリよ、おまえ、しんぼうができるかね。元気はどうかね。いろいろな痛みの感じももう薄らいで、増さないのではないかね。痛みがすっかりひいて、もう増さないように見えるのだが」


 「師よ、わたしはしんぼうができません。元気もございません。強い痛みが増して、薄らぎはいたしません。痛みは増すばかりで薄らぎはしないように思われます」


 「ヴァッカリよ、おまえには何の悩みも、何の後悔するところもないかね」


 「師よ、わたしには実に少なからぬ悩みがあり、少なからぬ後悔がございます」


 「ヴァッカリよ、ではおまえ、まさか自ら戒律に対して責めを負うようなことはないだろうね」


 「師よ、わたしは自ら戒律に対して責めを負うようなことはございません」


 「ヴァッカリよ、もしおまえが戒律に対して責めを負うようなことがないなら、そのときにどうしておまえに悩みがあり、どんな後悔があるというのか」


 「師よ、わたしは世尊にお目にかかるため、長いあいだおそばに参ろうと望んでおりました。しかし、世尊にお目にかかりに行けるだけの体力が、もうわたしの身体には残っておりません」


 「ヴァッカリよ、もうそういうことはよしなさい。おまえが、わたしのやがては腐敗してゆくこの肉身を見たからといって、それがいったい何になろう。ヴァッカリよ、ものごとの理法を正しく見る者は、わたしを見るのであり、わたしを見る者は、ものごとの理法を正しく見ることになるのです。ヴァッカリよ、ものごとの理法を正しく見ている者は、結局その理法にほかならない、このわたしを見ていることになり、わたしを見ている者は、結局のところものごとの理法を正しく見ていることになるからです。ヴァッカリよ、ものは、永遠に不変のものなのか、それとも無常なのか、おまえはこのことをどう考えるか」


 「師よ、無常です」


 「感受、想念、因果的存在、心は永遠に不変なのか、それとも無常なのか」


 「師よ、それらすべて無常なものです」


 「こういうわけだから、このようにすべてのものが無常であることをみて、再びこの苦の世界に生をうけることはないと知るのである」




 夜が明けそめるころ、ふたりの鬼神が、世尊のほうに近づいて来て、おそばに立った。


 おそばに立ったひとりの鬼神は、世尊に次のように申上げた。


 「師よ、ヴァッカリ比丘は解脱したいと考えています」


 いまひとりの鬼神は


 「師よ、彼はよい解脱のあり方で解脱するでしょう」と、世尊に申上げた。


 ふたりの鬼神は、このように申し上げ、このようにいい終って世尊にあいさつして、世尊の周りを右まわりに一周して、消え去った。





 世尊はその夜が過ぎてのち、比丘たちによびかけられた。


 「比丘たちよ、あなたがたはヴァッカリ比丘のところへ行きなさい。行ってヴァッカリ比丘に次のように伝えなさい。


 『友ヴァッカリよ、世尊とふたりの鬼神はのことばを聞きなさい。友よ、昨夜、夜が明けそめるころ、ふたりの鬼神が、その美しい姿をもって、世尊のほうに近づいて来て、そば近くに立った。そばに立ったひとりの鬼神は、世尊に、師よ、ヴァッカリ比丘は解脱したいと考えていますといい、もうひとりの鬼神は、師よ、彼はよい解脱のあり方で解脱するでしょうと申し上げた。友ヴァッカリよ、世尊はまた次のように仰せられた。


おそれるな。ヴァッカリよ、おそれるな。


おまえの死は罪に汚れていない。


罪なくして臨終を迎えるであろう』と」



 「承知しました」と、この比丘たちは返事をして、長老ヴァッカリに伝えた。





 「友よ、わたしからのことばをもって世尊のみ足を頂礼してください。そして『師よ、ヴァッカリ比丘は病にふし、困苦して、重病でございます。彼は世尊のみ足を頂礼して、このように申しております。ものが無常であることをわたしは疑いません。無常なものが苦であることにわたしは疑惑をもちません。無常であり、苦であり、つねに変化してやまないもの、それに対して何らの欲望もわたしには生じないし、貪る心もなく、愛着の気持ちもない、ということに疑惑はありません。師よ、感受は無常であること、想念も、因果的存在も、心も無常であることを、わたしは疑いません。無常なものが苦であることに、わたしは疑惑をもちません。無常であり、苦であり、変化してやまないもの、それに対しては欲望も貪りも愛着もわたしにはない、ということに疑惑はありません』と申し上げて下さい」


 「友よ、承知しました」と、この比丘たちは長老ヴァッカリに返事をして、帰って行った。





 世尊は遠くから、長老ヴァッカリが寝台の上に身体をふせて横たわっているのをごらんになった。


 そのとき、一面にわかに、たちこめた黒雲が東に走り、西に飛び、北に走り、南に飛び、空高く舞い上がり、低く這い下がり、四維に走るのであった。


 世尊は比丘たちに話された。


 「比丘たちよ、おまえたちは見たであろうか」


 「はい、見ました」


 「比丘たちよ、これは、悪魔が、善男子ヴァッカリの魂はどこへ行ったのかといって、その魂を探し求めている姿である。しかし比丘たちよ、


善男子ヴァッカリは、その魂がどこかに止まることなく、


完全な涅槃にはいったのである