< 仏教とアンベードカル >





 「私は何故仏教を選んだか。それは、他の宗教には見られない三つの原理が一体となって仏教にはあるからである。すなわちその三原理とは、理性(迷信や超自然を否定する知性)、慈悲、平等である。これこそ人々がより良い幸せな人生を送るために必要とするものである。神や霊魂で社会を救うことはできない」




 仏教を選んだ主な理由は


 一、仏教が不可触民制を産み出したヒンドゥー教とカースト制度と戦ったことである。


 二、人と人の間の平等で正しい関係を本質とし、現代科学のいかなる批判にも耐えられることである。


 三、貧困を美化せず、経済向上を正当と認めていることである。


 四、インドで生まれ、改宗がインド文化の伝統を損なうことがないことである。


 五、仏教が世界で認められており海外の仏教徒と提携できることである。




 「常にこの質問が出されました。どうしてそんなに高い教育を得たのか。もう一つの質問は、仏教に惹かれたのはどうしてか。この様な質問が出されるのは、私がインドで不可触民と知られる社会に生れたからです。この序文の質問に答える場ではないですが、2番目の質問に答える場であると思います。私の率直な答えは、仏陀の仏法を最高のものだと考えるからです。他のどの宗教も比較になりません。もし、科学を知った現代人が宗教を求めるならば、仏教という宗教しかありません。この確信は私が35年間に亘り、全ての宗教を詳細に研究してきた結果です」




 「平和を勝ち取った勝者は、被征服民を奴隷化させないまでも屈辱を与える権利があると主張する。しかし仏陀は全く違った考えを持っていた。平和に意味があるとすれば、勝者が打ち負かした相手の向上のためにその勝利を利用することにある。比丘たちにこう語った。『平和がもたらされた暁には、戦争の熟練者たちは有能で正しい人間として、丁寧な言葉、思いやりある態度、謙虚で打ち解けた感じの良い客人として振舞い、出しゃばらず感官を制御して、賢く、人を脅かしたりしない人であらねばならない。厳しい制裁をもって卑屈な態度で跪かせてはならない。全ての者が幸せと平和に暮らし、強者も弱者も、身分の高い者も低い者も、遠くに住む者も近くにいる者も、生まれた者、これから生まれてくるであろう者も、全てが平和に暮らせるようでなければ、ならない。誰も仲間に諂ったり、軽蔑したりせず、怒りや憎しみで他人を傷つけようとさせたりしてはならない。母親が我が子を命がけで庇おうとするように、生ける者全てを我が子と思う心を抱き、全世界への愛、内に憎しみを持たぬ汚れなき、敵意を起こさせない愛を抱かしめよ。このように、汝らは立つ時も歩く時も、坐ったり横になったりする時も常に全力をもってこのことを考えよ。これが清らかな状態である』と」




 「『縁起論』。それによれば神が存在するかしないか、神が宇宙を創造したかどうかは大した問題ではなく、本当に大事なのは、いかにして創造主が世界を造ったか、である。神を信ずるのが正しいのならそれはいかに神が世界を造ったかという答えによる帰結でなければならない。

 重要な設問。”神は無から何かを造ったのかそれとも何かから何かを造ったのか?”

 無から何かが造られたというのは信じられない。では何かから新しい何かを造ったのなら、その何かは神が造る前から存在していたことになる。彼以前に存在していた何ものかの創造者とはもはや呼べないのは明らかだ。つまり神は最初の原因、一切の創造者とはいえない。誤った前提に基く宇宙の創造者、神への信仰はそれ故にダンマではない。単なる錯覚である」




 「ブッダは自分が預言者だとも神のメッセンジャーだとも決して言っていない。彼はそう呼ばれることを断固拒否した。そして更に大事な点は、彼の宗教が発見であるということである。天啓といわれる宗教とははっきり区別さるべきである。彼の宗教は、現実的人間の生活状態の探求、人間が生まれ落ちた時から持っている本能の働き、歴史や風俗習慣の所産として人が形成し、マイナスにも働く本能及び性向の型などへの深い洞察の結果生じた発見なのである。総ての予言者は救済を約束した。ブッダはそのような約束をしなかった一人の教師である。ブッダは、救済者と求道者とを鋭く区別した。彼は求道者に過ぎず、救済は各人が努力で求めるべきものである」




 「ブッダは、自分は諸々の人間の一人であり自分の教えは人間に対する人間の言葉なのだと明言した。彼は自分の言葉の不謬性など決して求めなかった。彼が求めたのは、彼の言葉は彼のさとった救済に到る唯一真実の道だ、ということであった。そしてそれは人間の普遍的経験に基づき、誰しもがその教えに疑問を持ち、確かめどのような真実が潜んでいるかを見出すことができるものだといった。自分の宗教をかくも大胆な挑戦に晒した開祖はかつて存在しない」




 「ブッダがアナータピンディカの僧園にいた時のことである。昼になるとブッダは鉢を手にシュラヴァースティーの町に出掛けた。折からバラモンのアッギカの家で供犠の火がたかれていた。各戸を廻りながらブッダがアッガキの家に近づくとそのバラモンは腹を立て罵った。

 『こっちへ寄るな、乞食坊主奴!この穢らわしい不可触民奴が!』

これを聞いてブッダは穏やかに話しかけた。

 『バラモンさん、不可触民とは誰であるか、何が人を不可触民にさせるのかあなたは知っていますか?』

 『そんなことは知らない』とバラモンはにべもなくいった。

 それを知って損はないでしょう、というブッダの言葉に、そんなら説明してみろとバラモンは高飛車にいった。


 『苛立ち、憎しみを抱き、悪意を持ち、他人を誹謗し邪道に走り、人を偽る者が不可触民です。人を傷つけ人に慈悲を持たぬ者が不可触民です。他人のものを盗み、借りを返さず返済を求められると借りた覚えがないという者も不可触民です。つまらぬことのために人を殺め、自分のため、他人のため、金銭のために虚偽の証言をなす者も不可触民です。他人の妻を力づくで、あるいは合意の上で関係を結ぶ者も不可触民です。余裕がありながら年老いた両親を養おうとしない者も不可触民です。何が善であるか何が間違っているのかを問われて、こっそり教える者も不可触民です。いかなる者も生れで不可触民たることはなく、バラモンたることもありません』

 アッギカはこの言葉を聴き非常に恥じ入った」




 「ある者は適者生存説を基にそれを主張する。だが、適者が社会的観点から視て善なのだろうか?これについて恐らく誰も積極的な答えはできないだろう。この疑問の故に宗教は平等を説くのである。何故なら、善なるものが適者でなくとも生存できるようにするのが平等性だからである。社会が真に必要とするのは善なるものであって適者ではないのだ。宗教が平等を唱えるのは正にこのためである。これがブッダの考えであり、その故にブッダは平等を説かない宗教は宗教たるに値しないといったのである。人を悲しませることで己の幸せを得たり、自らを、あるいは、自他双方を嘆かせることで他人に幸せを与えたりする行為を奨励する宗教を信じられるだろうか。自らの幸せをも願いつつ他の幸せを図り、抑制を許すまいとする宗教の方が優れているとは思わないだろうか。このことをブッダは平等に反対するバラモンたちに厳しく問い続けた。ブッダの宗教は人間の良き性から湧き出た全き義なのだ」




 「ブッダのダンマは、神にも霊魂にも何の係わり合いはない。死後の生活に対してもそうだ。儀式や祭儀についても関係はない。彼のダンマの中心は人間であり、この世における人間対人間の関係なのだ。これが彼の最初の根本命題である。第二の命題は、人間は悲しみ、惨めさ、貧窮に生きている。この世は痛苦に満ち、この苦悩をこの世からいかに取り去るかがダンマの唯一の目的であり、それ以外の何ものでもない。この苦の存在を認識し、それを取り除く方法こそ彼のダンマの基礎であり根拠である。これがダンマの唯一の基礎と根拠であり、この認識を欠いた宗教はもはや宗教ではない」




 「清浄な道とは、傷つけず、殺さず、盗まず、他人のものを我がものとしない、真実ならざることを口にせず、欲情に耽らない、酔いをもたらす飲物に耽らない、ことである。この原則は総ての人間にとって最も基本的なことだ。総ての人間はその行為を判断する基準がなければならない。人は皆過つことがある。しかし過ちには二通りがある。規範を持つものと持たぬものの過ちである。規範を持たぬものは過ちに気づかず、規範を持つものは過ちから立ち直ろうとする。何故か?そのものは自分が過ちを犯したことに気づいているからである。問題なのは過ちを犯すことよりむしろそのような規範がないことである。

 このような原則を認めることが人生の規範として何故価値があるのかと問うかもしれない。もし諸君が、この原則は個々人にとって有益だろうか、世の中のためになるだろうか、と問うなら、その答えは自ずから見出せるだろう。その答えが確信をもって得られるなら清浄な道が人生の真の規範として認めるに足るものであることが分かるであろう」




 「人間の苦の認識をその宗教の基に据えた創始者はかつて歴史に存在しなかった。その惨苦の克服がその教えの目的であるといった創始者はかつて存在しなかった。その性格がかくも平明で、超自然、超人間的存在からかくも自由で、霊魂信仰、神信仰、死後の世界信仰からかくも解放され、それらにかくも敵対的な救済論はかつて歴史に現われなかった。天啓と何の関係もなく、神の秩序ではなく人間の社会的要求の究明からその至上の言葉を発している宗教はかつてこの世に存在しなかった。救済というものが現世において、人間の手によって、自らの努力で生み出された正しさによって得られる幸せとして考えられたことはかつてなかった」




 「心の清らかさとはいかなるものか?もし性的欲望を抱いている僧がいるとすれば彼はそれに気づいている。そのようなものを抱いていなければ彼はそれにも気づいている。彼はまた未だに生じていない性的欲望がいかにして生じてくるかも知っている。その欲望が生じたときどのように断ち切り、将来においてそのようなものがいかにして生じないかを知っている。もし悪意を抱くなら、自分の中に悪意がある、ということに気づいている。またそれがいかにして生じ、いかにしてそれを断ち切り、将来においていかにして再び生じないかを知っている。もし怠惰と無気力さ、興奮と動揺を抱き、疑心と迷いと貪欲を抱いていれば、彼はそのことを知っている。またいかにしてこれらのことが生じ、断ち切り、将来再び生じないかということを知っている。これが、『心を清らかさ』である」




 「ブッダは教育の重要さを強調したが、それよりその知識をどう活用するかを重視した。従ってブッダは、知識のある者は徳性を磨かねばならず、徳性のない教養は最も危険だと特に強調した」




 「誰の教えであれその権威を受け入れる前に、それが経典に書かれているからとか、理が巧みに説かれているからとかで直ぐ受け入れず、表面上の考察や、説かれている信条や考えが気に入ったとか、もっともらしく見えるからとか、偉い人がいったことだからとかいったことだけで受け入れてはならない。それらの信条や考え方が健康か不健康か、いけないことかいけなくないか、幸福か不幸かどちらに導くことなのかを充分考慮しろということである。これらに基づいてのみ私たちは他人の教えを受け入れることができるのである」