< ブッダと神 >




 「イーシュヴァラ(主宰神)が創造者だろうか?もしそうなら生きとし生けるものは黙ってそれに従うしかないだろう。一切は壺職人の手で作られた壺のようなものだからだ。イーシュヴァラによって世界が造られたのなら、悲しみや惨苦、罪のようなものはないはずである。浄、不浄な行いもイーシュヴァラから生じるからだ。もしそうでないなら、彼以外の原因があるはずだ。そしてそれは自ら存在するものではない。これでイーシュヴァラという観念が覆るのは分かるであろう。

 『絶対者』というものも原因たりえない。我々の周囲の総てのものは植物が種子から生ずるようにある原因によって生まれる。『絶対者』がどうして同じ形で一切の原因となりうるだろうか?もしそうだとすれば、原因とはなりえないはずではないか。また、『それ自体』が創造者だという。もしそうならもっと事物を楽しいものに造ればいいではないか。だが悲しみや歓びの原因は現実に客観的に存在する。それらが、『それ自体』なるものによって造られたといえるだろうか?だがもし、そこには一切の創造者、因果もないとすれば、我々の生活を形作り、目的のために色々と努力するのは何のためか?

 故に言おう。一切のものは原因なくして存在しない、と。しかし、イーシュヴァラも絶対者も自己自身も創造者たりえない。だが我々の行為は善悪共に生み出す。一切は因果法則の下にあり、そこに働く諸原因は心に係わりがある。それは金で出来た容器は総て金であるようなものだ。

 それ故イーシュヴァラ信仰を棄てよ。益のない神秘さなどに思い耽るのを止めよ。自己と我欲を棄てよ。あらゆるものは原因があって生じるのだから、善いことで我々の行為が生まれるように善をなそう」




 「ブラフマー(梵天)が自ら不滅にして全能、裁く者、創造主、自己自身の主、全てのものの父と称し、お前たちは総て私によって造られたのだ、というのなら、どうして我々はかくも儚く一時的で不安定で消滅すべく運命づけられているでしょう。またもし神が全能にして創造の源であるとすれば、私たちは何をしようと望めばいいのでしょう。何か積極的に行おうという意志はどこから湧いてくるのです?この世の事柄について何も重要な役割を与えられていない消極的存在で終わるしかないでしょう。もしそうなら、ブラフマーは何のために人間を造ったのです?もし神が全き善であれば、人は何故人を殺し、盗み、不貞を働き、嘘をつき、中傷し罵り合い、貪欲で悪意を持ちねじ曲がっているのですか?その原因はイーシュヴァラにあるのではありませんか。全き善なる神にそういうことができるのでしょうか?もし至高の創造者が義と慈愛そのものであるならこの世はどうしてかくも不正に満ちているのでしょう?この病んだ社会を視る眼があれば、ブラフマーは自分の被造物をどうして真直ぐにしてやらないのでしょう。無限の能力を有しているにしては、彼の恵みを受けるものは余りに少ないではありませんか?何故彼の被造物は総て苦しまなくてはならないのです?何故彼は総てを幸せにしてやれないのです?何故虚偽が真実を打ち負かすのです?真実と正義が何故敗北するのでしょう?不正の隠れ蓑にしかすぎぬような世界を造ったブラフマーは最も邪悪な存在のひとつだと私は思います。

 総ての被造物に祝福、悲しみ、善、悪、なんであれかなえてやれる全能者がいるとしたらそのものは罪で真黒でしょう。人が自らの意志で生きてゆくのでないとすれば、人を動かす神は不正、不善、そして盲目ということになるでしょう」