< 悟性とベルクソン >




 概念的思考が精神の奥底に到達する力を具えていないと感じた哲学者は沢山いる。従って、超悟性的能力として直観を論じた哲学者も沢山いる。しかしそれらの哲学者は悟性が時間の中ではたらいていると信じたので、そこから、悟性を超越するには時間の外に出ればいいと結論した。悟性化された時間が空間であること、悟性がはたらきかけるのは持続の亡霊に対してであって持続そのものに対してではないこと、時間の削除は我々の悟性の習慣的な正常な日常の行為であること、我々の精神に対する認識の相対性が正にそこから来ていること、従って、悟性作用から視覚、相対から絶対へ移るには、時間から外へ出るには及ばない(しかも我々は既に外へ出ている)ことなどを、これらの哲学者は見ていなかった。ところが実は持続の中に立ち戻って、事象の本質となっている動きの中で事象を捉えなければならないのである。一跳びに永遠なものの中に飛び込むと称する直観は、悟性的なものに執着している。そういう直観は悟性が提供する概念の代わりにただそれらの概念を悉く纏め、従って、実体とか我とか観念とか意志とかどんな名で呼ぼうといつも同じ唯一の概念を置き換えるだけである。こういう意味の哲学は必然的に汎神論となり、あらゆる事物を演繹的に造作なく説明するのは、概念の概念である一つの原理の中に予めあらゆる事象的なものとあらゆる可能的なものを入れて置いたからである。しかしそういう説明は漠然として仮説的となり、そういう統一は技巧的になり、そういう哲学は我々の世界とは全く違った世界にも当て嵌まる。事象の波動を辿る真に直観的な哲学が出来れば、どの位教えるところが多いであろう。それは事物の全体を一挙に抱擁しようとこそしないが、各の事物に対して、正確に排他的に当て嵌まるような説明を与えるであろう。世界の体系的統一を定義したり叙述したりするところからは始めないであろう。世界が実際一つかどうか誰にわかろう。経験のみがそれを告げることができる。もしその統一が実在するとすれば、それは探求の終点に結果として現われるが、それを原理として始点に置くことはできない。とにかくそれは豊富で充実した統一、連続の統一、我々の事象の統一にはなるが、最高の普遍化から出て来て、どんな可能な世界の統一にもなるような抽象的で空虚な統一ではない。





 本当の経験論は、原文そのものにできるだけ迫ってその生命を深く探り、一種の精神的聴診によってその魂が鼓動しているのを感じようと志すものであって、この本当の経験論が真の哲学である。その仕事が極端に困難なのは、思考が日常の操作に使っている出来合いの考え方が一つも役に立たないからである。我は多様であるとか我は統一であるとか我は多様と統一との総合であると云うほど容易なことはない。そういう統一や多様は、わざわざ対象に合わせて寸法を取る必要もなく、既に出来上がっていて、一と山の中から選び出しさえすればいい表現で、ピエールの形もポールの形も表わしていないからこそピエールにもポールにもうまく合うレディーメードの洋服なのである。ところが経験論の名にふさわしい経験論、寸法を取って仕事をする経験論はその研究する新しい対象の一つ一つに対して全く新しい努力を加えなければならない。





 我々が誰でも内から、単なる分析によらず直観によって把握する事象が少なくとも一つある。それは時間を通じて流れて行く我々自身である。持続する我々の自我である。我々はその他の如何なるものとも、悟性的に寧ろ精神的に同感することはできない。しかし我々は確かに我々自身とは同感する。





 それはこれらのくっきりした結晶とこの表面の擬結の下にあって、私が前に流れていると思ったものとは少しも比較することのできない流動の連続である。その次々に現われる状態の一つ一つは次に来るものを予告し前に行ったものを包含する。本当を云うとそれらが多数の状態となるのは、私が既にそこを通り過ぎてその後を観察するために後に振り返る時である。私が体験していた間は、それらの状態は固く有機的に結びつき深く共通な一つの生命を持っていたために、そのうちのどれか一つが何処で終り別のものが何処で始まるか訊かれても云うことはできなかったであろう。実を云うとどの一つも始まらず終らず、すべては互いの中に没入しているのである。

 それはまた巻き物を拡げるようなものだとも云える。生物はどれでも自分が少しづつ巻き物の終りに近づいて行くと感ずるからである。生きるとは老いることである。しかしそれはまた毛糸を珠にするように絶えず巻いて行くこととも云える。我々の過去は我々に従い、その途上で現在を拾っては絶えず大きくなって行くからである。意識は記憶を意味する。

 実を云うとそれは巻くことでも解くことでもない。この二つのイメージが呼び起こす線や面の表現は部分が互いに等質で重ね合わせることができるからである。ところで意識のあるものには同一な瞬間は二つとない。最も単純な感情を取ってそれを恒常的と仮定し、その中で自我全部を吸収させたとする。この感情に伴う意識は相継いで来る二つの瞬間の間でも同一には留まることができない。次の瞬間はいつも前の瞬間の上に更にそれが残した記憶を含んでいるからである。同一な瞬間を二つ持つ意識などというものは記憶のない意識にならう。そうするとそれは絶えず滅びては生まれかわる。取りも直さずこれは無意識を表わすものではないか。





 単純すぎる概念の不便な点は、それが実は符号であってその示す対象にとって代わり我々から少しも努力を要求しないところにある。よく観察すると概念の一つ一つは対象から、その対象と別の対象とに共通なところしか取って来ていないということがわかる。





 一人は決定論、一人は自由を主張する二人の哲学者が、議論するのをお聴きなさい。必ず決定論者の方が正しいように見える。決定論者の方が新参でその相手が経験を積んでいても構わない。相手の方は自分の主義のために汗と血を搾っているのに、決定論者の方は気楽に自分の主義を弁護することができる。いつもその方が単純で明白で真だと云われる。それが容易に自然にそうなっているのは、ちゃんと用意のしてある思想と既に出来上がっている文句を拾って行きさえすればいいからである。




(ベルクソン)