< 日本的霊性と仏教 >



 インドの仏教がシナを通って日本へ入った。日本はそれまでにもシナ文化の影響を受けて来たので、仏教は何事もなしに日本に取り入れられると思われた。ところがそうでなくて、派が分かれた。取り入れにつきて論争があった、政争があった。論争は論争として、政争のあったことは不幸な事象であった。が、いずれにしても仏教は日本へ入った。華厳も天台も三論も唯識も倶舎も入った。入ったと言えば入ったのであるが、今日ではそれらの宗旨は理論として研究はせられるが、我ら日本人の実際の生活の中へは少しも入ってこない。奈良時代に繁昌したとも言えば言うものの、いずれも上層階級で概念的にか、然らざれば享楽的に流行したに過ぎないのである。インドから直接に仏教が日本へ伝来したならば、どんなふうにそれが受取られたであろうか。それは固よりわからぬが、シナを通ってきたときとは、大いにその趣を異にしたであろう、それに違いない。しかしシナを通って来たので、日本は何かと言っても、遂に受け入れることになったのである。


 それでも移植の初期には、仏教は前記の如くに、なかなか日本的なものにならなかった。シナの仏教という風貌を帯びていた。日本的霊性は、まだ仏教を通して現われるということにならなかった。


 仏教がシナを通って日本へ入って来たという歴史的事実には、何かの計らいで、何かの意味があったかも知れないと思われることがある。そうまで言わないでもよいかも知らないが、とにかく中央アジアを通ってシナ本土へ来て、それから日本へ来て、日本に落ち着いた仏教である。その仏教はいわゆる外来底でなくて、日本へ落着いて、日本的霊性の洗礼を受けた仏教であるから、インドのものでもシナのものでもない、日本の仏教というものである。日本的になったと言っても十分でない、日本的霊性による肯定と言うべきだ、そうしてそれと同時にまた東洋性をもつものであると言うべきだ。なぜかと言うに、インドで発生した仏教は固よりインド性をもっている。それが中央アジアを通ったので又その地方性をもってきたが、それからシナで一大転換をやったので、シナ性は十二分にある。そうして最後に日本に入ってきて日本的霊性化したので、日本仏教はすべての東洋性をもっていると言わねばならない。ただそれだけでない、仏教は南アジア方面をも通って来た、そして南方的性格をもその中に包蔵しているのである。「日本」仏教なるものは、それ故に北方民族的性格も南方民族的性格も、インド的直覚力もシナ的実証心理も、みな共に具有しているのである。そしてそれらの特殊の性格が、ただ雑然として物理的・空間的に日本仏教中に並列しているのでなく、日本的霊性が中枢になって、それらを生かし、働かしているのである。東洋を引っくくって一つにして、それを動かす思想がどこにあるかというと、それは「日本」仏教の中に探すよりほかあるまい。もちろん仏教そのままの形では、諸方へ持ち出しても役に立つまいが、その中に流れている渾然たる日本的霊性なるものを見つけて、それを近代的思索の方法で宣布しなければならぬ。日本的霊性には、世界的に生きるべきものを包摂しているのである。この点につきては、また別に論ずべきであるから、今は略して、日本仏教の中にどんなものがあるかを見ることにする。


 仏教はインドで亡びたから、そんなものは日本には用はない、というような考えをもつものも時にはある。これほど浅膚な議論はない。形だけを見て、その形を動かしているものを見ないと、こんな考えが出ることもある。ことにインドでは、仏教という宗派は消えたようである。伝統的カースト制に反対した仏教は、政治的勢力を失った。これは已むを得ぬが、その精神は今日でも他宗派の中に取り入れられている。ガンディの如きは、実にこの精神に生きている人の一人である。

 仏教がインドで首尾よくいかなかった主な原因は、仏教があまりに抽象的に概念化して、生活そのもの即ち大地に根ざした生活の分離してきたからのことである。霊性は、どこでもいつでも大地を離れることを嫌う。霊性は最も具体的なることを貴ぶ。何が具体的かというと、哲学的にはなかなかの問題であるが、ここで言うのは、常識での範囲でのことである。山を山と見、水と水と見るのが、具体的な見方なのである。水を冷、湯を暖と感ずるのが具体的な感じ方なのである。大地を離れぬというのもそれである。有が無で、無が有であるとか、心がどうの、意がどうの、識がどうのというのは、抽象的である。すべて「中論」や「唯識」などで論じているところの思想は、みな概念的で、大地を離れていると見てよい。脚実地を踏まざる底のものである。仏教が自己の行為に対して規制を加えている限り、即ち僧伽的生活を厳守している限り、仏教の生命はある。何かの意味で、それに倦怠を覚えたりする時節が来ると、思想的遊戯が行なわれる。固より思想も行為であり生活である。その点で具体性をもつのであるが、その思想が思想として大地との繋がりを離れて、風船玉の如くなると、人に対しての迫力を失脚する。ここに活句と死句とがある。仏教はインドで死句となった。が、幸いにそれがシナへ来て、シナ民族の実証性・実義第一主義の中に再生することになった。


 シナは四書、五経の国である。シナには「ヴェーダ」もなければ、「ウパニシャッド」もない、「華厳経」もなければ、「マハーバーラタ」もない。インド民族のもつ奔放な想像力と幽遠な思索力とは、シナへ入って五常、五倫の平常道に結び付くとき、初めて何かの役に立つものとなる。役に立つとは、実義第一主義である。利用厚生はシナ民族の理想である。仏教も現世利益でなければならぬ。


 インドの空想と思惟力とがシナの平常道に融合して、それが日本へ来て日本で生長したのだから、いわばすべてご馳走のうまいところをみな吸いあげたと言ってよい。そうしてそれが一方では禅となり、他方では浄土系思想として現われ、念仏として受入れられた。日本の仏教は・・・牛乳の一番いいところをクリームと言う、それがバター、チーズとなるのであるが、インド流には醍醐という・・・この醍醐が日本仏教の禅と念仏なのである。禅と念仏が取り上げられると、日本の仏教はその大体を尽くすことになる。日本的霊性の仏教に加わって、それを活かしているところは、実にここにあるのである。





(鈴木大拙)