日本の子どもの歌
日本の子どもは、さきにあげた主婦の投書にあるような生活環境の急激な変化にもかかわらず、たとえば太郎という友達のところへ遊びに行ったときには、あいかわらず、上掲譜例(た ろ う くん あ そ び ま しょ)のようによびかける子どもである。そして、このよびかけの音階は、江戸時代のわらべうたの音階そのままである(小泉文夫「日本伝統音楽の研究」1958年)。そういう日本の子どものための音楽教育の方法を十分に考えることこそが、音楽熱心な母親たちの願いにも、本質的な意味でこたえることになり、同時に子どもの歌を発展させることにもなるのだ、と私たちは考えている。
学制公布直後から音楽取調掛設立までの数年間にも、唱歌教育は学校単位あるいは教師個人の努力ではじめられていた。その唱歌教育の教材としてつかわれた音楽は、雅楽、三味線音楽系統の俗楽、当時の中国現代音楽であった明清楽、洋楽などというように多種多様であった。
ここで注意しなければならないことは、このようにさまざまな音楽を学校に取り入れようという試みがあったにもかかわらず、このなかにわらべうたがなかったことである。当時、学校で子どもたちにどんな歌を与えたらよいかは分からなかったとしても、その時代の子どもたちが、学校以外の日常生活では手毬唄、お手玉唄、羽子突き唄など、今日ふつうわらべうたといわれている伝承童謡をうたっていたのである。このわらべうたは、子どもたちの集団的な遊びの中から自然発生的にうまれたもので、その大部分は発生時代もはっきりしていないが、江戸時代末期から明治初期には、かなり豊富になっていた。わらべうたについては最後の章で詳述するが、たえず流行歌謡やジャズに接している今日の子どもたちも、地方によっては、集団的な遊びの中で、まだまだわらべうたを歌っているし、ある場合には、昔のことばを現代のことばに入れかえたり、すこしメロディーを変えたりして歌ってさえいるのである。
ところが明治の新制度の小学校では、わらべうたは、卑俗なものだから文明開化の新しい時代にはふさわしいものではないとされてしまった。
しかし、わらべうたの手毬唄などでは、往々大人の作った卑猥な歌詞が其まま使われていた。それらは、子どもたちが歌うのには、あきらかにふさわしくないものであった。この時代には、そういう歌は、教訓的な内容の歌詞にかえられてしまった。
伊沢修二は、日本古来のわらべうたから適当なものをえらんで、それを基礎としながら、異質のヨーロッパ音楽を取り入れていこうという、きわめて慎重な態度をとっていた。伊沢はやがて音楽取調掛長となって、小学唱歌作成の最高責任者となる。
滝廉太郎が作曲に取り組んでいたのは、ちょうど十九世紀から二十世紀へかかるときであった。これは、『小学唱歌集』がでてから二十年ちかく経過し、日本の子どもの歌にも、これとはちがった新しい傾向の萌芽があらわれはじめた時期であった。しかしその新しい芽をおさえようとする動きもまた強かった。この時期には、新しいものの芽と古いものとがぶつかりあい、つぎの大正期における童謡運動が準備されていたといってよいだろう。
小学校の場合は、1907(明治四十年)年の小学校令改正によって尋常科(六学年)の唱歌は必須科目と決定され、それと同時に文部省の手で唱歌集が編集されはじめた。それは、『尋常小学読本唱歌』にはじまり、『尋常小学唱歌』によって完成された。「春が来た」「虫の声」「われは海の子」などの歌が、ここにおさめられている。これらが、いわゆる「文部省唱歌」であり、昭和に入って『新訂尋常小学唱歌』(1932年)が出されるまで、ほぼ二十年間、ほとんど大部分の学校で教材として使用され、また新訂版にも多くの唱歌がそのままつづけてのせられることになった。
文部省唱歌では、その編集の動機からもわかるように、「気品の高さ」がまずもとめられ、日本の子どもの要求や彼らの音楽性にあうあわないという問題は、二の次となっていた。たとえば、「虫の声」にしても、「あれ松虫が鳴いている・・・ああおもしろや 虫の声」は、子どもの歌ではない。虫が鳴いているのを聞きつけると、「あ、虫が鳴いている」とよろこびの声をあげ、それを先ず捕まえに飛びだしていくのが、本来の子どもの姿ではないだろうか。文部省唱歌は、「気品の高さ」をたもつための必要条件をなんとかして満足させようとして、結局は、編集委員たちの最大公約数的なもので満足するほかなく、多数の人の最大公約数となったとき、それは芸術作品ではなくなるのではないだろうか。したがって、文部省唱歌は、一方では滝廉太郎が芸術としての水準の向上を目指し、他方では言文一致唱歌の運動が子どもへ接近しようとしていたという当時の二つの改革の動きと逆の方向をむいていたといえよう。
「かなりや」をはじめとする当時の童謡は、文部省の検定をうけていなかったので、学校の教室では大っぴらに教えるわけにはいかなかった。だから、童謡に共鳴した教師も、遠足へ行く途中や放課後などに、それこそ「そっと」教える以外になかった。それにもかかわらず、これはたちまちのうちに全国へひろがったのである。
明治期には、子どもたちが表現したいと感じていたもの、あるいは彼らが日常生活でうたっている歌と、学校であたえられる唱歌などの「芸術」教材とのあいだに、大きな食い違いのあることを、多くの人たちが感じ取りはじめたのである。
彼(北原白秋)はことあるごとに学校唱歌を痛烈に批判した。彼は、「建武の昔、正成は、・・・」とか「四百余州をこぞる十万余騎の敵・・・」といったたぐいの歌をつぎつぎに思い出せば出すほど、はげしい憤りを感ずるといっていた。たとえば、「ヨキノテキ」とはいったいなんだ、というふうにやっつけていた。
そして学校唱歌のあやまりの根本は、次のようなところにあると主張した。
第一は、日本の子どもたちが長い間歌ってきたわらべうたの悪い面だけを見て、それを捨て去ってしまって、その代わりに風土習慣の全然ちがったヨーロッパの音楽を持ってきたことであり、第二は、子どもの生活感情についてまったく理解を欠いていたことであるといい、「かうして児童の生活はまさしく学校と家庭とに於いて二分されてしまった」のだといった。
わらべうたという民族的伝統と日本の子どもの生活感情とを尊重することは、『赤い鳥』をはじめとする当時の童謡運動の基調となっていた。(そうはいうものの、たとえば、西条八十の場合は、西洋文化の影響を強く受けた都会風にかたより、野口雨情の場合は、「郷土」に力点を置くというような違いはあった)
曲についてみると、『赤い鳥』では、その募集にあたっての社告で、「一、飽くまで日本的諧調であるべきこと。二、平明。三、選ばれた謡の言葉の律動が、曲の上でも同じように、謡はれる調律の基礎となっていること」という三つの条件にかなった曲を作ってほしい、としている。ことばと旋律との一致に努力しようとすれば、必然的に伝統音楽を取り入れることになり、したがってそれが日本人にとって「平明」な曲になるのは当然であった。
白秋は、明治以来わらべうたが学校教育で完全に無視されてきたように言っているが、しかしまったく無視されたという訳ではなかった。しかし、わらべうたは、曲、歌詞ならびに教授法にいたるまですべて不自然なかたちで取り入れられたので、学校でこれを教えても子どもはあまり歌わなかった。このためかえって、わらべうたは明治という新しい時代の子どもにはふさわしくない歌であるという印象を多くの人に与えることになってしまった。
それ以後、白秋らの主張があらわれるまで、キリスト教団の経営していた幼稚園でヨーロッパのわらべうたが紹介されることはあっても、日本のわらべうたを子どもたちに教えてくれる学校も幼稚園もなくなってしまった。もちろん子どもたちは、教えられなくても、街の路地や村の神社で遊ぶ時には、わらべうたを歌っていた。
子どもたちの生活、とくに十歳ぐらいまでの子どもたちの生活の大部分をしめている遊びに目を向ければ、いやでもわらべうたに着目しないわけにはいかなくなってくる。しかし、その場合にも、子どもたちのうたうべき歌は学校唱歌である、という固定した考えをもたされてきた大部分の教師たちは、子どもたちの生活をなにものにも囚われない目で見つめることが出来なくなっていたことに注意する必要があろう。
白秋が学校と家庭の分裂といった学校唱歌と伝統的音楽とのあいだの断層に、もう一つ「芸術音楽」が加わって、三者のあいだの溝が容易に埋められないほど深くなっていったのが、この大正期だったのである。
さきにあげた童謡の作曲者たちも、音楽の専門家となるため、日本の大衆の音楽から絶縁していくような専門教育をうけてきた人たちであった。しかし同時に、子どもたちのために新しい歌を作曲しようと、この人たちがはげしい情熱を持ち意欲的に仕事に取り組んだことは確かである。
成田為三は、この童謡運動に全精力を注ごうとしていたのだが、しかしそこから生まれた作品は、必ずしも白秋の目指した童謡復興という方向ではなく、ヨナ抜き長音階という小学唱歌調のわくをこえて、ヨーロッパ音楽を積極的に取り入れることによって、日本の子どもの歌を改革しようとするものであった。
1921(大正十)年の「船頭小唄」(中山晋平)において、伊沢の和洋折衷論以来、禁断の木の実であったヨナ抜き短音階を使用し、そこにひそんでいる都節(陰音階)をうきたたせることによって、日本的な哀調をうたいあげることに成功した。心の底で古い三味線音楽への愛着を感じていた日本人に、この曲が強く訴える力を持っていたことは、当然であった。また、1923(大正十二)年の関東大震災のとき、多くの被災者と共に上野の山へ逃げてきていた西条八十は、そこでひとりの少年が笛で吹いていた日本的な哀調をおびてた曲にみんなが聞きほれているのを見てはげしい衝撃をうけ、それまでの都会的な作風を反省することになった。
田村虎蔵は、さきに言文一致唱歌を提唱して小学唱歌の改革を進めた人だが、この童謡に対しては、それが童心を捉えていることは一応認めながら、「童謡は所謂童謡であって、歌曲共に其程度の低いのが特色である」というふうに、あたまから決めつけた。彼は言文一致唱歌を提唱した時代と、立場が全く逆になったわけである。この協会に属する他の人たちも、童謡は「情緒的・頽廃的・軟弱・卑俗」であるとして批判していた。しかし、それではどういう歌を子どもたちに歌わせたらよいか、という根本的問題については、この協会(日本教育音楽協会)はなんら積極的発言をせず、文部省唱歌をどのように子どもたちに歌わせるかを工夫することに、もっぱら努力していた。
昭和初期の問題としては、むしろ、1930(昭和五)年前後におこったプロレタリア童謡運動に注目しておく必要がある。それが当時直接に影響をあたえた範囲は、かならずしもひろくなかったが、しかしそこでは、大正期の童謡とそれを生み出した児童観とを批判していたし、また音楽と社会とのむすびつきという今日なおさまざまな論議のおこなわれている問題について一つの主張をかかげていた運動だからである。
プロレタリア童謡は、大正末期から昭和初期にかけてさかんになってきたプロレタリア文学を基盤として起こってきた。そこでは、『赤い鳥』をはじめとする童謡運動における子どものとらえ方が問題とされた。それは、大正期の童謡詩人たちは子どもの純真さをうたってきたが、しかし、地主や資本家の子どもと農民や労働者の子どもとがおなじ生活をしているのか、おなじ心や夢や要求をもっているのか、そんなことはありえない、という階級的立場からの『赤い鳥』批判であった。
子どもの歌は、ときに、おとなの心のなかにある獣性を浄化することがある。ある種の子どもの歌のもつ純粋さには、説明しがたい力があるものだ。一切の権威や政治的圧力さえも、その純粋さに抗しきれないときがある。
国民のすべてが、なんらかの意味で人間性をそこなわずには生きていられなかった時期に、それは、おとなたちにとって大きな浄化作用となったのである。かつて親しまれた童謡が、おとなにも子どもにも、現実の悲惨を忘れさせる役割をもった。いや、単なる慰めであっただけでなく、鼓舞でさえあったと思える。とくに、太平洋戦争の直前から約十年の間、明けても暮れても、軍歌と軍国童謡をうたわされつづけていた子どもたちにとって、これらの童謡は、たとえ過去の再現ではあっても、新鮮な喜びをあたえる力を、十分にもっていたと考えられる。
”ご ろ う さん あ そ び ま しょ あ〜と で さ よ な ら” ”お〜さ む こ さ む やまから こぞうが ないてきた”
子どもの日常会話を採譜してみると、その音組織は、昔から日本の子どもがうたい伝えてきたわらべうたの音組織と同じであることがわかる。
音楽教育を日本語から出発させ、その音楽性の発展としてのわらべうたを各地で生かしていけば、それは、日本語とその教育の改革にも影響をあたえ、真の意味の共通語の確立にも役立つことになるだろう。
以上の教育は、幼稚園あるいは小学校低学年の子どもに適用することであって、いつまでもこれを継続しようというのではない。なぜなら、わらべうたの中でもっとも複雑な構造をもつ五音歌でさえ、小学校の中学年または高学年の子どもは、遊びの歌としてこそ歌うであろうが、一個の歌曲として愛唱することはないからである。しかし、この場合でも、日本の伝統楽器である、太鼓、鼓、琴などを、子ども用に改造し、それらをリズム楽器としたり、または、日本の笛を子ども用に改造したり、ときには外国のブロックフレーテやあるいはシロフォンなどを旋律楽器として加えることによって、歌の伴奏部分を作り、また踊りや遊戯的動作とともに演奏すれば小学校高学年あるいは中学校の生徒にも、十分に楽しめる楽曲となりうる。
上のように、音楽教育の出発点にわらべうたを取り入れ、そこからしだいに子どもたちの音楽性を豊かにしていこうという方法を提出すると、ただちにいくつかの疑問が出されてくる。その疑問を整理してみると、だいたい次のようになる。
第一は、いまの子どもは、わらべうたなどはもう歌っていない、あるいは、もう古いわらべうたは残っていないのではないかという疑問である。しかし、それは、子どもたちが遊びの中でどんな歌を歌っているかということを実際に調べてみたうえでの疑問ではないようだ。私たちも、東京の子どもたちは、わらべうたを歌ってはいないと思っていた。しかし、私たちは、調査の結果、わらべうたが東京の子どもたちにもまだまだ歌われていることを知った。
第二の疑問は、わらべうたに対する子どもの興味は、子どもの成長と共に薄らいでしまうのではないかという疑問である。そういう面は確かにある。しかし、これに対しては、まずこれまでの教育の過程でどれだけわらべうたが意識的に取り上げられたかという反問が必要である。そしてそれと同時に子どもの発達に即して、二音、三音、四音の単純な音組成から、五音、七音の音階にまで発展させ、その基盤の上に、東洋、西洋、あるいはジャズにいたるまでの多様な楽曲を積極的に取り入れるような教育を考えなければならないのである。そうしてこそ、日本の子どもは、もっともとらえやすい音組成から出発して、ついには、豊かな音の世界を享受する能力をもった人間に育っていくと考えられるからである。
第三の疑問は、一般にハーモニーをもたなかった日本の音楽で、子どもの和声感は育てられるのかということである。しかし和声といっても、従来は、ドイツの機能和声を絶対的なものとして教えていたのであって、日本旋律の複音化から生まれたものではなかった。日本の和声についての研究もようやく結実しはじめ、実際の作品の上でそれを追求している作曲家も出てきた。
第四は、日本のリズムは、本来、単調であって、現代の子どもたちの要求を満たすことができないのではないかという疑問である。しかし、民謡や民舞の中には(祭囃子も)、今日もなお生かせるダイナミックなリズムが豊富に残っているし、それらはまだ埋もれたままになっていることが多い。出発点を日本語に求め、さらにその発展を、運動(舞踏)と器楽との結合に求めようとする音楽教育には、民謡、民舞(祭囃子)のリズムを新しく発展させる可能性が十分にある。
最後に、日本語そのもののリズムが単調だから、わらべうたなどは現代の子どもには喜ばれないのではないか、という人がある。たしかに、日本語のリズムは単調である。けれども、それだからといって、音楽教育のはじまりから、日本語の語感を無視して、ヨーロッパ音楽の音階から始めることが正しいといえるだろうか。私たちは、やはり、日本語の語感とその旋律化であるわらべうたから始めることを正しいと思う。なぜなら、日本のわらべうたでも、子どもの遊びの歌や行事の唄には、ダイナミックなものがあるし、民謡でも、仕事の歌や祭りの歌などには、強烈なリズム感をもったものがある。
私たちがわらべうたを活用するというときも、遊びや踊り、つまり、運動と結びついたものを選び、さらにそれにリズム楽器を加えて、子どもの活動力を満たそうと考えるのである。
バルトークの教育上の業績とその方法は、一言でいえば、ハンガリーの民族音楽の根本である子どもの古謡(わらべうた〜それは五音階である〜)から出発する教育である。そのような方法を取る理由は、ハンガリー語は、フィン・ウグリア系のウグリア語に属するので、他のヨーロッパ語とまったく違ったものであり、それによって生まれた古謡の旋法(音階)も独特のものだからである。
普通教育と専門教育との区別なく、すべての子どもの音楽教育において民族的伝統音楽を出発点とすることが、世界各国共通の傾向となりはじめているのである。
音楽の根本的な喜びは、自分で歌ったり、自分で弾いたりすることであり、それを通じて音楽能力を育てることである。しかも、自分自身で歌ったり、弾いたりする過程で、自分自身の音楽を客観的に聞くということも、子どもの発達段階に応じては必要になってくる。そこに、観賞指導の成立する根拠がある。
今日の日本の音楽文化全体を、外来音楽と民族音楽とに形式的に分割し、後者だけを尊重するという態度では、創造力はやせほそってしまう。
わらべうたを通じて、日本音楽の伝統的諸要素をしだいに理解させ、また、それによって音を身につけさせていこうというのである。
(1962年 園部三郎)