<ブッダ言く>
仏言く、「親を辞して出家し、心を識り本に達して無為の法を解するを、名づけて沙門(三学を修して、三毒を滅すの意。修行者)という。常に二百五十戒を行ない、進止清浄にして四真道(四諦)の行を為し、『阿羅漢』(尊敬さるべき人)を成ず。阿羅漢とは能く飛行変化し、曠劫寿命、住めば天地を動かす。次をば『阿那含』(決して帰って来ない者)と為す。阿那含とは寿終り、霊神十九天に上って阿羅漢を證す。次をば『斯陀含』(もう一度だけ生れかわって覚る者)と為す。斯陀含とは一たび上がり一たび還りて即ち阿羅漢を得る。次をば『須陀亘』(永遠の平和への流れに乗った者)と為す。須陀亘とは七たび死し七たび生れて即ち阿羅漢を證す。愛欲断ずるというは、四肢の断じてまたこれを用いざるが如し」
仏言く、「出家沙門というは、欲を断ち愛を去りて自心の源を識り、仏の深理に達して無為の法を悟り、内に所得無く外に所求無く、心、道に繋がれず、また業に結ばれず。無為無作、非修非證(妄念なく無為にして、行を修し理を證するの情念を離る)。諸位を歴ずして、自ら崇最なる、これを名づけて道という」
仏言く、「鬚髪を剃除して沙門と為り、道法を受ける者は、世の私財を去り、乞い求めて足ることを取り、日中一食、樹下に一宿して、慎んで再びすることなかれ。人をして愚蔽(おろかにしてくらきこと)ならしむるものは愛と欲となればなり」
仏言く、「衆生十事を以て善と為し、また十事を以て悪と為す。何等をか十と為す。身に三、口に四、意に三あり。身に三というは、殺、盗、婬。口に四というは、両舌、悪口、妄言、綺語。意に三というは、嫉、恚、痴。この如く十事、聖道に順はざれば十悪行と名づく。この悪もし止めば十善行と名づく」
仏言く、「人に諸々の過ち有り、而も自ら悔いて頓にその心を息(や)めざれば、罪来たリて身に赴くこと、水の海に帰して漸(ようや)く深広となるが如し。もし人に過ち有るも、自ら解して非を知り、悪を改め善を行ずれば、罪自ら消滅すること、病に汗を得れば漸く病を除くことあるが如きのみ」
仏言く、「悪人、善を開いて故(ことさら)に来たリて撓乱(毀謗打罵の類の如し)するも、汝自ら禁息して当に瞋責すること無かるべし。彼の来たりて悪む者は、而も自らこれを悪めばなり」
仏言く、「人有り、吾が道を守り、大仁慈を行ずるを聞いて、故に仏を罵ることを致す。仏、黙して答えず。罵り止む。問うて曰く、『汝、礼を以て人に従うに、その人、礼を納れずんば汝に帰せんや』。答えて曰く、『帰せん』。仏言く、『今、汝我を罵る。我今納れず。汝、自ら禍を持して汝が身に帰す。なお響きの声に応じ、影の形に従うが如し、終りに免離すること無し。慎みて悪を為すことなかれ』」
仏言く、「悪人の賢者を害するは、なお天を仰いで唾するに、唾、天に至らずして、還って己に従って堕ち、逆風に塵を揚ぐるに、塵、彼に至らずして、還って己が身を穢すが如し。賢は謗るべからず。禍必ず己を滅さん」
仏言く、「博く聞いて(多聞)道を愛すれば、道必ず会し難し。志を守って道を奉ずれば、その道甚だ大なり」
仏言く、「人、道を施すを観て、これを助けて歓喜すれば、福を得ること甚だ大なり。沙門問うて曰く、『この福(施者の福)、尽くるか』。仏言く、『譬えば一炬(かがり)の火あり、数千百人各炬を以て来たり、分ち取りて食を熟(に)、冥を除くも、この炬故(もと)の如くなるが如し。福もまたこの如し』」
仏言く、「悪人百に飯せんよりは、一の善人に飯するに如かず。善人千人に飯せんよりは、一の五戒(不殺不戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不飲酒戒)を持する者に飯するに如かず。五戒の者万に飯せんよりは、一の須陀亘に飯するに如かず。百万の須陀亘に飯せんよりは、一の斯陀含に飯するに如かず。千万の斯陀含に飯せんよりは、一の阿那含に飯するに如かず。一億の阿那含に飯せんよりは、一の阿羅漢に飯するに如かず。十億の阿羅漢に飯せんよりは、一の辟支仏に飯するに如かず。百億の辟支仏に飯せんよりは、一の三世諸仏に飯するに如かず。千億の三世諸仏に飯せんよりは、一の無念無住無修無證の者に飯するに如かず」
仏言く、「人に二十の難あり。貧窮にして布施すること難し。豪貴にして道を学ぶこと難し。命を棄てて必ず死すること難し。仏経を観るを得ること難し。生れて仏世に値うこと難し。色を忍び欲を忍ぶこと難し。好ましきを見て求めざること難し。辱しめられて怒らざること難し。勢ありて臨まざること難し。事に触れて無心なること難し。広く学び広く究めること難し。我慢を除滅すること難し。未学を転ぜざること難し。心行平等なること難し。是非を説からざること難し。善知識に会うこと難し。性を見、道を学ぶこと難し。化度の人に従うこと難し。境を観て動かざること難し。善く方便を解すること難し」
沙門、仏に問う、『何の因縁を以て、宿命を知り、その至道を会するを得ん』。仏言く、『心を浄め志を守らば、至道を会すべし。譬えば鏡を磨くに、垢去りて明存するが如し。欲を断って求むること無ければ、当に宿命を得べし』
沙門、仏に問う、『何をか善と為し、何をか最大となすや』。仏言く、『道を行じ、真を守るは善なり。志、道と合うは大なり』
沙門、仏に問う、『何をか多力となし、何をか最明となすや』。仏言く、『忍辱は多力なり、悪を懷(おも)わざるが故に。兼ねて安健を加う。忍ぶ者には悪無し。必ず人の為に尊ばる。心の垢滅尽くして、浄め瑕穢無き、これを最明と為す。未だ天地有らざるより今日に及ぶまで、十方のあらゆること、見ずということ有ること無く、知らずということ有ること無く、聞かずということ有ること無く、一切智を得るは、明と謂うべし』
仏言く、「人、愛欲を懷きて道を見ざるは、譬えば澄水の、手これを撹(みだ)すを致せば、衆人共に臨むも、その影を観る者有ること無きが如し。人、愛欲を以て交錯すれば、心中濁り興る、故に道を見ず。汝等沙門、当に愛欲を捨つべし、愛欲の垢尽きなば、道見るべし」
仏言く、「それ道を見るは、譬えば炬を持ちて冥室の中に入れば、その冥即ち滅して明のみ独り存するが如し。道を学び、諦を見れば、無明即ち滅して、明、常に存す」
仏言く、「吾が法は無念の念を念とし、無行の行を行とし、無言の言を言とし、無修を修とす。会する者は近く、迷う者は遠し。言語道断、物の拘わる所に非ず。これを毫釐に差(たが)えば、これを須臾に失う」
仏言く、「天地を観て非常と念じ、世界を観て非常と念じ、霊覚(衆生の覚性)を観れば即ち菩薩。この如く知識すれば、道を得ること疾し」
仏言く、「当に身中の四大(地水火風)を念ずべし。各自に名有れども、すべて我無き者なり。我既にすべて無ければ、それ幻の如きのみ」
仏言く、「人、情欲に従いて、声名を求む。声名顕著にして身己に亡ぶ。世の常の名を貪りて、道を学ばざれば、功を枉(ま)げて形を労す。譬えば香を焼くが如し。人、香を嗅ぐと雖も、香これ燼す。身を危うくするの火、而もその後に在り」
仏言く、「財色の人に於けるや、人これを捨てざるは、譬えば刀の蜜有り、一餐の美に足らざるを、小児これを舐めれば舌を割くの患有るが如し」
仏言く、「人、妻子舎宅に繋がるは牢獄よりも甚だし。牢獄は散釈の期有れども、妻子は遠離の念無し。情の色を愛すること、豈労役を憚らん。虎口の患有りといえども、心に甘伏を存し、泥に投じて自ら溺れる。故に凡夫という。この門を透得すれば出塵の羅漢なり」
仏言く、「愛欲は色より甚だしきはなし。色の欲たる、その大なること他に無し。ョ(さいわ)いに一有るのみ。もし二つを同じからしめば、普天の人、能く道の為にする者無からん」
仏言く、「愛欲の人は、なお炬を執り、風に逆らいて行くが如し。必ず手を焼くの患有り」
天神、天女を仏に献じ、仏意を破らんと欲す。仏言く、「革嚢の衆穢、爾(なんじ)来るも何か為さん。去れ、吾用いず」。天神いよいよ敬い、因って道意を問う。仏、為に解脱す。即ち須陀亘果を得たり」
仏言く、「それ道を為すは、なお木の水に在りて流れを尋ねて行くが如し。両岸に触れず、人の為に取られず、鬼神の為に遮られず、渦巻きの為に住(とど)められず、また腐敗せずば、吾この木は決定して海に入ることを保せん。学道の人、情欲の為に惑わされず、衆邪の為に乱されず、無為に精進すれば、吾この人は必ず道を得ることを保せん」
仏言く、「慎みて汝が意(こころ)を信ずることなかれ。汝が意、信ずべからず。慎みて色と会うことなかれ。色に会えば即ち禍生ず。阿羅漢を得已(おわ)らば乃ち汝が意を信ずべし」
仏言く、「慎みて女色を視ることなかれ。また共に言語することなかれ。若し共に語らば心を正して思念せよ。我は沙門たり、濁世に在るも、当に蓮華の、泥の為に汚されざるが如くなるべし。その老いたる者を想うては母の如く、長じたる者は姉の如く、若き者は妹の如く、幼き者は子の如く、度脱(生死界を超脱して悟界に入る)の心を生じて、悪念を息滅せよ」
仏言く、「それ道を為すは、乾草(欲念)を被るが如く、火(欲求)来らば避くるべし。道人、欲を見れば、必ず当にこれを遠ざくべし」
仏言く、「人有り、婬の止まざるを患いて、自ら婬を除かんと欲す。仏これに請うて曰く、『若しその婬を断たんよりは、心を断つに如かず。心は功曹の如し。功曹もし止めば、従う者すべて息まん。邪心止まざれば、陰を断つも何の益かあらん』。仏、為に偈を説く『欲は汝が意より生ず。意は思想を以て生ず。二心(心王と心所)各寂静なれば、色に非ずまた行に非ず』。仏言く、『この偈はこれ迦葉仏(釈尊の前仏)の説なり』」
仏言く、「人は愛欲より憂を生じ、憂より怖を生ず。もし愛を離るれば、何をか憂え、何をか怖れん」
仏言く、「それ道を為すは、例えば一人と万人と戦うが如し。鎧を掛けて門を出で、意或は怯弱、或は半路にして退き、あるいは格闘して死し、或は勝を得て還る。沙門の学道も、当にその心を堅持し、精進勇鋭にして前境を畏れず、衆魔を破滅して道果を得べし」
沙門、夜、迦葉仏の遺教経を誦す。その声や悲緊、思い悔いて退かんと欲す。仏これに問うて曰く、『汝、昔、家に在りてかつて何の業をか為せるや』。答えて曰く、『愛して琴を弾ぜり』。仏言く、『絃緩ければ如何』。答えて曰く、『鳴らず』。仏言く、『絃急ならば如何』。答えて曰く、『声絶える』。仏言く、『急緩中を得ば如何』。答えて曰く、『諸音普(あまね)し』。仏言く、『沙門の学道もまた然り。心もし調適すれば、道は得べし。道に於いてもし暴ならば、暴は即ち身疲れる。その身もし疲るれば、意は即ち悩を生ず。意もし悩みを生ずれば、行は即ち退く。その行既に退けば、罪必ず加わる。ただ清浄安楽なれば道は失われず』
仏言く、「人、鉄を鍛え、滓を去りて器を成せば、器は即ち精好なるが如く、学道の人、心の垢染を去れば、行は即ち清浄なり」
仏言く、「人、悪道を離れて人たることを得ること難し。既に人たることを得るも、女を去りて即ち男たること難し。既に男たることを得るも、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)完具すること難し。六根既に具わるも、中国に生れること難し。既に中国を得るも、仏世に値うこと難し。既に仏世に値うも、道者に遇うこと難し。既に道に遇うことを得るも、信心を起すこと難し。既に信心を起すも、菩提心を発すること難し。既に菩提心を発するも、無修無證なること難し」
仏言く、「仏子吾を離れること数千里なるも、吾が戒を憶念すれば、必ず道果を得ん。吾が左右に在りて常に吾を見るといえども、吾が戒に従わざれば、終に道を得ざらん」
仏、沙門に問う。『人の命は幾つの間に在りや』。答えて曰く、『数日の間』。仏言く、『汝まだ道を知らず』。また、一の沙門に問う、『人命は幾つの間に在りや』。答えて曰く、『飯食の間』。仏言く、『汝まだ道を知らず』。また、一の沙門に問う、『人の命は幾つの間に在りや』。答えて曰く、『呼吸の間』。仏言く、『善いかな、汝、道を知れり』
仏言く、「仏道を学ぶ者は、仏の言説する所は皆まさに信順すべし。譬えば蜜を食うに、中も辺も皆甘きが如し。吾が経もまた然り」
仏言く、「沙門の道を行なうは、磨牛(外形だけの行動)の如くすること無かれ。身は行動すといえども、心道は行ぜず。心道もし行ずれば、何ぞ行動を用いん」
仏言く、「それ道を為すは、牛の重さを負いて深泥の中を行くが如し。疲れ極まるも敢て左右に顧視せず、汚泥を出離して乃の蘇息すべし。沙門当に観ずべし。情欲は汚泥よりも甚だし。心を直くし、道を念ずれば、苦を免るべし」
仏言く、「吾、王侯の位を視ること隙を過ぐる塵の如く、金玉の宝を視ること瓦礫の如く、高価な服を視ること破れ絹の如く、大千界を視ること一種子の如く、阿耨池を視ること塗足の油の如く、方便門を視ること実聚を化する如く、無上乗を視ること金絹を夢見るが如く、仏道を視ること眼前の花の如し、禅定を視ること須弥山の如く、涅槃を視ること昼夕覚めたるが如く、妄想・悟りを視ること六龍の舞うが如く、平等を視ること一真地の如く、興化を視ること四時の木の如し」
(「四十二章経」より)