< 仏と鬼 >



 貞運尼の生涯は哀れにも美しいロマンスである。貞運尼は幕末の芸者である。喉の善い長歌の天才であった。長歌の家元の若主人と芸術の交わりから、遂に恋に走って、本妻には内密に隠まるる身となった。然し隠す事は顕れ易く、本妻は愛の敵の出来た事を知って、嫉妬の情に燃えて烈しいヒステリーになった。若き芸術家は之をうるさく思い、竊に計って本妻を連れ出し、甲州路の或る峠で、絶壁から突き落として殺そうとした。突き落とされた本妻は、気絶はしたが幸運にも呼吸は通っていた。そうして親切な猟師夫婦に助けられ、手厚い看護に生命を取り留めた。彼女が呼吸を吹き返し、気が付いて、先ず感じた事は嫉妬でもなく、口惜しいという情でもなかった。殺され様としたのは自分の嫉妬が源であるということであった。自分の嫉妬がもとで、こんな事件を出来し、夫にも恐ろしい大罪を犯さしめたと思うとじっとしていられなんだ。足腰が立つ様になると、彼女はべたべた傷所に膏薬を張った醜い顔のままで、夫が妾と睦まじく暮らしている隠れ家を訪れた。そうしてその顔には微塵も怒りや怨みの色は漂うていなんだ。豊かな笑が這うていた。呆気に取られている夫と妾を並べて、彼女はひたすら自分の浅ましい嫉妬を恥じ且つ詫びた。

 その態度にどうして、夫と妾とが打たれないでいよう。夫は翌日家出をして、何処かの寺で頭を丸めた。妾もその夜家出をして房州の海辺に謝罪の投身をしたが、死に切れない、浜辺の寺の坊さんに助けられ、緑の黒髪を切って若い坊さんとなった。御経を知らない尼さんはその後江戸の町で御経代わりに長歌を歌って勧進をしていた。尼さんの名は貞運尼であるが、人々は長歌の尼さんと呼んでいた。尼さんは長歌を歌って勧進して、一生の罪滅ぼしに一大経建立寄進の願を持っていた。今浅草観音の木立の中に立っている経蔵は、尼さんの本願が成就したものであるということである。仏と魔とは実に一紙の差である。鬼になる心が仏になり、仏になる心が鬼になる。千仭の谷底に突き落とされて、殺そうとした夫に怨の炎を吹き掛けず、自分の嫉妬がもとであると気が付いて謝る思いになった心は、何という尊さであろうか、この尊い心はあの血生臭い幕末の世界にこれのみは美しく清らかなロマンスの殿堂を建立した。そうして永遠に輝く光の燈を捧げた。抑もこの大変化を生み出す原動力は何であろうか。



 嫉妬に燃えてそれが為に殺される迄に至った本妻の心は、美しい田舎ものの猟師夫婦の親切に感激して、生死の境を彷徨しながら、自分の罪を自覚した生活に入った、そうしてこの感激は次から次へ感激を呼び起こして、夫の生活を作り出し、妾の生活を清らかな法への奉仕の生活に変らしめた。意義ある統一ある濕いある、生まれ甲斐のある、生き甲斐のある生活、一言にして言えば真の生活は感激によって初めて作り出されるのである。これは私共が日常経験する事であるが、私共の日常生活に於いて、一度何等かの猜疑心に襲われると、わとえそれがどんな小さな猜疑心でも、俄然として私共の生活を根底から覆して仕舞う。世界は闇黒になって、生活に張りがなく意義がなく、何事も混乱して統一を失うて仕舞う。これに反して微かの愛にせよ信にせよ、そういうものに感激して来ると、俄に世界が明るく、生活に張りが出、宇宙全体が統一ある有機体となって、自分を中心としてめぐる愛となって顕れる。宇宙がコスモスかカオスか。統一か混乱か、我々は理屈では何とも定むる事は出来ない。然し感激ある心には宇宙はカオスでなくて、立派な統一、コスモスとなるのである。生活と称し得るものは其処に始まるのである。


 然らば真の生活を創造する力である感激とは何に触れ、何に感ずるのであるか。


 猟師夫婦の心に宿った愛が源となったと言い得るであろう。


 信があるから愛と顕れ、愛は信に裏づけられているが、その真と愛との奥にもう一つ或るものがあって、そのものが外に、向かって信と顕れ、愛と発動していると言われ得ると思う。それは私に言わせると宇宙に最も根深く存在する或者がある。それに触れた心が猟師夫婦の親切を生じているのであると思う。猟師夫婦は田舎人の浄かな心から、無意識的にこれに触れているのである。然らばその宇宙に最も根深く存在するその或者とは何か。それは真如とも絶対とも一如とも神とも仏とも何とでも顕わすことの出来るものであり、哲学的に言えば現実現象の底に流るる実在の流れとも顕わすことが出来るものである。私はここには真実とか至誠とかいう語でこれを示したいと思う。




(赤沼智善)