< ヒトはなぜ戦争をするのか? >


〜 フロイト様へ 〜



 貴方に手紙を差し上げ、現代の文明の大切な問題について議論できるのを大変嬉しく思います。国際連盟から提案があり、誰でも好きな方を選び、今の文明でもっとも大切な問いと思える事柄について意見を交換できることになりました。このようなまたとない機会に恵まれ、嬉しいかぎりです。



 人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?



・・・これが私の選んだテーマです。

 技術が大きく進歩し、戦争の問題は私たち文明人の運命を決する問題となっています。このことは、今では知らない人がいません。問題を解決するための真剣な努力も傾けられています。ですが、いまだ解決策が見つかっていません。何とも驚くべきことです。

 私の見るところ、専門家として戦争の問題にかかわっている人すら自分たちの力で問題を解決できず、助けを求めているようです。彼らは心から望んでいるのです。学問に深く精進した人、人間の生活に通じている人から意見を聴きたい、と。


 私自身は物理学者ですので、人間の感情や人間の想いの深みを覗くのに長けておりません。したがってこの手紙においても、問題をはっきりとした形で提出し、解決のための下準備を整えることしかできません。それ以上のことは貴方にお任せしようと思います。人間の衝動に関する深い知識で、問題に新たな光をあてて頂きたいと考えております。


 なるほど、心理学に通じていない人でも、人間の心の中にこそ、戦争の問題の解決を阻む様々な障害があるのを感じ取っています。が、その障害がどのように絡み合い、どのような方向に動いていくのかを捉えることはできません。貴方なら、この障害を取り除く方法を示唆できるのではないでしょうか。(政治では手が届かない)人の心への教育という方法でアプローチすることもできるのではないでしょうか。


 ナショナリズムに縁がない私のような人間から見れば、戦争の問題を解決する外的な枠組みを整えるのは易しいように思えてしまいます。すべての国家が一致協力して、一つの機関を創りあげればよいのです。この機関に国家間の問題についての立法と司法の権限を与え、国際的な紛争が生じたときには、この機関に解決を委ねるのです。個々の国に対しては、この機関の定めた法を守るように義務づけるのです。もし国と国の間に紛争が起きたときには、どんな争いであっても、必ずこの機関に解決を任せ、その決定に全面的にしたがうようにするのです。そして、この決定を実行に移すのに必要な措置を講ずるようにするのです。


 ところが、ここですぐに最初の壁に突き当たります。裁判というものは人間が創りあげたものです。とすれば、周囲のものからもろもろの影響や圧力を受けざるを得ません。何かの決定を下しても、その決定を実際に押し通す力が備わっていなければ、法以外のものから大きな影響を受けてしまうのです。私たちは忘れないようにしなければなりません。法や権利と権力とは分かち難く結びついているのです!司法機関には権力が必要なのです。権力・・・高く掲げる理想に敬意を払うように強いる力・・・、それを手にいれなければ、司法機関は自らの役割を果たせません。司法機関というものは社会や共同体の名で判決を下しながら、正義を理想的な形で実現しようとしているのです。共同体に権力がなければ、その正義を実現できるはずがないのです。

 けれども現状では、このような国際的な機関を設立するのは困難です。判決に絶対的な権威があり、自らの決定を力尽くで押し通せる国際的な機関、その実現はまだまだおぼつきません。

 そうだとしても、ここで一つのことが確認できます。



 国際的な平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を完全に放棄し、


 自らの活動に一定の枠をはめなければならない。



他の方法では、国際的な平和を望めないのではないでしょうか。





 さて、数世紀もの間、国際平和を実現するために、数多くの人が真剣な努力を傾けてきました。が、その真摯な努力にもかかわらず、いまだに平和が訪れていません。とすれば、こう考えざるを得ません。



 人間の心自体に問題があるのだ。


 人間の心の中に、平和への努力に抗う種々の力が働いているのだ。



そうした悪しき力の中には、誰もが知っているものもあります。

第一に、権力欲。いつの時代でも、国家の指導的な地位にいる者たちは、自分たちの権限が制限されることに強く反対します。それだけではありません。この権力欲を後押しするグループがいるのです。金銭的な利益を追求し、その活動を押し進めるために、権力にすり寄るグループがいるのです。戦争の折に武器を売り、大きな利益を得ようとする人たちが、その典型的な例でしょう。彼らは戦争を自分に都合のよいチャンスとしか見ません。個人的な利益を増大させ、自分の力を増大させる絶好機としか見ないのです。社会的な配慮に欠け、どんなものを前にしても平然と自分の利益を追求しようとします。数は多くありませんが、強固な意志をもった人たちです。

 このようなことがわかっても、それだけで戦争の問題を解き明かせるわけではありません。問題の糸口をつかんだにすぎず、新たな問題が浮かび上がってきます。



 なぜ少数の人たちが夥しい数の国民を動かし、


 自分たちの欲望の道具にすることができるのか?



 戦争が起きれば一般の国民は苦しむだけなのに、なぜ少数の人間の欲望に手を貸すような真似をするのか?(私は職業軍人たちも「一般の国民」の中に数え入れたいと思っています。軍人たちは国民の大切きわまりないものを守るために必死に戦っているのです。考えてみれば、攻撃が大切なものを守る最善の手段になることもありうるのです)

 即座に思い浮かぶ答えはこうでしょう。少数の権力者たちが学校やマスコミ、そして宗教的な組織すら手中に収め、その力を駆使することで大多数の国民の心を思うがままに操っている!

 しかし、こう答えたところで、すべてが明らかになるわけではありません。すぐに新たな問題が突きつけられます。

 国民の多くが学校やマスコミの手で煽り立てられ、自分の身を犠牲にしていく・・・このようなことがどうして起こりうるのだろうか?

 答えは一つしか考えられません。



 人間には本能的な欲求が潜んでいる。


 憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!!



 破壊への衝動は通常のときには心の奥に眠っています。特別な事件が起きたときにだけ、表に顔を出すのです。とはいえ、この衝動を呼び覚ますのはそれほど難しくはないと思われます。多くの人が破壊への衝動にたやすく身を委ねてしまうのではないでしょうか。

 これこそ、戦争にまつわる複雑な問題の根底に潜む問題です。この問題が必要なのです。人間の衝動に精進している専門家の手を借り、問題を解き明かさねばならないのです。

 ですが、ここで最後の問いが投げかけられることになります。



 人間の心を特定の方向に導き、


 憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?



 この点についてご注意申し上げておきたいことがあります。私は何も、いわゆる「教養のない人」の心を導けばそれでよいと主張しているのではありません。私の経験に照らして見ると、「教養のない人」よりも「知識人」と言われる人たちのほうが、暗示にかかりやすいと言えます。「知識人」こそ、大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。なぜでしょうか?彼らは現実を、生の現実を自分の目と自分の耳で捉えないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです。


 最後にもう一言述べさせて頂きたいと思います。ここまで私は国家と国家の戦争、国際紛争についてだけ言及してしてきました。もちろん、人間の攻撃性は様々なところで、様々な姿であらわれるのを十分承知しております(例えば、内戦という形でも攻撃性があらわれるでしょう。事実、かつてはたくさんの宗教的な紛争がありました。現在でも、いろいろな社会的原因から数多くの内戦が勃発しております。また、少数民族が迫害されるときもあります)。しかし、私はあえて国家の戦争をこの手紙で主題といたしました。国家と国家の争い、残酷極まりない争い、人間と人間の争いがもっとも露骨な形であらわれる争い・・・この問題に取り組むのが、一番の近道だと思ったのです。戦争を避けるにはどうすればよいのかを見いだすために!


 貴方がいろいろな著作の中で、この焦眉の問題に対して様々な答え(直接的な答えや間接的な答え)を呈示なさっているのは、十分知っております。ですが、貴方の最新の知見に照らして、世界の平和という問題に改めて集中的に取り組んで頂ければ、これほど有難いことはありません。貴方の言葉がきっかけになり、新しい実り豊かな行動が起こるに違いないのですから。



 心からの友愛の念を込めて





(アインシュタインより 1932年7月30日)






< 戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる >


〜 アインシュタイン様へ 〜



 私たち(平和主義者)はなぜ戦争に強い憤りを覚えるのか?貴方も私も、そして多くの人間が人生の数多くの苦難を甘んじて受け入れているのに、戦争だけは受け入れようとしないのはなぜなのか?・・・これがその問題です。


 不思議ではないでしょうか。戦争は自然世界の掟に即しており、生物学的なレベルでは健全なものと言え、現実には避けがたいものなのですから!

 どうか私の問いかけに驚かないで下さい。何かを理論的に考察するためには、現実の生活とは違い物事を高みから眺めるような超然とした態度をとることも必要でしょう。

 私の問いに対してすぐ思い浮かぶ答えは、次のようなものでしょう。


 なぜなら、どのような人間でも自分の生命を守る権利を持っているから。

 なぜなら、戦争は一人の人間の希望に満ちた人生を打ち砕くから。

 なぜなら、戦争は人間の尊厳を失わせるから。

 なぜなら、戦争は望んでもいない人の手を血で汚すから。

 なぜなら、人間が苦労して築きあげてきた貴重なもの、貴重な成果を台無しにするから。


それだけではありません。

 今戦争に勝利しても、かつてのように英雄になれるわけではないのです。破壊兵器がこれほどの発達を見た以上、これから戦争を行なっても、当事者のどちらかが完全に地球上から姿を消すことになるのです。場合によっては、双方の当事者がこの世から消えてしまうかもしれません。


 今述べたことに異議を唱える人はいないと思われます。つまり、戦争に対して人間が皆反対の声を挙げてしかるべきなのです。もし戦争に反対しない人がいたら、そのことのほうが不思議なのかもしれません。

 もちろん、先ほど挙げた事柄の一つ一つに疑問を投げかけることもできるでしょう。社会のほうは、そのメンバーである個々の人間の命に対する権利を持っていないのか。どのような種類の戦争でも、戦争というだけで一括して断罪してよいのか。自分以外の国を平然と踏みにじって地上から消し去ろうとする帝国や民族がある以上、やはり戦争の準備は怠れないのではないか。

 このような議論の一つ一つに立ち入ると、貴方が問題にしたかった直接のテーマから離れてしまいます。そのため、ここでは深入りせず、議論を先に進めたいと思います。


 私たちが戦争に憤りを覚えるのはなぜか。私の考えるところでは、その主たる理由はこうです。私たち平和主義者は体と心の奥底から戦争への憤りを覚えるからです。心と体が反対せざるを得ないのです。そうした平和主義者の立場を正当化するのは難しくないように思われます。

 とはいえ、何の説明も加えないのでは、私の考えていることがよく理解できないと思います。そこで、私の考えを少し説明することにしましょう。


 はるかなる昔から、文化が人類の中に発達し広まっていきました(文化という言葉より文明という言葉を好む人もいます)。人間の内にある最善のものは、すべて文化の発展があったからこそ、身につけることのできたものなのです。優れたものばかりではありません。人間を悩ますものも、その多くが文化の発展から生れたものなのです。文化の発展をひき起こしたものは何か。文化の発展がはじまったときにはどのような様子だったのか。文化の発展の結末はどのようになるか。そうしたことはわかりません。しかし、文化の発展の幾つかの特徴でしたら、すぐに見て取れます。


 例えば、文化が発展していくと、人類が消滅する危険性があります。なぜなら、文化の発展のために、人間の性的な機能が様々な形で損なわれてきているからです。今日ですら、文化の洗礼を受けていない人種、文化の発展に取り残された社会階層の人たちが急激に人口を増加させているのに対し、文化を発展させた人々は子どもを産まなくなってきています。こうした文化の発展はある種の動物の家畜化にも喩えられるかもしれません。文化が発展していけば、肉体レベルでの変化が引き起こされると思われるのです。文化の発展がそうした肉体レベルでの変化を生じさせるだろうことに、ほとんどの人は気づいていないようですが・・・。


 それに対して、文化の発展が人間の心のあり方に変化を引き起こすことは、明らかで誰もがすぐに気づくところです。では、どのような変化が起きたのでしょうか。ストレートな本能的な欲望に導かれることが少なくなり、本能的な欲望の度合いが弱まってきました。私たちの祖先なら強く興奮を覚えたもの、心地よかったものも、今の時代の人間には興味を引かないもの、耐え難いものになってしまっています。


 このように、私たちが追い求めるもの・・・例えば、道徳や美意識にまつわるもの・・・が変化してきたわけですが、この変化を引き起こしたものは究極的には心と体の全体の変化なのです。心理学的な側面から眺めてみた場合、文化が生み出すもっとも顕著な現象は二つです。



 一つは、知性を強めることです。


 そして力が増した知性は衝動をコントロールしはじめます。


 二つ目は、攻撃本能を内に向けることです。


 好都合な面も危険な面も含め、攻撃への衝動が内に向かっていくのです。



 文化の発展が人間に押しつけたこうした心のあり方・・・これほど、戦争というものと対立するものは他にありません。だからこそ、私たちは戦争に憤りを覚え、戦争に我慢がならないのではないでしょうか。戦争への拒絶は、単なる知性レベルでの拒否、単なる感情レベルでの拒否ではないと思われるのです。少なくとも平和主義者なら、拒絶反応は体と心の奥底からわき上がってくるはずなのです。戦争への拒絶、それは平和主義者の体と心の奥底にあるものが激しい形で外にあらわれたものなのです。



 私はこう考えます。


 このような意識のあり方が戦争の残虐さそのものに劣らぬほど、


 戦争への嫌悪感を生み出す原因となっている、と。



 では、すべての人間が平和主義者になるまで、あとどれくらいの時間がかかるのでしょうか?この問いに明確な答えを与えることはできません。けれども、文化の発展が生み出した心のあり方と、将来の戦争がもたらすとてつもない惨禍への不安・・・この二つのものが近い将来戦争をなくす方向に人間を動かしていくと期待できるのではないでしょうか。これは夢想的(ユートピア)な希望ではないと思います。どのような道を経て、あるいはどのような回り道を経て、戦争が消えていくのか。それを推測することはできません。しかし、今の私たちにもこう言うことは許されていると思うのです。



 文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!



 最後に心からのご挨拶を申し上げます。私の手紙が拙く、貴方を失望させたようでしたら、お許しいただきたいと思います。




(フロイトより)