< 入間郡所澤上町の山車考察 >


〜 鈴木清氏 〜




(大正四年十一月十日)



<小太鼓>

右・・・今の協和銀行の北角道路に面していた島田屋呉服店の店主

左・・・今の所沢中央公民館のところにあった日之出屋金物店の店主 深井新吉氏


<大太鼓>

大正三年まであった荻野屋織物工場の店主 西出氏


<笛>

旧市役所駐車場のところにあった市川屋八百屋の店主 市川仙次郎氏


<踊り”おかめ”>

今の協和銀行のところの角 三上旅館の店主


<鉦>

今のいづみ屋糸店の店主 斉藤彦蔵氏








 当時入間郡所澤上町と称し、その上町の山車は製作に当たり着工したのはいつ、又完成したのは、又上町で買った年月日は、其の證據が上町、今の本町の山車格納庫から現れた。


一ツ

 二層(山車の構造名)と思われる盛留の隅に取りつく長さ二尺五寸、巾八寸、深さ五寸の樅の尺、巾六分板製の木箱の中から布団にくるまった欅柾目木白木彫りの一匹獅子頭の彫もの木の裏面に毛筆達筆で



武蔵国入間郡 甲田万作 源高季彫刻


明治五年壬寅 正月吉日



二ツ

 山車は皆一個の部々品に分解出来る様になっていて所謂積木組立方式の構造で各部分一個が丁寧な樅の木で出来た箱、板巾一尺、無垢の六分板で作られて各部品が寸法毎の大小木箱に、本体は布団にくるまってびっしりと格納箱に収められている、其の蓋の裏面に毛筆で



上町 明治三一年七月六日



と何れも書かれてあった。



考 察

 

 推測の域を出ないが先づ明治五年に既に着工の緒に付いて居った。宮大工が本業ですから本業の合間を見ては、又夜なべをしたりと言う施工要領での山車と言う大仕事の進展振りは今では考えられない程悠長で、各部の絵柄構図の研究、一連の物語りを構成する彫師の瞑想は遠々とし無限大に拡がり棟梁の面つうにかけて名人の腕は深く彫り刻んで行ったらう程に遅々としてのんびりとした進行振りであったらう事を思ん測ったとすると恐らく十五年〜二十年の星霜歳月はかかったらうと思いを至たすと、大仕事の又見事な出来ばえから分析解明して見ると、甲田万作棟梁は武蔵国一円に宮大工の名工の名を馳た彫刻師としても立派な腕の立つ人気抜群の棟梁である事が伺える。宮大工本来の本業の余暇に最も得意とする(なぜさう言えるかと言うとプロが見て仕事に現われている)木彫りの技術に祭り囃子の舞台である山車の構想に執念を燃やし余暇を利用しては、気の遠くなる様な長期間の大仕事に手を染めてのんびりコツコツと斯うであったらうかと思われる。


 欅の柾目木にもくもくと魂を打ち込んでいる様は眼光鋭く鬼神かと見まがうばかりの写し身から、編みだす見事な絵柄の半身彫りは当時の匠の暇にあかして空念の夢を心の象形を木彫に託し、今考えて見事な上町の山車を考察すると先づ彫りものの全部が唐風の絵柄である。支那からの文化の渡来の考證として伺える即ち当時の彫刻師の世界の文化は高級の仕事として支那伝来の文化を





彫刻の図柄の中に溢れているのには其の時代の文化を語る良き證據と言えるだろう。


 然し当時川越、入間川、所澤、久米、藤沢、界隈、山又山、雑木林つづき遠々と拡がる畠、草原荒野に狐、狸、いたち、兎はいる。ぽつんぽつんと有る宿場を又之を行きかうた綱を肩に乗せて馬を曳く馬方荷車こうゆう取り合せの時代に果して文化の程度を思ってお祭りの行事に使われる山車と云う大きなしかも、精工極まりない豪華な道具が棟梁の脳裡に育まれたのはどうか疑問に思うが、然し之を解明する事実は、一ツは江戸文化の影響著しい小江戸城下町川越の郷土芸能文化の影響、もう一ツは重松流宗匠が明治元年の時三十六才で重松流の布及最盛期であった事等が入間の甲田万作棟梁に当時から深いつながりが有ったと推測するのである。


 既成の事実として以上の事柄は、上町に山車が手に入ってから山車本体からひねり出た文章であるが、これが別紙の通り明治五年からの連写した明治年代の移項して行く過程で重松流宗匠が明治二十六年五月二十六日に六十二才で亡くなられているので甲田万作棟梁と同じ年頃であったらうと事を感案して見ると、箱の蓋に書いてある明治三十一年七月六日は甲田万作棟梁も老齢で恐らく御子息に家権の実情が移項して居ったらうと思われる事證が一ツ出た。それは甲田一家の方々と、弟子達と地元青年層が其の入間川地元に伝わる祭り囃子の流技にあきて、所澤上町の重松流お囃子の名声に憧れて是非習いたいと上町囃子連と交流を深め師弟の間柄となり、重松流が入間川に伝播した、之れがきっかけで当時立派に完成された欅白木作りの山車が鎮座、これが上町お囃子連青年達の目に止まり、重松流囃子連に取って重松流にふさわしい、”いづれあやめかかきつばた”、十二単重に見立た婿達の逆上さながらのほれ込み振りは、当時上町の表通りの大商家の御曹子達の結成になる青年団即ち上町御囃子連の動き出す所となり、山車を購入するに御曹子六名の結成から成り、一人当たり当時の百両を出資合計六百円で商談成立。


 入間郡所澤大字所澤上町 重松流お囃子連が、入間郡甲田万作棟梁製作に成る山車一台を購入した此の時の六名の記念写真が現在本町々会長宅に保存されている。


 余聞として御曹子達は親から勘当の浮き目に会ったとのお話しが伝えられている。





大正四年十一月十日


御大典 大正天皇 即位



当時の国民新聞(十月三十一日付)に所澤の祝賀祭りの記事が乗っているが、祭りの日は何時だったのか、今調査中(なぜかと申しますと国民新聞は毎日発刊されなかったとの事で)


十二日頃わかる予定です。











< 古谷重松物語 >


平成四年八月三十日(日)




第三回 ところざわ児童文化祭


伝えよう


ところざわのふるさと









『風のいたずら』



夕餉の膳に箸止めて

遠く近くにこだまする

冴える笛の音 太鼓のひびき

ああ 風のいたずらか

いたずらか いたずらか


雫の音もリズムにのって

遠く近くにこだまする

スッテンテントコ スッテンテン

ああ 風のいたずらか

いたずらか いたずらか


(「重松流祭囃子沿革史」より)





「古谷重松物語」・・・もう、二十四年も前のことになるんだなあ。