< 悪の内観 >



 善をよろこび悪をにくむは人情である。しかし悪を嫌って顧みなかったら、悪は永久に救われるときがないであろう。善はすすめるべきである。しかし何人も、みずからの善を誇ってはならない。むしろ他の悪によって、みずからの悪に泣くところがなかったならば、みずからの内面が、つねに悪の炎に燃えていることも気づかずにいよう。みずからの悪をかえりみ得ないものは、ともすれば自我の小善を高ぶりがちである。

 御同朋の上よりすれば、善人も悪人も、ひとしく求道の親しい友である。私たちは善そのものの肯定よりも、悪そのものの肯定によって、しみじみとみずからの内面を、反省させられずにはおられない。




< 生 滅 >


 逝くものはかの水のごとく、暫くも止まらない。大きな死を頻々として送るきのうもきょうも、げに慌ただしい人生である。

 生じたものはかならず滅びる。この厳かな原則のまえには、男も女も、尊きも賤しきも、何の差別もない。すべては刻々と生の間に、刻々と滅を迎うるべく運命づけられている。

 然しながら、大乗涅槃の境地より之を見るときは、一切の生滅のすがたはまた一の変化にすぎない。私たちは愛着のかなしみに浸りつつも、覚りの光のまえに、すべてが永遠のいのちへの道程に在ることをおもえば、あわただしい人生のすがたも畢竟不滅への第一歩であることが知られる。




< 巌のかげに >


 丘を登りつむるところ、巌のかげに、小さな花が可憐な頭を擡げて、むらがり咲いていた。春の歩みが此処まで押し寄せて来ていることが考えられる。

 春は壮麗な花園のなかのみに飾られるのではない。

 むしろ一輪の小さな花によって、忘れられた巌のかげにもまた、春のよろこびが充ちているのであった。

 しばらくも倦むことのない、自然の働きを見のがしてはならない。みずからの営みを、丹念にたもちつづけるものは、如何なる境涯にあっても健やかに生きることができる。そして、みずから生きるものにのみ、働きの法悦がめぐまれる。




< まこと >


 かがやく黎明期の空を仰いで、彼女は心しずかに合掌する。


”ただ願わくば諸仏加護をたれて、よく一切転倒の心をほろぼしたまえ。願わくばわれ、はやく真性のみなもとをさとりて、すみやかに如来の無上道を証せん”(心地観経)


 まこととは何か。詐りのないことであると、釈尊は説かれた。なやましき人生において、詐りのないことは、まことに稀有である。しかしまた、いつわりの多いそれだけ、まこととは何かと心に呼びかえされ、身に反問させられる。

 まこととは何か。彼女の一切の向上も改造も、ただこの一語の体験から、雄々しく出発するのであった。




 < 美 >


 美のなきところ、必ず内容に欠くところがある。美は理想の生活を形づくる要素として、何人も之を求めてやまぬところに完全性へのあこがれに、燃えていることがうかがわれる。

 自然のすがたが、平明にそして敬虔に、おのずからなる美しさを示しているのはそこに欺瞞の醜さがないからである。このゆえに、自分にのみ恵まれた美を見出すことなくして、いたずらなる粉飾につとめるのは、みずからの内容を滅ぼし去るものであろう。

 何人も、生活を美に導くことは大切である。生活をゆたかにするために、みずからを丹念に育んでゆくために。




< 宗 教 >


 学問によって真理を究め、道徳によって正しき道を行ない、そして芸術によって美を味わう。人生の理想はただ、真と善と美とを求むるに在る。

 しかし学者は必ずしも道徳家ではなく、道徳家は芸術に理解なく、芸術家にはまた不徳の者もある。みずからの小さな価値を誇るのあまり、各自の価値を忘れている現代である。

 真と善と美とを包容するものは宗教である。宗教を否定して、真善美の具足を望むことはできない。

 しかも無宗教徒の多きには、驚かれずにはおられない。これらの人たちは、一方に宗教を否定して居ながら、他方に芸術を唱え、真理を讃美している。




< 個々の生命 >


 何人にも異なった使命を与えられている以上、その行ないもまた異なってくることは、もちろんである。

 個々の生命は、その異なったところに宿っているといえよう。

 それは決して他と妥協することを許さないものであって、そこに屈するときは、遂には自らを滅ぼすに至るであろう。

 人の行為に対する不用意な嘲罵や、いたずらなる讃辞は、もとより妥当でない場合が多い。これらの危険なる推定は、すべて自己の立場から、他の異なった境地をながめるからであって、すべてに恵まれている独自の生命を冒涜するの甚だしきものといわなければならない。

 しかしながら、固くみずからの生命を握っているものは、もちろん世の毀誉褒貶に動かされる筈はない。もし世評によって、みずからの使命を枉げることがあれば、それは更に大いなる自己冒涜である。




< 愛と欲と >


 愛は何人も求めてやまぬ、甘美な生命の泉である。しかし愛は、必ずしも愛のみの存在ではない。地上における愛は、多くの場合に、その自身愛欲の姿となって現われている。

 しかし何人も、愛欲を無下に卑しみ、これを裁くことはできない。むしろ人生は愛欲そのものであると思うとき、何人も愛欲の根深き業縁に、おののかざるを得ないであろう。

 愛の心のみを讃美し、みずからの欲のすがたに気づかぬところに、地上の愛の破綻がある。理智のともしびは、そこに、高く掲げられなければならない。智慧の光にみちびかれることなくして、生命ある愛を求めることはできない。




(「無憂華」九条武子)