伝承 仏教神話


伝承 仏教神話 T〜


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大光寺「坐禅会」


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< 仏の音訳について >


 仏というのも完全な独立の一語を写したもので、決して仏陀となすべきを勝手に略したものでない。雅語でブッド(Buddha)というのが、最後の母音の落ちた為に、ブト(But)となり、ティが軽い音であるから、仏と音訳せられたのであると思われる。ブッドの母音が落ちると、ブッド(Buddh)となるかの如くであるが、子音が一語の終りに於いて重なって居ることは出来ないから、ブド(Bud)となる道理であるのに、ディはティと、発音上、変るのが規定で、従ってブトとなるのである。而も最後のト(t)は軽いから、単にブ(Bu)ともなるであろうし、少なくとも発音上ト(t)は響かないことにもなろうから、ブとのみ書かれるであろう。此の如く推定して、ホータン語にブコーサ(Bugosa)なる語があって、これが有名なブッダ・ゴーシャ(Buddha-ghosa)に似て居る為に、後者が一層人口に膾炙せられるに至ったといわれるのを見ると、恐らくブゴーサはブッダ・ゴーシャと同一視せられて、ブが即ちブッダを現わすとなすのであろう。


 然しブトとはなって居ないから、前の推定とは同一でないのであるが、それにしても、漢訳の原語が凡てホータン語となって居たとはいえないであろうし、種々なる要素もまた影響もあったであろうから、今は雅語から俗語となる過程に沿うて考察し、而も最後の母音の落ちるという特徴を以て見て行く点で、ブトとなると見て説明せんとするのである。此の点は前のボート・サトに於いても同じである。実際上の証拠では、ボー・サとあるし、又ブとのみあるから、原文にもかくあったのであるかも知れぬが、解釈としては以上の如くにいわざるを得ないのである。故にブトを仏となしたのであって、仏は完全な音訳で、決して仏陀とあったものの略であるとはいえないのである。従って、仏を仏陀の略となすのは、菩薩を菩提薩捶の略となすのと共に、全く誤った見解である。訛は決して常に謬を含むとはいえないものである。


 此の如くにして仏も仏陀も共に完全な一音訳であるといわねばならぬ。仏陀は浮陀・仏駄・浮屠・歩他・浮図・浮頭・勃陀・仏大など種々に音写せられるといわれるが、これ等が用いられた時には、それぞれ初めの字は何れも皆ブと濁音で発音せられたものであって、決して清音でと発声せられたのではないに相違ないと考えられる原語のブトでもブッダでも、如何なる場合にも、清音となることは絶対にないと考えられるからである。後の一字の中、図、頭とあるのはブトのトを表して居ると見てもよし、または、恐らくブッドが主格となった時には俗語ではブッド(Buddho)となるから、それを写出したものであろうと見てもよいであろう。(浮屠は羅什が改めて仏徒となし、僧韋が仏図となしたこと、喪門を羅什が桑門に、僧韋が沙門と改めたと同じといわれる)





(宇井伯寿)