< 仏教と皇室 >



泉涌寺と皇室


 千年間の間、皇居の地として日本文化の中心となり、仏教のメッカともなった京都には今日なお千六百にのぼる寺院が豪壮な伽藍建築を誇っている。


 大本山といわれる大寺院も十指にのぼるなかで、東山連山三十六峯の南端、月輪山麓の清らかな湧き水のほとばしる仙境に、総本山真言宗泉涌寺がある。皇室の御菩提所として特異な、格調高い法域で、寺院の東の丘陵には皇室に陵墓月輪陵(つきのわりょう)が静かに眠る聖域でもある。


 この寺院の沿革は、千百五十年前第五十三代淳和天皇の天長年間に空海(弘法大師)が、法輪寺という草庵を営んだ事に始まり、その後第五十五代文徳天皇の斉衝二年(855)左大臣藤原緒嗣が僧・神修のために山荘を与えて寺となし仙遊寺と称するようになった。それから三百六十年を経て、第八十四代順徳天皇の建暦元年(1211)当時宋に渡っていた僧・月輪大師が帰朝し、戒律復興を図り弘伝に努めたので名声大いにあがった。順徳天皇の建保六年(1218)、大和守中原信房が深く月輪大師に帰依し、その月輪の宅地と仙遊寺の故趾をあわせて月輪大師に与えた。


 そこで月輪大師は承久元年(1219)寺院建立のために『勧進の疏』を作って、翌二年二月(1220)第八十二代後鳥羽上皇に奉った。上皇はこの趣旨に賛同され准絹(じゅんけん=通貨の代わりになる絹)壱萬匹、上皇の御兄、守貞親王(後高倉院、後堀河天皇の御父)より壱萬五千匹という資金を賜ったので建築にかかり、喜録二年(1226)ここに大伽藍が完成された。その時ちょうど境内に清らかな泉が涌き出したので寺名を泉涌寺(せんにゅうじ)と改められた。この月輪大師をもって泉涌寺の開祖としている。完成に先立ち第八十六代後堀河天皇の貞応三年(1224)に勅旨によって宮寺となり、勅願寺とされた。はじめ天台・真言・禅・浄土四宗兼学の道場として発足したが、明治四十年真言宗泉涌寺派として一派を創立した。


 創建の頃月輪大師の布教、弘伝は広く国内にゆきわたり、ことに朝野の尊信が厚く、後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇、後高倉上皇(守貞親王)らのほか、大臣顕官の多くが大師に帰依し受戒された。


 皇室との特殊な縁故は、月輪大師寂後(1227)四年を経た寛喜三年(1232)に第八十七代四条天皇として即位されたが、開山月輪大師の再来かと噂されながら僅か十二歳にして崩御された。これより先御父後堀河天皇は泉涌寺山内の観音寺陵に奉葬されていたが、四条天皇はこの御父の山稜と深いゆかりの泉涌寺を強くお心に止められ、月輪大師の御廟(開山堂)の近くに御自身の御陵を築くよう御遺言されたという。こうした縁故に続いて、南北朝時代の文中三年(1374)後光厳院をここに御火葬申し上げてから前後九代の天皇の御火葬所に当てられた。さらに第百八代後水尾天皇から明治天皇のお父様の孝明天皇に至るまで歴代天皇・皇后・皇族の廟所となり、皇室の御香華院(御菩提所)と定められた。当山のシンボル霊明殿には、歴代の御尊牌を奉祀し、一山の僧侶によって朝夕その御冥福と国家の安泰が祈願される例となっている。そして祥月御命日には皇室の代理として宮内庁京都事務所からの参拝が行われる。霊明殿は正面に後西天皇の勅額「霊明」が掲げられ格調の高い雰囲気を醸し出している。


 この建物は創立以来幾度も戦火に遇い焼失したがその都度、織田信長、豊臣秀吉、徳川家綱将軍など、時の権勢によって相次いで復興された。現在の建物は明治十五年(1882)の炎上後、宮内庁によって明治十七年に再建されたものである。当初、山稜に対し東面していたが、再建の際現在の西正面に変更された。霊明殿内陣の荘厳具類は明治・大正・昭和三代の天皇・皇后御六万の増進にかかるものばかりである。


 この建物の北東に連なる御座所は、霊明殿の再建と並行して京都御所内の皇后宮の御里御殿を移建したものであり、天皇・皇后御参拝の時御休所にあてられるほか、皇室のお使いにも供せられている。その東側に位置する海会堂は歴代天皇・皇后・皇族の御念持仏を奉安するところであるが、これも京都御所の御黒戸(仏間)を遷した方形の塗りごめの御堂である。


 このように御寺と皇室との縁故は極めて永くまた深い。


 さらに泉涌寺内には月輪陵、後月輪陵、観音寺陵その他後記の御陵、御灰塚などがあるが全部の御陵域をあわせても515平方メートルという狭い場所である。その中に天皇は九重の石塔、皇妃は無縫石塔、親王墓は宝篋印を建てただけという誠に質素そのものである、戦国争乱の最中、皇室衰微の際であったとはいいながら、誠に怖れ多い極みである。


 このように泉涌寺は中世以来歴代天皇御陵であり、御火葬、葬送のところであって皇室の尊崇最も厚く、寺格もまた他寺院と異なりその首座に列せられている。ところが明治維新の廃仏毀釈とともに従来の墓域を上地させ、宮内省の管理に移し、諸書陵の所掌するところとなり、境内地のみが寺院に残された。そして明治九年尊碑、尊偽奉護料として永続年金千二百円を下賜されることになったが、寺門の経営は頗る苦しく、寺宝流出などのこともあって、明治十二年責任役僧五人より恩賜の倍増と境内上地の山林を寄付されるよう、京都府知事を通じて願い出があった。御下賜金は明治十二年九月から千八百円に、また明治四十五年五月には四千二百円と順次増額され、山林の下枝の採取が承認されたのであった。そして特に経費のかさむ伽藍の補修、維持については企画、所要経費ともすべて宮内庁の責任とされた。一、二の例を挙げれば昭和九年一月には霊明殿の屋根葺替工事につき壱万二千七百七拾円の巨費を投じ、翌十年二月には鉄筋コンクリートの経蔵、並びに礼拝堂の建設工事について、壱万円という当時としては莫大な費用を負担している。終戦までは概ねこのような方法によって寺の経営に参画してきたのであるが、昭和二十二年五月三日新憲法が制定されるや、国家機関としての宮内省が直接神社仏閣に資を供することを禁止されることとなったため、当時のように檀信徒を持たない皇室一筋の寺門の維持は極めて困難な事態に追い込まれるようになった。


 ただ、わずかに天皇ご内廷の私費の下賜が唯一のよりどころであった。この時、宗教法人解脱会は、故会長岡野聖憲師の意志を体して、霊明殿尊儀への奉仕と御寺の維持興隆に協力することとなり、これは現在もなお継続されている。しかし、時代の変動につれて、御下賜金と解脱会の奉納金だけで御寺を維持することは、到底出来なくなってきた。ここにおいて寺門運営の基礎を強固にし、永続を図るために昭和四十一年三笠宮崇仁親王を総裁に仰ぎ、三井銀行故佐藤喜一郎氏を会長として広く民間篤志のもの糾合して『御泉涌寺を護る会』が結成され、現在ではその意志を秋篠宮文仁親王殿下を総裁に、経団連名誉会長の奥田碩氏を会長に、経団連常任顧問の和田龍幸氏を副会長兼会長代行とし、開創以来七百五十年の伝統と由緒を持つ、格式の高い御寺維持のための努力が今も力強く続けられている。


(元宮内庁京都事務所所長 石川 忠)







明治天皇と仏教


 「我が陛下は形式の上に於いては仏教をお聞きあそばされたことのあらせらるるとも承(うけた)まはらず、御自修だけにも仏書をお読みあそばされたであろうとも思ひたてまつることが出来ない。それにも拘わらずその御精神の上から御実行に顕はれさせられたる所を窺ふて見れば、実に肉身の仏菩薩と尊信したてまつるに躊躇すべきところがない。況や宏量雅懷一視同仁の陛下におかせられて、寸毫ばかりも仏教をお嫌ひあそばさるるといふような事の、決してあるべきわけのものでないことは誠に明らかなるにも拘わらず、世に甚だしき誤解謬見を以って、陛下に仏教排斥の思召しがあらせられたやうに言ひふらす者が今も尚ほ多少ないとは言へぬ。誠に恐れ入りたる次第である。依りて今は論より証拠を挙げて見やうと思ふ。凡そ古へから御歴代の聖天子におかせられて仏教を保護し僧徳を褒賞なさせられた御事績は枚挙に遑なけれども、凡そ諸宗各派の開祖先徳たる高僧を追賞褒賜あそばされたること、我が明治天皇陛下ほどその御事績の多い御方は仏教東漸以来一千三百年間絶えて無いのである。


 さて古へより高徳の僧を褒賞せらるる時には勅して師号を賜ふを以て第一の栄誉とし別して大師号を以て最上となすのである。大師といふは、即ち天皇の御師範といふ意味であるからである。我国に於いての大師号は今より約一千五十年前に清和天皇が親しく教へをお受けになった比叡山の第三祖圓仁上人に慈覚大師、又最澄上人に伝教大師と賜はったのを始めとして、昨明治四十四年に浄土宗祖源空上人に明照大師と賜はったまで総計二十人ある。然るにその二十人の中に於いて明治以前の千年間には僅かに十二人しかなくて、明治の御代四十餘年間に八人あるのである。こればかりでも我が陛下は如何に古への高僧を御追賞あそばされたかといふことが誠に明らかなる次第である。

 即ち我が陛下より大師号を贈賜せられた八人の高僧といふは


 本願寺親鸞聖人へ 見真大師(明治十二年)

 永平寺道元禅師へ 承陽大師(明治十二年)

 本願寺蓮如上人へ 慧燈大師(明治十五年)

 泉涌寺俊ぜう律師へ 月輪大師(明治十六年)

 西教寺真盛上人へ 慈攝大師(同年)

 妙心寺慧玄和尚へ 無相大師(明治四十二年)

 総持寺紹瑾和尚へ 常濟大師(同年)

 知恩院空上上人へ 明照大師(明治四十四年)


 この中に於いて道元、俊ぜう、慧玄、紹瑾の四師はかつて国師号を賜はってあるその上にの加賜であり、源空師はかつて幾回も大師号を賜はってあるその上にの加賜である。陛下の御代に於いて始めての賜諡は親鸞、蓮如、真盛の三師である。御一代四十餘年の間に八人までも最上の栄誉たる大師号を下賜せられたといふことは、実に古来未曾有のことである。この他陛下の御代におかせられて皇室の御由緒最も深き泉涌寺および門跡寺院を始め名山古刹の保存等に於いて、永世不朽の護持策をお立て下されたるが如き、又御内儀におかせられての御信仰の如何にも、お篤きなど実に枚挙に遑なき次第であるが今は真にその大要の一端に止めて置くことと致します」



(大内巒)







明治天皇御製


 己が身を顧りみずして人のため つくすや人の勤なるらん


 冬深き寝屋の衾をかさねても 思ふは民の夜寒なりけり


 賤がすむ藁屋のさまを見てぞ知る 雨風あらき時はいかにと


 照るにつけ曇るにつけて思ふかな 我民草のうへはいかにと


 国のため仇なす敵はくだくとも いつくしむべき事な忘れそ


 久しくも我が飼う駒の老ゆくを 惜しむは人もかはらざりけり


 たらちねの親の御前にありと見し 夢はをしくも覚めにけるかな


 たらちねの親のこころは誰もみな 年ふるままに思ひ知るらん


 むらぎもの心つくして報いなん おふしたてたる親のめぐみに


 たらちねの御親のをしへあらたまの 年ふるままに身にそしみぬる


 たらちねの親の心を慰めよ 国につとむる暇のある日は


 年毎におもひやれとも山水を 汲みて遊ばん夏なかりけり


 何事もうつりかはれる世の中を おもふがままになるとおもふな


 天をうらみ人をとがむる事あらじ わがあやまちをおもひかへさば


 思ふことつらぬかん世をまつほどの 月日は長きものにぞありける


 大空に聳えて見ゆる高嶺にも のぼれば登るみちはありけん


 とる棹の心ながくも漕ぎよせん 芦間の小舟さはりありとも


 岩かねをきり透しても河水は おもふところに流れゆくらん


 いとまなき身も朝夕にいそしめぬ 思ひ入りたる道のためには


 世の中は高き卑しきほどほどに 身をつくすこそ勤めなりけれ


 いかならん事にあひても撓まぬは わがしきしまのやまとたましひ


 まつりごと出でて聞く間はかくばかり あつき日としも思はざりしを


 ともすればかきにごしけり山水の すませばすまん人のこころを


 ともすれば浮きたち易き世の中の 心のちりをいかで拂はん


 榊葉にかけし鏡をかがみにて 人も心を磨けとぞおもふ


 白妙の衣のちりは拂へども うきは心のくもりなりけり


 あさみどりすみわたりたる大空の 広きをおのがこころともがな


 我心いたらぬ隈もなくもがな 此世をてらす月のごとくに


 さしのぼる朝日の如くさはやかに もたまほしきは心なりけり


 いにしへの書見るたびに思ふかな おのが治むる国はいかにと


 今の世に思ひくらべていそのかみ ふりにし書をよむぞたのしき


 いそのかみ古きためしをたづねつつ 新しき世のことも定めん


 末つひにならざらめやは国のため 民のためにと我が思ふこと


 夏の夜も寝ざめがちにぞ明かしける 世のため思ふこと多くして







誓圓尼・文秀女王・日栄尼


 「廃仏毀釈の嵐が皇室に押し寄せ、皇室と仏教の千年を越える絆が断ち切られようとした明治時代、仏門にあった皇族にも還俗を強要する動きが激化。男性皇族は一人残らず仏門を離れる中、敢然と還俗を拒否したのが、伏見宮邦家親王の娘で出家していた女性皇族、誓圓尼(浄土宗善光寺大本願住職1828〜1910)、文秀女王(臨済宗妙心寺派円照寺門跡1837〜1926)、日栄尼(日蓮宗村雲瑞龍寺門跡1855〜1920)である。


 善光寺を善光神社に改めようとする画策に、誓圓尼は、『身に纏った袈裟衣は取り得ようが、心につけた袈裟衣は取る方法がない。剃刀を以って剃った黒髪は伸ばすことも出来ようが、心に剃った黒髪はどうして伸ばす事が出来得よう。一度仏教に固く誓った身であるから、たとえ如何なる迫害を受けようともこの度の仰せには従い得ない。我が身は終生仏弟子として念化弘通の為に捧げよう』と決意、善光寺存亡の危機を救った。


 文秀女王も実家に連れ戻されたものの、戒律を遵守し仏弟子として振舞ったため、父邦家親王が不憫に思い円照寺へ戻ることを許した。

 幼い文秀女王であったが廃仏毀釈の業火に怯まず、生涯を尼僧として円照寺で仏に仕えて皇室と仏教の絆は永遠なり、とその行いで示したことは特筆に値する。


 日栄尼は明治元年当時まだ11歳ながら還俗を迫る使者に、『日栄は仏道に入りし以上は行雲流水の身となり樹下石上を宿とするとも、還俗はいたしません』『我は身命を惜しまず但無上道(法華経)を惜しむ』と断言、不惜身命の勇力で廃仏毀釈論者の目論見を一蹴した。

 三姉妹の仏法護持の勇気は、皇室の仏教祭祀廃止にも拘わらずなお皇室と仏教の精神的結びつきを維持する上で大きな力となった」



(石井泰志)







持統天皇


 「持統天皇は、天皇制度に立脚する新しい国家の宗教的基盤を、仏教と神祇祭祀の二つに求めた。彼女は、藤原京に国家の寺院として薬師寺を完成させ、国家儀礼として金光明経斎会を開始し、僧の再生制度として年分度者制度を構築した。以後、この国家は、寺院建立、仏像仏画の造立、法会の挙行、写経事業の推進など、仏法興隆の政策を前面に打ち出していった。『日本書紀』において、「聖徳太子」が創作され、仏法興隆の中核的人物として造形されたのは、『日本書紀』が作られた時代の政治的状況がそのまま反映したものと考えられる。彼は天皇の理想像を示す人物として造形されたのである」


(吉田一彦)






 「百二十五代の天皇のうち、実に四十五代もの天皇が歴史上法皇(出家し仏門に入った天皇の尊称)となった。落飾(貴人が髪を剃り落して仏門に入る事)した皇后妃は、蘇我天皇の皇后、檀林皇后をはじめとして七十余位。

 出家入道の皇子皇女は、平城天皇の第一皇子高丘親王が空海を戒師に弘仁元年に落飾し、真如と称したのをはじめとして三百余位に上る。真如親王は東大寺大仏の修理司検校を務めた後入唐。さらにインドに向かったがラオスで入寂したという。

 また、堀河天皇の第二皇子最雲法親王が初めて皇族から天台座主になるが、出家した多くの法親王ないし入道親王は天台、真言の門跡寺院並びに各本山寺院の門跡(主僧)や座主(僧職)となっている。

 日本の皇室は、世界に類を見ない仏教外護者として、千年にもわたり仏教を保護してきた。そればかりか、ここに縷々見てきたとおり、自ら身を投じて仏行に生きんとする数多の皇族出身の僧がいた。歴代皇室が、いかに深く仏教に帰依していたか窺われよう」


(横山全雄)






 「たなばたに衣もぬぎすてかすべきにゆゆしとやみむ墨染の袖」(花山天皇)

 「世の中は皆仏なりをしなべていづれの物と分くぞはかなき」(花山天皇)


 「降る雪は谷のとぼそをうづむとも三世の仏の日や照らすらん」(崇徳天皇)


 「わが頼む御法の花の光あらば暗きに入らぬ道しるべせよ」(後鳥羽天皇)

 「おしなべて空しき空のうすみどり迷へばふかきよものむら雲」(後鳥羽天皇)


 「へだてなくほとけの道のともし火のもとの光をまた照すらむ」(後柏原天皇)

 「鹿の苑わしの深山のそのこえも聞くとひけん我にのこして」(後柏原天皇)







天皇制は仏教徒なりや否や


 「天皇制は仏教となりや否や、という問題である。これは過去においても現在においても、歴史家が触れない問題である。天皇がどこかの寺の檀那で、仏壇に頭を下げてチーンとかねを叩いたとあっては、『現人神』でなくなってしまうから、皇国史観は成り立たない。と同時に皇国史観否定の上に立つ戦後史にとっても、否定の体象の変質は少々こまる。従って、ここは触れない。そのためこの『仏教国』において、宮中に仏壇があったのかなかったのかと問われて、すぐに返事のできる人がいたなら、その人は例外者だという奇妙な結果になる。これが大体、日本における『歴史』なるものの正体で、天皇に関する記述は、左右両翼から女性週刊誌まで、実に山のようにあるのだが、民衆の神棚・仏壇併用方式と対比してみれば実に興味深い現象である。ごく平凡なその日常性については、逆にわからなくなっているわけである。


 簡単にいえば、明治四年(1871)まで宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。法事はもちろん仏式であったが、維新という”革命”の波は天皇家にも遠慮なく押しよせ、一千年つづいた仏式の行事はすべて停止されるようになった。天皇家の菩提寺は京都の泉涌寺だったが、明治六年、宮中の仏像その他は一切この寺に移され、天皇家とは縁切りということになった。皇族には熱心な仏教徒もいたが、その葬式すら、仏式で行なうことを禁じられた。いわば、天皇自らが思想信仰の自由を剥奪され、明治体制一色に強制的に塗り変えられたわけである。言うまでもないが、一千年の伝統を自らの手で(という形式で、もちろん実際は天皇家の意志ではあるまい)断ち切り、自らの意志で自己変革をしたという形で革命に即応して存続したわけである。従ってこの行き方は、戦後の、『人間宣言』的行き方にはじまるのではない。仏教断絶のときから『人間宣言』までがわずか約七十年、以後約三十年であるから、一千年とは比較にならぬ程度の短期間の”伝統”などは、いとも簡単に”自己改廃”できるであろう。このことは単に『天皇家』の問題ではなく、いわば全日本人が、そのような形で、外形的な自己変革を行なうことによって、『自分は変わった、今日から民主主義だ』と自己を暗示にかけてそう信じ込む、そう信じ込むことによって変革を避けるという、伝統的な行き方の象徴的な表われにすぎない。”共産化”もその形になるであろう」



山本七平(空気の研究)