< 六祖(慧能)の影響 >



 達摩は楞伽経を必要となしたが、六祖になって金剛般若経を以てするに至ったとは一般にいはるるが、禅宗としては、何れの経何れの論に偏依するのでなく、仏心宗を標榜するのであるから、ただ禅師その人の性行家風と時代の趨勢状況となどの為に、或は楞伽経或は金剛経を取ったに過ぎないと見るべきで、現に達摩の二入四行中には維摩経等は引用せられているし、楞伽師資記の説く所は華厳・涅槃・法華・般若・維摩・楞伽・智度論等が盛んに引用せられている。故に決して六祖以前は楞伽経に偏し、六祖以後は金剛経を執したというのではなかろう。却って六祖前後から起信論の説が用いらるることは注意すべきである。然し一般的に言えば要はその内容に関するのであって、何れの経を取るにしても、その全部を取るというよりも、自性清浄心の全露に資する点を主となすのであり、これによって消極的には絶言絶慮の無心積極的には万象即真の妙用を体現するにある。故に禅宗はその根本に於いては何れも同一趣意であるが、然し却って之に至る実修の家風に於いて、それぞれの差異が彰われて来るのである。六祖以前は一般に着実であって、徒に不立文字・教外別伝を極端に見る風は存しないといえるし、後世の如く、禅機を仏拳棒喝に託することは殆どないといえる。三祖が二祖に見えた時、「願わくば和尚慈悲乞う解脱の法門を与えよ」と請うたのに、二祖は「誰か汝を縛するや」と反問し、三祖は「人の縛するなし」と答えたから、、二祖は「何ぞ更に解脱を求めむや」というたので、三祖は言下に大悟したと伝えられているが、石頭希遷にある人が解脱を問えば、誰か能く汝を縛すると答え、浄土を問えば、誰か能く汝を垢すと答えた程で、その答対が既に頗る簡速になっている。この如きが進んでなお後世になれば、答えは何等言説に渉らずして、直に棒喝に訴える風となるのである。かかる仏拳棒喝は全く六祖より二三代以後に起ることで、かくなるに伴うて、禅宗に漸次五家七宗の宗風の差異などが顕われるるに至ったのである。

 禅は定とも静慮とも訳さるる如く、日常動揺しつつある心を静めることを指したのである。一般に印度の抽象名詞は過程と結果との両方面を指す意味を有するから、今ここにいう禅もまた心を静める過程方法と心の静まった結果状態とを指すが、小乗仏教では阿眦曇に表わるる諸々の法数名目によって禅観をなすから、所謂禅数は過程方法の方を主として呼んだのであって、これが小乗禅であるし、これに反して大乗禅は結果状態の方を主となすのであって、これに大体二種を分ち得るであろう。第一は心性徹見を主としながら過程を重んずるもので、例えば般若空観に依るものの如きはこれである。羅什・仏駄跋陀羅以後の菩薩禅または大乗禅は之に属すといえる。第二は心性契證を主として而も契證した上に一切を説かんとするもので、達摩の伝えた禅は之に属する。故に達摩以後になれば、禅は決して方法のみではなくして目的の名であり、見性成仏を指し、従って禅は最上乗禅とも如来禅とも如来清浄禅ともいわれ、後世になれば、最上禅如来清浄禅の如き如何にも取捨に亙るが如き感ある言詮を嫌うて、むしろ祖師禅と呼ぶにも至った。祖師禅の立場からいえば、如来禅は如来地に至ることを表しているから、教内未了の禅で、教外別伝の真意を表しておらぬとなすのである。即ち達摩が楞伽経を心要としたから、如何にもこの楞伽経に説く凡夫所行禅と観察義禅と攀縁如禅と如来禅との四種の中の如来禅が、達摩の禅なるかの如く見え、従って教の中のものなるかの如く見ゆる為に、達摩の禅の真意を明らかにせんとして、祖師禅の名称を以て呼び、以て教外別伝なることを知らしめんとしたのである。不立文字・教外別伝の見地に立つから、禅は仏心印を伝えたもの、従って釈尊以来嫡々相承し、達摩は西天第二十八祖とせられているのである。故に又禅宗からいえば、禅宗以外は凡て教であって、これと禅とで仏教凡てを区判し得るのである。これを直に教禅二門の教判となすを得る。教は理論によってそれを実践に現わし以て究竟に契證せしむとし、禅は直に究竟に契證してそれによって実践を規定して日常生存に現わさんとするのである。


 仏教の全体は戒定慧の三学に包括せられ得るものであって、戒は防非止悪面而も身口意の純浄を来さむとするもの、定は散乱心を寂静にし、心猿意馬を制して心性を明らかにせむとするもの、従ってこの二は相互的に相助け相進むものであるが、そこに初めて真の智が生ずるからそれを慧と呼ぶ。慧は単なる理解領會の知識ではなくして、元来は解脱知見で、自己の解脱開悟したことを自知することであったから、真心の体明らかにして自性闇なきを慧となすといわれ、従って直にこれ定の妙用となすを得るものである。禅宗の禅はかかる定を指しているのであるが、然し既に三学としては戒と不可分離である如く、禅には方法が伴わねばならぬ。この方法が坐禅であって、整身調息に次いで観念をなすのである。後世になれば、特定の整身調息に拘泥するを嫌って、行住坐臥凡て坐禅に外ならぬともなして、むしろ観念に重きを置くから、そこに公案が用いられることになる。公案は公府の案牘で、律令規範となるものであるが、同時に古人の行履に託して表す実例、又は課題でもある。これによって直に心地を究明し、本然の風光に接し得るのである。この公案の取り扱い方に於いても禅者の間に異なる点が生ずるから、各禅風が立つことになる。公案は特殊の実例課題にのみ限るのではなく、広くは触目触処に見出さるる理であるから、日常生活がそのまま禅的修養となる。かくして禅が実際的のものとなって、禅者は世人に実際的感化を及ぼしたのである。支那に於ける禅宗は全く支那的で、印度に存したものでないと思はる。


 六祖の時代には一方に於いては法相・華厳が学解仏教として盛大であり、また他方に於いては律・浄土が実行仏教として流行し、その寂後には直に真言の一派が渡来するが、学解方面は殆どこの時期を以て終となす見るべく、従って実行仏教が一般的に行われることになるから、禅宗はこの間に於いて勢いを得るに至るのである。六祖の門下系統は南地で伝教するが、その数の多きだけ諸所に蔓延したのであって、凡てこれ六祖の影響感化と見るべきであろう。


(「支那仏教史」宇井伯寿)