< 心 と は >



 心とは何れをいうか。仏教一般としては、心は縁慮心と堅実心、即ち事心と理心とに分たれるから、この中の何れに当たると見るべきであるか。禅系統としても、一応は、堅実心、即ち理心、を指すとなすべきであろう。この場合には三界唯一心が理心を指すとして、その唯一心に当たることになる。実際上から見て、悪を考えがちな縁慮事心がそのまま仏に外ならぬとしては、何としても、穏当とはいえないことを免れないからである。然し、一歩進めて見ると、事心を捨てて理心を取るとしては、すでにそこに取捨分別が加わっているから、真の禅と違反するといわねばならぬ。従って、根本的には、事心と理心とに分つことに基づくのが既に己に禅と相違しないことである。故に、一方からいえば、事心が即ち仏であるとも言える道理である。事心、理心の分類は元来が一応の施設仮名に過ぎないが、もと未分の当所から二と見て来たに過ぎないから、未分が已分となるのは、未分の必然の経過と考えるならば、理心が即仏であると同じく、また、事心が即仏となすのも決して不当とはいえない。事心は悪とのみは断ぜられるべきではない。善悪何れの場合にも、その事の内に凡て理を見て行って、事の事たる所以の筋を明らかにするから、事心に仏たる所以が存するのである。然し、更に進んでいえば、心のみをいうことが既に常識二元観の型に嵌めての考え方であり言い方であって、本来いえば、身と心とが相離れたものとはいえないであろう。殊に仏教中の進んだ思想でいえば、身と心というても、それは見方の相違から由来したに過ぎないことで、身即心、心即身であるのを、仮に単に心、または単に身というに外ならぬとなすから、身と心とは不二の二であるとなすのに基づけば、即心即仏も不二を二と見ての一の心に外ならぬのであると見ねばならぬ。従って、即心即仏は即衆生即仏陀の意味で、吾々が全く仏であるという意味である。更にまた、仏教唯心論でいう如く、心は同時に一切の一一であり、一切の全体であって、通常いう心外の一一が凡て心に外ならぬのであるから、即衆生即仏陀は直に即一切即仏陀の意味であるのである。故に、渓声広長舌、山色清浄心であるし、柳暗花明悉く仏であるというのである。即ち、仏ならざる一物もなく、仏たる一物もないというのである。




(宇井伯寿)








 心の真実のあり方とは、すべてのものの共通の根元、その全体に通じるすがたであり、また、種々の教えの本体である。すなわち、それは心の本性が、生滅変化を超えて不生不滅である点をさす。


 けだし、すべてのもの、すなわちわれわれの意識の対象としてあらわれる現象は、ただ、誤った心の動きによって種々の異なった相をもって現われている。もし人がそのような誤った心の動きから離れられれば、あらゆる対象の異なった相は消滅するであろう。それ故、あらゆるものは本来、言葉で種々に表わされた相を離れ、名称・文字によって示された相を離れ、認識をおこす拠りどころとしての相を離れており、徹底して無差別平等であり、変化することもなく、破壊することもできない。ただ、これすべて、心そのものであるから、これを心の真実なるあり方と名づけるのである。しかし、あらゆる言語表現は便宜的な仮の表現にすぎず、それに対応する実体はない。それはただ誤った心の動きに従って生じたにすぎず、その実体は知覚されえない。したがって、いまここで<真如>(真実のあり方)とよんでも、一切のものと同様、その名に対応するような実体があるわけではない。いわば、この名は、言語表現のぎりぎりのところで、言葉を用いて、他の余分な、あるいは誤った表現を排除するのである。この真如という言葉のあらわすものは何ら否定すべきものではない。というのはすべてのものはそれ以外のあり方がないという意味で<真>であるからである。また、新たに立てるべき何ものもない。というのは、すべてのものは平等に<如>であるからである。こういう次第で、人はまさにこの点をよく知るべきである。すべてのものは言葉で表現できず、心に思いうかべることもできないので、そのことをものの<真実のありのまま>(真如)とよぶのである。


 <真実のありのまま>(真如)ということには二つの意味がある。

第一には、<ありのままに空>(如実空)ということ。すべての現象は妄念の所産であって、<空>すなわち真実においてはないということが究極的なものの真実の相を示しているからである。

第二には、<ありのままに不空>(如実不空)ということ。心の真実のあり方自体には、煩悩に汚されていない如来の徳相が本来具わっているからである。


 ここでいう<空>とは、心の真実のあり方にあっては本来、すべての汚れたものがそこに結びついていないことをいう。すなわち、心の真実のあり方はすべての現象の差別相を離れている。何となれば、そこでは虚妄な心の動きがないからである。かくて<真如>の本性は有るとも、無いとも言えず、有ることも無いとも、無いのでもないとも言えず、有って、かつ、無いとも言えない。また、同一とも、種々別異であるとも、同一でないとも、別異でもないとも、同一にして別異とも言えないと知るべきである。これをまとめれば、要するに、すべての衆生は誤った心の動きがはたらくので、一瞬一瞬、分別して、種々の差別相があると思うが、そのような誤った心の動きは皆心の真実のあり方と本来結びついていないので、その点を<空>というのである。したがって、もし誤った心の動きがなくなれば、心の真実のあり方自体には、もはや否定しさるべき何もない。


 また<不空>というのは、上来すでに、ものの本性すなわち真実のあり方は空、すなわち煩悩など虚妄なものは存在しないことを顕らかにしたが、それが真実なる心にほかならない。この真実なる心とは、同時に、生滅にかかわらない点で常住、堅固、不変であり、悟りに伴う清浄な徳相に満ち満ちているので、この満ちている点を<不空>と表現するのである。したがってそこには、悟りによってさらに附け加えるべきなにものもない。誤った心の動きを克服した境地というのは、ただ悟りにだけむすびつくからである。



 <さとり>の自体とその特色には四種の「大」の意味があり、その広さにおいて虚空(おおぞら)にひとしく、その浄らかさにおいて澄んだ鏡と似ている。どんな四種か。

第一に、本来のあり方としてのさとりは、如実に空っぽな鏡である。それは一切の主観客観の相を離れていて何ものもそこに現われるものがない。鏡自体には何も映しだすものがないように、<さとり>の自体は何ら表わし出すものをもたないからである。

第二に、それは衆生の内なる因としてはたらきかける鏡である。これは衆生の心には本来、如来と同じ、煩悩に汚されていない諸悪が如実に満ち充ちていてそれが、衆生にはたらきかけて<さとり>の実現に向かわせることをいう。鏡がその前に現われたものを何でも映し出すように、この本来清浄なる心には世間のあらゆる出来事がそのままに映し出されるが、所詮は映像であって、真実には出ることもなく入ることもなく、失せもせず、壊れもしない。真実にはただ、常住なる一心があるだけである。何となれば、<さとり>にそなわっている一切の徳性はすべてこれ真実な性質のものであるからである。したがって、この自性清浄な心の表面にあらわれるいかなるけがれもそれを染汚することはできないことどんな映像が現われても鏡自体は汚れないごとくである。そして、<さとり>は智慧を本性としており、不動でありながらそこに煩悩にけがされない諸徳性を具備していて、それが衆生にはたらきかけて<さとり>に向かわせるのである。

第三には、それは真実なる諸徳が汚れを払って現われ出た鏡である。これは前項の、因のうちに備わる不空なる諸徳が、それを覆う煩悩という妨げ、および知に関する妨げを除き去って、さとりとまよいの和合した<アーラヤ識の>相を離れて、淳浄な明知となる点をいう。

第四にこれは、外から縁となって衆生にはたらきかける鏡である。これは前項の不空な徳性が覆いを離れて輝く出るのにもとづいて、その結果雲を出た満月のごとく遍く衆生の心を照らし出し、善根の修めさせるべく、その心の動きに応じてはたらきを表わす点をいう。


(第一は清浄、第二は内因としての浄化力、第三は離垢清浄、第四は外縁としての浄化力。覚の体は清浄で、智慧と不離なる諸徳を相とし、衆生を浄化する用をもつ。)




(大乗起信論より)