< 大乗非仏説論 >



 大乗非仏説論は決して小乗教徒が自宗を小乗と貶された腹癒せでのみ唱出されたものというのではない。小乗の如き著実で実行に適切な教が仏教であると確信している小乗から見れば、奔放濶達な空想に乗じて漂渺放胆な説をなすとも見える大乗は仏説とは思われなかったし、また小乗と共に古い時代から行なわれていたものではないから、後のものが案出して仏説に擬したものに過ぎないと考えて主唱するものであろう。大乗の側から大乗仏説を証明せんとする論が存するのみであるが、その論拠を見ると、大体の事情が推定せられ得る。然し今は細かにこの点を考察することを必要としないから、全部省略に従うが、シナでも、羅什の前後頃に、慧導が大品般若を非とし、曇楽が法華経を誹り、僧嵩、僧淵が涅槃経を信じなかったし、法度が一切の大乗経を斥けたといわれている。僧嵩は羅什の弟子、僧淵は僧嵩の弟子で、何れも学者であって、成実論の大家として有名であるから、後には自非を知って涅槃を信受したと伝えられているが、純小乗の立場からいえば、涅槃を謗るに至ることも必ずしも無理ではない点も見受けられるであろう。例えば、小乗でいえば、常楽我浄は四転倒で、四念処によって対治せねばならぬもの、この対治が修行に進み入る最初の門で、この対治が完成し、常楽我浄の転倒が起らないことにならねば、修行にはならないものであるのに、涅槃経では常楽我浄は大涅槃の四徳で、仏の法身は常楽我浄であるとなすのであるから、全く字面では矛盾せる説をなすもの、小乗から見れば、誤った説をなすものと見ざるを得ない。殊に、仏教すべてを通じて無我が説かれ、無我説が仏教の特色をなすとまでいわれているのに、今は仏に我があると主張するのであるから、これは仏教説ではなく、魔語に外ならぬとなすのも決して無理だとはいえないであろう。然し僧嵩も僧淵もこの誹謗の為にその舌根が襴れ、遂に非を覚って、後には却って法身常住の旨を説いたといわれるから、大乗非仏説論として発展する所はなかったのである。


 我国では元禄の少し後に大阪の富永仲基が出定後語を著して大乗非仏説論を主張した。この説は仏教経典の内容から批判的に組織したものであったから、当時の仏教学者の鋭い反対があったにも拘わらず、論破し尽くされるものではなかった。而もこれに依って服部天游の赤裸々などもあり、平田篤胤の出定笑語があり、殊に後者の影響は明治の廃仏毀釈にまで及んで、この廃仏毀釈の為に仏教の勢力は一時屏息した如くになり仏教は一時滅亡したといえるものである。次いで、明治時代に西洋の学問技芸が伝わるに従って、明治の中頃以後に、大乗非仏説論が、道俗の間で盛んに唱えられることになった。当時の非仏説論は一方には西洋の学術の方法が適用されているし、他方には経典の内容に基づいているから、容易に反駁し尽くされるものでなく、その間には大乗非仏説論が唱道せられることもあって、明治の末年前まで花々しい状勢であったが、大体の傾向としては非仏説論が一般に勢いを有し、好まぬながらも、暗々裡に承認せざるを得ないという状態であったと思われる。然し、その非仏説論というのは直接には大乗”経典”非仏説論であったし、仏説論は大乗”教理”仏説論であったのである。経典は前記の如く多数であり、明かに後世に書かれたものもあり、重要なるものが人間としての仏の説いたものではなく、凡てが人間離れの叙事であるから、これを人間釈尊が説いたとは考えられないといわねばならぬ。然し、かくして経典非仏説論を承認するとしても、経典に盛られた内容教理までが凡て非仏説となったのでは、経典を所依とする大乗各宗は仏説に基づくものではなく、仏教ではないものとならざるを得ないから、それでは各宗はたまらないので、内容教理は仏説の歴史的必然の発達を遂げたものが盛られている点で、大乗各宗も仏教たるを失わぬと論証せざるを得ないと考えて大乗教理仏説論が唱えられたと考えられるのである。


 大乗経典非仏説論は現代として考えて見ても真理たることを失わぬ説であって、明治末年頃にすでに一般的に承認せられたといえるが、しかも仏教徒としては釈尊の説いた所を何処かに伝えているであろうことを期待して、それを求めることが、感情的にも、要求せられるのも自然のことである。そこで、それを、今まで卑近浅薄と考えて殆ど見向きもしなかった小乗経典、即ち阿含経に見出さんとするに至った。殊に明治末期にはパーリ語の購読が盛んになって、セイロンに伝わる三蔵が漸次読破せられるに至り、シナに訳されている阿含経との対照が行われ、その一致平行する所が驚くべきものであったから、これが即ち仏説を伝えているものとして、大いに安心するを得た如き状態であった。実際この安心というか落ちつきというか、ともかく仏説の経に遭遇したという満足は頗る大なるものであったから、阿含経を研究し、それを纏めて原始仏教と称し、根本仏教と呼んで、華々しい活動をした。その趣く所、律は勿論のこと、論までも仏説であるかの如く扱う態度すら見えた程である。これもある程度は無理からぬことである。


 しかるに大正の半頃になると、シナ訳とパーリ語との阿含経の比較研究も精密になり、言語としてのパーリ語の考察も進んで来て、従来いわれていた一致平行も予想ほどではなく、またパーリ語も果して釈尊の用いた言語そのままであるかは問題であるし、而も経の叙述そのものが、説法をそのままに伝えているとは認められないし、言語に歴史的変遷のあることが考えられるに及んで、遂に小乗経典非仏説の考も起り、また小乗仏教研究の結果は小乗教理非仏説も拒むを得ない傾向となった。昭和の時代に入っては仏説、非仏説の論は、大乗に関しても小乗に関しても、経典教理何れの方面に於いても、もはや論ぜられるが如きことはなくなったようである。長い間の議論も恐らく終息したというてよいであろうと思われる。現今の研究状態では、以下の章に述べる如き事情の為にかかる議論の容れられる余地はないであろうと思われる。


 前にいうた如く、大乗、小乗をやかましく言うに至ったのは、シナ仏教の教相判釈によるのであるが、教相判釈は仏教全体について分類区別をなすものであるから、大乗、小乗の区別で仏教全体を区別することになるものである。従って、仏教概論を考える場合にも、小乗と大乗とを論述すれば、それでよろしいことになり、その方法で仏教の全体を包括する道理である。然し近代に於ける仏教研究の状態でいえば、これでは仏教の全体を包括するを得ない。所謂原始仏教は小乗、大乗以外のもので、仏教が猶未だ小乗とならなかった以前のものであるからである。従来の考では、小乗、大乗の経は凡て仏が一代に説いたものとなしていたから、仏教のことを一代の教というのであるが、経は仏の説いたものではないとなして、歴史的に研究する以上は、各経の間に新古の別があり、各経は発達変遷の間に現われたものとなさざるを得ないから、小乗を大乗よりも古いと見れば、小乗以前をも考えざるを得ないのである。従って、そこに原始仏教が考えられて来る。そして資料は主として阿含経である。故に従来は阿含経を小乗の経と見ていたのであるのが、現今としては、この如くにのみは見ないのである。従って阿含経を基として原始仏教を考えるとすれば、仏教全体は少なくとも原始仏教、小乗仏教、大乗仏教とせねばならぬ。原始仏教は阿含仏教と呼んでもよいが、小乗、大乗以外に、仏教中に一地位が与えられることになったのである。


 然るに、更に進んで、阿含経の研究から、阿含経以前の仏教なるものが考えられねばならぬことになる。これを根本仏教と呼び、釈尊自身並びに直接の弟子の仏教を指すのであるが、これは原始仏教の中に根本仏教と、通常いう原始仏教とを含めて見てもよい。かかる根本仏教を明らかにすることは容易なることではないが、然し学的研究としては放置すべきではなく、精進努力して攻究せねばならぬものであると考えられる。実際上、言語の方面からも、根本仏教の存在が支持せられ、彫刻遺物の方面からも支持せられるし、史的発達という上からも、考究をなさねばならないものである。以下論述する所は凡てこの如き考によっているのであるが、然し、今は便宜上、現今の阿含経は小乗経典の名によって取り扱うことにする。




(宇井伯寿)