< 皇室と仏教 >





 万世一系の帝祚を踐み給へる天皇の光臨し統御し給える日本国は、当然皇室を中心として、文化の歴史が光飾せられている。ここに、自ら世界に比類なき国体の尊厳が発揚せられていることを仰視すべきである。

 天祖の神勅に『宝祚の隆ことまさに天壌と窮まり無かるべし』と、玉音雷の如く響き、ここに日本国民の自覚が、強烈なる信念となって高調せられているのである。かくて歴代の皇室は国民の至純至正なる信念の本源であり、帰趨である。

 この意義に依って、万世一系の皇室を奉戴する日本国民は、常に宗教的に生息し、信念的に躍動しているのである。


 この顕著なる歴史的事実は、説明するまでもなく、日本国民たる者は、何人もよく領會していることである。

 然るにこの歴史的事実の他の一面に、歴代の皇室が、自ら宗教的に生息し、信念的に躍動せられている歴史的事実が開顕せられるるに至っては、日本国民たる者大いに感激せざるを得ない。

 即ち歴代の天皇、皇后、皇子、皇女の日常の御言動を窺い奉りて、崇厳敬虔なる御信念の表現が拝せらるるに至っては、寧ろ大いに驚嘆し、且つ驚畏せざるを得ないのである。


 日本の歴史は、二千六百年に亘っているが、その前半一千三百年は、原始時代と云うべくして、後半一千三百年は、文化時代と云うべきである。而して日本の歴史は、その原始時代が宗教的に盛飾せられているのであるが、文化時代に入って、益々大いに宗教的に光飾せられていることが、注視せらるるのである。これは文化時代の初めより、印度・西蔵・支那等の教学の流入に依って、著しく宗教的意識の教養せられたるに由るのである。殊に仏教の流入に依って、大いに教養せられ、原始時代以来の伝統的宗教的意識は、著大なる発達をなした。ここに仏教の異常なる興隆を見ることとなったのである。


 日本の皇室は、原始時代より宗教的であり、信念的である事実が排せらるるのである。即ち皇室が先導となり、中堅となって、仏教が崇重せらるることとなり、ここに文化時代が光飾せらるることとなった。これが日本の特異なる歴史的事実であると云うべきであろう。

 歴代の天皇、皇后、皇子、皇女の御方々が、仏教を信仰し、修行し給えることは、歴代の記録に依って正確に伝えられている。この歴史的事実は、何人も否定せらるべきことでない。ここの日本の文化時代の重大なる意義が考察せらるべきである。


 然るに江戸時代の中期以来、学問研究の対抗的形勢が、国民思想の闘争を催起し、一部の学者らが日本の歴史を改造せんとし、遂に歴代の天皇、皇后、皇子、皇女の御方々の重大なる意義を解釈せざるばかりでなく、自ら不遜の行為であることに思い至らなかったものである。今日に至って、彼等を責むる要なしと雖も、その由来を審らかにするを要するのである。

 江戸時代の中期に至り、仏教は精神を失い、形式に堕したのであるから、一部の学者等が、極力排撃したることは、亦当然であったであろう。然し当時目前の状況を以て、叨りに歴史的事実を臆断して排撃したるは、彼等の軽率であり、暴慢であった。


 歴代の天皇が、仏教を外護し給うたと云うは未だよく事実を説明したものでない。歴代の天皇、皇后、皇子、皇女の御方々は、自ら仏教を研究し、信仰し、修行し給い、仏教の意義に依って法体となり給うた御方々が頗る多い。一面より見れば、この事実は、日本の原始時代以来の伝統的の宗教的意識が、皇室を中心として大いに発揚し、活動したものである。極言すれば、仏教の名を以て表現したる日本の偉大なる精神的事象である。

 それで日本の仏教は、日本の文化の付加物でもなく、従属物でもない。今日本の歴史を解釈する者も、日本の仏教を説明する者も、共に十分にこの意義を領會すべきである。


 明治時代の初め、神仏の混淆が禁ぜられ、神仏の分離が叫ばれたのである。宗教が形式に堕し、信念が生命を失うに至り、始めて混淆するものと云わるることとなったのである。それで分離すると云われて極力仏教が排斥せられた。

 然し日本の歴史的事実は如何ともせられない。明治時代以来の道徳教化が、専ら崇祖の思想を強張しようとしたのであるが、一方に文化時代一千余年の間の歴租の宗教を排斥し、信念を否認したことは、大なる撞着である。今日に至り、国民は自ら大いに反慮すべきである。


 歴代の皇室が、自ら宗教的に生息し、信念的に躍動せられたる事実が開顕せられ、ここに自ら仏教の興隆の由来が説明せらるることが、日本の特異なる歴史的事実であるに思い至れば、謹んでその窺い得たるところを記述し、弘伝することを躊躇すべきでない。




(鷲尾順敬)






 推古天皇の仏法興隆の詔に次いで、孝徳天皇は仏法崇信十師創設の詔あり、盛んに留学僧を御奨励になり、又親しく晏法師の病を問はさ給ひて、「若今法師亡せば朕は従って明日亡ぜん」との御言葉を賜った。天武天皇は諸国の民家毎に仏舎を置からしめられ、又書生を召して一切経の写経を初めさせられた。持統天皇は先帝、天武天皇の御遺志を継がせられ、仏法を諸国に弘通せしめられた。元正天皇は深く国民の実際教化に御意を用いさせられ、特に僧尼を誡飾せさせ給うた。聖武天皇の三宝興隆、経典の国内頒布、国分寺造営、大仏造立。光明皇后の施薬悲田の両院設置、御願経の写経。孝謙天皇の百万燈造立、慈善救済等、悉く顕著な御事蹟であった。天長節は、光仁天皇の御代に、その御誕生日に当たり、転経行道せしめられたのに起因する。


 平安朝になって桓武天皇は年分度者、講師読師の制を始めさせられ、平安仏教の基礎が此時に成った。平城天皇は仏寺の革新を志されしが、在位三年にして御譲位、出家入道せられた。その皇子にまします高岳親王は、事のために皇太子を辞させられてから、入道して真如と称せられ、空海の弟子として入唐せられ、御滞留三年、八十近くの御高齢の御身を以て、更に印度に向はせられた。その後の御消息は杳として知る所がなかったが、偶々、元慶五年に入唐僧仲瑾により、法親王が羅越国で逆旅中に遷化せられたことを聴き伝えられてから、始めて絶域入寂のことがわかった。師錬が『元亨釈書』十六で、『湛廬豪曹の猶きは、玄奘・義浄と雖も多く譲らず。推古より今に至るまで七百歳。学者の西遊を事とするや千百を以て数ふ。印度に跋るものは只だ真如法親王一人のみ、吾、如を以て求法の魁となすは是なり』と絶賛しているが、金枝玉葉の御身にして、此不惜身命の御事蹟は、日本仏教史中全く前後に比類なき唯一の芳躅であった。


 嵯峨天皇が最澄に答へ給ひし御製漢詩、『答澄公奉献詩』の中に、『朝家英俊無く、法侶賢才隠る』の御句のあるのは、信仰上、学問上、最澄を祟重し給ひし帰向の御意を現わされたものだが、亦当時、英遇学徳の士が好んで仏門に帰入したことが知られる。嵯峨天皇は又深く空海に帰信されたことは、『類聚国史』、『凌雲集』、『経国集』に遺った詩文に顕著な事実である。嵯峨天皇から空海に賜わった御製詩中に、『禅関近日消息絶、京色如今花柳寛』の御句があるが、上下交々肝臚相照の光景が窺われる。


 檀林皇后と檀林寺。淳和天皇と講経禮懴。その皇后(正子内親王)と大覚寺。仁明天皇と読経修法、宮中灌仏、御落飾。文徳天皇の造寺供経、清和天皇の造像護国、一万三千仏図、名山霊場の御巡歴。とりわけ宇多天皇は、『天地神祗及び三宝の冥戦鑑に任ぜん』との堅き信念に立たせ給ひ、御出家の後は苦行錬行、具足戒、廻心戒を受けさせられ、遂には密教の法統を相承せさせられ、密教に関する御著述があった。御室仁和寺は実にその御遺蹟であって、延喜四年三月、その落慶咒願の御辞に、『萬姓の造悪、罪皆我一人に帰せり。今仏子となりて、一身に修する所の善、普く法界を利せん』と仰せられた。北畠親房は、『神皇正統紀』中に、「法皇は両流の法王にまします」(台密と東密)といひ、又世、多く延喜天暦の治を称賛するが、「此御代こそ無為の御政なりけんとをしはかられ侍る」と云っている。宇多天皇の第三皇子、法三宮真寂親王には、五十余部の御著述があり、『梵漢語説集』の如きは実に百巻の大著であった。醍醐天皇と悔過密修、醍醐寺造営、御出家。朱雀天皇と造寺鎮国、御出家写経。圓融天皇と圓融寺、天皇並に皇后の御落師。花山天皇と書写山、入道御巡歴。一條天皇と圓教等四箇の御願寺、八万四千の泥塔。後三條天皇と圓宗寺、神社への仏舎利奉納。白河天皇と法勝寺、無量光院、等は僅かにその一端に過ぎない。こうして遥かに平安末から近世に及んでいる。




(矢吹慶輝)