< 生まれつきによる本性 >



ブッダ曰く

 「カーシャパよ、あますところなく観察が行われるとき、心の存在は認められない。すなわち・・・否定(不可得)される。否定されるものは、過去にもなく未来にもなく、現在にもない。過去でもなく、未来でもなく、現在でもないものは、三つに時間を超越している。三つの時間を超越したものは、有でもなく無でもない。有でもなく無でもないものは、生れることがない。生れることがないものには、そのものの自体(自性)がない。自性のないものには起ることがない。起ることのないものには、滅することがない。滅することがないものには、過ぎ去ることがない。過ぎ去ることがないならば、そこには行くこともなく、来ることもない。死ぬこともなく、生れることもない。行くことも来ることもなく、死ぬことも生まれることもないものには、いかなる因果の生成もない。いかなる因果の生成もないものは、変化作為のないもの(無為)である。それは聖者たちにある、生まれつきによる本性である。


 聖者たちの生まれつきによる本性というもの、そこには、戒を学ぶということもなく、戒律上の四つの条件もなく、条件がないのでもない。戒を学ぶことを越え、戒律の条件を越え、条件をはずれていることを越えているところには、学道をふみはずすということもない。学道をふみはずすことのないところには、守るべき掟(律儀)もなく、掟でないものもない。守るべき掟を越え、掟でないものを越えているところには、修行もなく、修行しないこともなく、してはいけない修行をすることもない。


 修行を越え、不修行を越え、過度の修行を越えているところには、心もなく、心作用の諸法のない。心もなく心作用の諸法もないところには、意志もなく識知することもない。意志もなく識知することもないところには、善悪の行為もなく、その果報もない。行為もなく果報もないところには、安楽もなく苦悩もない。安楽も苦悩もないところ、それが聖者たちの『生まれつきの本性』である。聖者たちの生まれつきによる本性というもの、そこには行為もなく、行為を起すこともない。その生まれつきによる本性においては、身体的な行為もなされず、ことばによる行為も、意志による行為もなされない。またその生まれつきによる本性においては、劣等、優秀、中庸という区別もない。


 その生まれつきによる本性は、虚空がどこにあっても平等であるようなあるかたで、誰にとっても平等である。その生まれつきによる本性は、すべての存在が究極的には一つの本質のあるものであることによって、差別のないものである。


 この生まれつきによる本性は、身体とか心とかの差別をすっかりはなれているから、離脱して閑寂である。この生まれつきによる本性は、悟りの世界(涅槃)へと方向づけられている。この生まれつきによる本性は、すべての煩悩の汚れがなくなっているから、無垢である。この生まれつきによる本性は、自分が何かをするという執着、自分のものであるという執着がなくなっているから、『わがもの』ではない。その生まれつきによる本性は、真実なものと真実でないものとが究極的には平等であることによって、不偏なものである。この生まれつきによる本性は、もっともすぐれた真理として、この世間を超越したもの、まことなものである。その生まれつきによる本性は、究極的には不生なものであるから、滅することのないものである。その生まれつきによる本性は、存在の如実性としてつねにあるから、永遠なものである。その生まれつきによる本性は、もっともすぐれた涅槃であるから、楽あるものである。その生まれつきによる本性は、あらゆる種類の汚れが除かれているから、浄らかなものである。その生まれつきによる本性は、探し求めても自我は存在しないから、自我のないものである。


その生まれつきによる本性は、絶対に清浄なものとして、清浄である




(宝積経より)