子どもの楽園


〜 明治期 外国人から見た日本の子どもたち 〜



 日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである。彼は初めて長崎に上陸したとき、「いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわ」してそう感じたのだが、この表現はこののち欧米人訪日者の愛用するところとなった。

 事実、日本の市街は子どもであふれていた。スエンソンによれば、日本の子どもは「少し大きくなると外へ出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわっている」のだった。


 「子どもたちの主たる運動場は街上である。・・・子供は交通のことなど少しも構わずに、その遊びに没頭する。かれらは歩行者や、車を引いた人力車夫や、重い荷物を担いだ運搬夫が、独楽を踏んだり、羽根つき遊びで羽根の飛ぶのを邪魔したり、紙鳶の糸をみだしたりしないために、すこしの迂り路はいとわないことを知っているのである。馬が疾駆して来ても子供たちは、騎馬者や馭者を絶望させうるような落着きをもって眺めていて、その遊びに没頭する」(ネットー)


 「家々の門前では、庶民の子供たちが羽子板で遊んだりまたはいろいろな形の凧をあげており、馬がそれをこわがるので馬の乗り手には大変迷惑である。親は子供たちを自由にとび回るにまかせているので、通りは子供でごったがえしている。たえず別当が馬の足下で子供を両腕で抱上げ、そっと彼らの戸口の敷居の上におろす」(ブスケ)


 先駆けする別当は「道路の中央に安心しきって坐っている太った赤ちゃんを抱き上げながらわきへ移したり、耳の遠い老婆を道のかたわらへ丁重に導いたり、じっさい10ヤードごとに人命をひとつずつ救いながらすすむ」のだった。(メアリ・フレイザー)


 明治6年の末に東京へ移ったが、「街頭で最も興味ある光景は、子供の遊戯」だった。「米の粉で化粧され、唇は真赤に染められ、頭髪は甚だ異様に結いあげられた」少女たちが、5,6人輪を作って羽子板遊びをしていた。彼女等の歌っているのは、羽根つきの邪魔をする風を鎮める歌だった。男の子たちは凧上げに夢中だ。クラークは最初、ぶーんぶーんという「空から聞こえてくる不思議な音」が何だかわからなかった。竹馬に乗って競争する子たちがいるかと思うと、6歳くらいの子が相撲をとっている。「彼らの身体は頑丈で丸々と太っていて、その赤い頬が健康と幸福を示していた。クラークの見たのはむろん正月風景である。(クラーク)


 「街はほぼ完全に子どもたちのものだ」と感じた。「東京には馬車の往来が実質的に存在しない。四頭立ての馬車はたまにしか見られないし、電車は銀座とか日本橋という大通りしか走っていない。馬にまたがり、鞍垂れをつかんで走る別当を連れて兵営を往き帰りする将校にときたま出会うくらいだ。こういったものは例外だ。従って、俥屋はどんな街角も安心して曲がることができるし、子どもたちは重大な事故をひき起こす心配などこれっぽっちもなく、あらゆる街路の真っただ中ではしゃぎまわるのだ。この日本の子供たちは、優しく控え目な振舞いといい、品のいい広い袖とひらひらする着物といい、見るものを魅了する。手足は美しいし、黒い眼はビーズ玉のよう。そしてその眼で物怖じも羞かみもせずにあなたをじっと見つめるのだ」(アーノルド)


 「日本ほど子供が、下層社会の子供さえ、注意深く取り扱われている国は少なく、ここでは小さな、ませた、小髷をつけた子供たちが結構家族全体の暴君になっている」(ネットー)


 「日本の子供たちは、他のどこでより甘やかされ、おもねられている」(ブスケ)


 「私は日本が子供の天国であることを繰り返さざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」(モース)


 「私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている。毎朝六時ごろ、十二人か十四人の男たちが低い塀に腰を下ろして、それぞれ自分の腕に二歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と智恵を見せびらかしているのを見ていると大変面白い。その様子から判断すると、この朝の集まりでは、子どもが主な話題となっているらしい」(イザベラ・バード)


 「江戸の街頭や店内で、はだかのキューピットが、これまたはだかに近い頑丈そうな父親の腕に抱かれているのを見かけるが、これはごくありふれた光景である。父親はこの小さな荷物を抱いて、見るからになれた手つきでやさしく器用にあやしながら、あちこち歩きまわる」(オールコック)


 「父親が子どもと手をつなぎ、何か面白いことがあると、それが見えるように、肩の上に高くさし上げる」(モース)


 「一般に親たちはその幼児を非常に愛撫し、その愛情は身分の高下を問わず、どの家庭生活にもみなぎっている」。親は子どもの面倒をよく見るが、自由に遊ばせ、ほとんど素裸で路上を駆け回らせる。子どもがどんなにヤンチャでも、叱ったり懲らしめたりしている有様を見たことがない。その程度はほとんど「溺愛」に達していて、彼らほど愉快で楽しそうな子どもたちは他所では見られない」(カッテンディーケ)


 「子供は非常に美しくて可愛く、六、七歳で道理をわきまえるほどすぐれた理解をもっている。しかしその良い子供でも、それを父や母に感謝する必要はない。なぜなら父母は子供を罰したり、教育したりしないからである」日本人は刀で人の首をはねるのは何とも思わないのに、「子供たちを罰することは残酷だと言う」(アビラ・ヒロン)


 「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ言葉によって譴責するだけである」(フロイス)


 「注意すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった」(ツュンベリ)


 「日本人の性格として、子供の無邪気な行為に対しては寛大すぎるほど寛大で、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」(フィッセル)


 「イギリスでは近代教育のために子供から奪われつつあるひとつの美点を、日本の子どもたちはもっている。すなわち日本の子供たちは自然の子であり、かれらの年齢にふさわしい娯楽を十分に楽しみ、大人ぶることがない」(オールコック)


 「子供が転んで痛くした時とか、私達がばたばたと馬を駆ってきた時に怖くて泣くとかいう以外には、子供の泣く声を聞いたことがなかった」(オイレンブルク)


 「赤ん坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、私はいままでのところ、母親が赤ん坊に対して癇癪を起しているのを一度も見ていない」(モース)


 「私は日本の子供たちがとても好きだ。私はこれまで赤ん坊が泣くのを聞いたことがない。子どもが厄介をかけたり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。英国の母親がおどしたりすかしたりして、子どもをいやいや服従させる技術やおどしかたは知られていないようだ」(イザベラ)


 「世界中で、両親を敬愛し老年者を尊敬すること、日本の子供に如くものはない」(モース)


 「日本の子どもはたしかにあまやかされているが、フランスの庶民の子どもよりよくしつけられていると感じた」(ブスケ)


 「日本の子どもは、怒鳴られたり、罰を受けたり、くどくど小言を聞かされたりせずとも、好ましい態度を身につけてゆく。彼らにそそがれる愛情は、ただただ温かさと平和で彼らを包み込み、その性格の悪いところを抑え、あらゆる良いところを伸ばすように思われます。日本の子どもは決しておびえから嘘を言ったり、誤ちを隠したりはしません。青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりするのです。小さな家庭では、子供がすべてを牛耳っているが、それでもけっして、彼らが甘やかされてだめになることはありません。分別がつくと見なされる歳になると(いずこも六歳から十歳の間ですが)彼はみずから進んで主君としての位を退き、ただ一日のうちに大人になってしまうのです」(フレイザー夫人)


 「彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、(お菓子を)受取るものは一人もいなかった。許しを得るとにっこりと頭を下げ、他の子どもにも分けてやる。堅苦しすぎるし、少しませている」「子どもたちが遊びの際に自分たちだけでやるように教えられているそのやりかたに感心した」「家庭教育の一部は、いろいろなゲームの規則をならうことである。規則は絶対であり、疑問が生じた場合は、言い争ってゲームを中断するのではなく、年長の子供の裁定で解決する。彼らは自分たちだけで遊び、たえず大人を煩わせるようなことはしない」(バード)


 「日本の子どもたちは、他のいずれの国の子供達より多くの自由を持っている」(モース)


 「当所に子供地蔵といふあり。木像にて高さ一尺一寸ばかりあり。子供、遊び道具にす。夏分どもには、地蔵さんも暑かろうとて川の中へ流し、冬は炬燵に入れる。方々持ち廻り、田の中などへ持ち込めり。しかりといえども障りなし。大人ども叱りなどすれば、たちまち地蔵の機嫌をそこなひ障りあり」(日向国佐土原藩の修験者野田成亮)


 「日本の子どもは一人家に置いて行かれることがなかった。彼らは母親か、より大きな子供の背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるもののすべてを見物する」(モース)


 「父と母とが一緒に見世物に行くときは、一人か二人の子供を背中に背負うか、または人力車の中に入れて連れていくのが常である」(ブスケ)


 「カンガルーがその仔をそのふくろに入れて何処へでも連れて行くように、日本では母親が子供を、この場合は背中についている袋に入れて一切の家事をしたり、外での娯楽に出かけたりする。子供は母親の着物と肌とのあいだに栞のように挟まれ、満足しきってこの被覆の中から覗いている。その切れ長な眼で、この眼の小さな主が、身体の熱で温められた隠れ家の中で、どんなに機嫌をよくしているかを見ることができる」「日本では、人間のいるところなら何処を向いても見ても、その中には必ず、子供も二、三人は混じっている。母親も、劇場を訪れるときなども、子供を家に残してゆこうとは思わない。もちろん、彼女はカンガルーの役割を拒否したりなどしない。こうして子どもは、寺詣りにも花見にも、長旅の巡礼にさえお伴してついて行く」(ネットー)


 「子供に特別な服装はない。これは奇妙な習慣なので、何度でも繰り返さないわけにはいかない。子供は三歳になると着物と帯をつける。・・・この服装で子供らしい遊びをしている姿はグロテスクなものだ」(バード)


 「子供が大人とまったくおなじ衣裳をしているという事実は、初めわれわれの眼には、彼らにひどく滑稽な外見を与えるものに見えた。二歳の児と七十歳の老人が正確に同じ種類の衣裳をまとっている。後者を向きを逆にしたオペラグラスで見ると、前者のように見える」(ジェフソン)


 「日本の少女はわれわれの場合と違って、十七歳か十八歳まで一種の蛹状態にいて、それから豪華な衣装をつけてデビューする、というようなことはない。ほんの小さなヨチヨチの子どもでも、すばらしく華やかな服装をしている」(チェンバレン)


 「明治十一年、日光の入町村で村長の家に滞在中、『公式の子どものパーティー』がこの家で開かれるのを見た。主人役の十二歳の少女は化粧して振袖を着、石段のところで優美なお辞儀をしながら、やはりおなじ振袖姿の客たちを迎えた。彼女らは、暗くなるまで、非常に静かで礼儀正しい遊戯をして遊んだが、それは葬式、結婚式、宴会といった大人の儀礼のまねごとで、子どもたちの威厳と落着きにすっかりおどろかされてしまった」(イザベラ)


 「子どもが母親の背から降りるようになって第一にする仕事は、弟や妹の子守りだった。そこで、街中に子供に背負われた子供や、子供を背負った子供が見られる。背負っている方の子供が、背負われている子供に比べてあまり大きくないこともある」(ネットー)


 「日本の子供は歩けるようになるとすぐに、弟や妹を背負うことをおぼえる。・・・彼らはこういういでたちで遊び、走り、散歩し、お使いに行く」(ブスケ)


 「弟妹を背負った子供たちが東京の下町の風景に独特な味を添えている」(チェンバレン)


 「来日間もなく田植えの風景を見たが、親も子も一緒になって働いている傍らの田の畔では、小さな子が赤ん坊を背負って一家のすることを見物していた。子どもが六人いれば五人まで、必ず赤ん坊を背負っている」(モース)


 「出会う女性がすべて、老若の婦人も若い娘も、背中に子供をおぶっている。しかも、肩にしている赤ん坊とはほとんど同じくらい小さな子供に、こうして背負われている子供さえ見える。これほどの子供をどこで見つけられるだろうか」(ギメ)


 「下層階級の赤ん坊は生まれて二、三週間もたつと、家族の誰か、多くは姉とか兄の背中にくくりつけて運ばれる。その姉や兄はときにはわずか五、六歳ということもある。家庭が貧しいほど、幼な児が誰かにおんぶされる時期が早く来る。生後ひと月になるかならないくらいの赤子が、頭をぐらぐらさせたり、まばたきをしたりしながら、兄か姉の背に長い布のバンドでくくりつけられ、どんな天候の下でも街中で過ごしているのをよく見かける。寒いときは姉さんの羽織が特別の覆いの役目をするし、日差しが烈しいときは姉さんの日傘が、ぐらついている髪の生えぬ頭を日差しから守ってくれる。こんな風に世間の中で過ごしているので、彼らはすぐ賢そうで生き生きした顔つきになるし、年上の子供たちのやっている遊びを、おんぶしている者の背中から、遊んでいるものとおなじくらい楽しむのである」(ベーコン)


 「日本の赤ん坊はおんぶされながら、あらゆる事柄を目にし、ともにし、農作業、凧上げ、買物、料理、井戸端会議、洗濯など、まわりで起こるあらゆることに参加する。彼らが四つか五つまで成長するや否や、歓びと混ざりあった格別の重々しさと世間智を身につけるのは、たぶんそのせいなのだ」(アーノルド)


 「私の近所に住む日本人はほとんどは漁師だったが、いつも丁寧で礼儀正しかった。一方連中の方も私に満足していたはずだ。というのは、毎週三回私の中庭を開けて子供達を遊ばせてやったり、持ってきたおもちゃを貸してやったからだ。私は、あんなに行儀よくしつけの良い子供達は見たことがない。子供達は喧嘩したり叫んだりすることなくおとなしく遊び、帰る時間になるとおもちゃをきちんと片づけて、何度も丁寧に御礼を言って帰るのだ」(ポルスブルック)


 「おおいにおどろいたことに、まず私たちの眼にはいったのは、次のような仕方で楽しんでいる大勢の子供たちだった。独楽を廻したり、凧を揚げたり、竹馬に乗ったりしている男の子、羽根つきをしている女の子。これがおどろきだったのは、独楽にせよ凧にせよ、また羽子板にせよ、私の子どもの頃に手にしたものより、すべてがすぐれた作りだったからだ」(ホームズ)


 「子供の室内遊戯の多くは、大人の生活の重大な出来事を真似したものにすぎない。芝居に行って来た男の子が家に帰ると、有名な役者の真似や、即席で芝居の物真似をする。小さな子の遊びに病気のふりをし、『医者みたいに振舞う』のがある。おかしくなるほど几帳面に丸薬を粉薬の本物の医者のように、まじめくさって大層らしく振舞い、病人は苦しんで見せる。食事、茶会、結婚式、葬式までも日本の子供は真似をして遊ぶ」

「日本ほど子供の喜ぶ物を売るおもちゃ屋や縁日の多い国はない」(グリフィス)


 「日本のおもちゃ屋は品数が豊富で、ニュールンベルクのおもちゃ屋にもひけをとらない、みな単純なおもちゃだが、どれもこれも巧みな発明が仕掛けてあって、大人でさえ何時間も楽しむことができる」(スエンソン)


 「玩具を売っている店には感嘆した。たかが子供を楽しませるのに、どうしてこんなに智恵や創意工夫、美的感覚、知識を費やすのだろう、子供にはこういう小さな傑作を評価する能力もないのに、と思ったほどだ。聞いてみると答えはごく簡単だった。この国では、暇なときはみんな子供のように遊んで楽しむのだという。私は祖父、父、息子の三世代が凧を揚げるのに夢中になっているのを見た」(ヒューブナー)


 「あらゆる種類の玩具が豊富に揃っていて、中にはまことにうまく出来ていて美しいのがある。玩具の商売がこんなに繁昌していることから、日本人がどんなに子どもを好いているかがわかる」(フォーチュン)


 「道に群れている沢山の歩行者の中に、市場から家路を急ぐ農夫たちの姿があった。大都会で何か買い物したものを抱えているのだが、この気のいい連中のうち、子どもの玩具を手にしていない者はごく稀であることに目がひかれた。玩具屋がずい分多いことにすでにわれわれは気づいていた。こういったことは、この心のあたたかい国民が、社会の幼いメンバーにいかにたっぷりと愛を注いでいるかということの証拠だろう」(オズボーン)


 「日本人が非常に愛情の深い父であり母であり、また非常におとなしくて無邪気な子供を持っていることに、他の何よりも大いに尊敬したくなってくる」(グリフィス)


 「日本人は確かに児童問題を解決している。日本の子供ほど行儀がよくて親切な子供はいない。また、日本人の母親ほど辛抱強く愛情に富み、子供につくす母親はいない」(モース)


 「横浜に上陸して初めて日本の子どもを見たとき、何とかわいい子供。まるまると肥え、ばら色の肌、きらきらした眼」(グリフィス)


 「どの子もみんな健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており、魅せられるほど愛らしく、仔犬と同様、日本人の成長をこの段階で止められないのが惜しまれる」(スエンソン)


 「子供は大勢いるが、明るく朗らかで、色とりどりの着物を着て、まるで花束をふりまいたようだ。・・・彼らと親しくなると、とても魅力的で、長所ばかりで欠点がほとんどないのに気づく」(パーマー)


 「母親と同じ振袖の着物を着てよちよち歩きをしている子どもほど、ものやわらかでかわいらしいものはない」(シッドモア)


 「私は日本人など嫌いなヨーロッパ人を沢山知っている。しかし日本の子供たちに魅了されない西洋人はいない」(ムンツィンガー)


 「日本人の生活の絵のような美しさを大いに増しているのは、子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯だった」

 「日本の赤ん坊は普通とても善良なので、日本を天国にするために、大人を助けているほどである」(チェンバレン)


 「日本の子どもは、世界で一番かわいい子供だった」(モラエス)



 かつてこの国の子どもが、このようなかわいさで輝いていたというのは、なにか今日の私たちの胸を熱くさせる事実だ。モースは東京郊外でも、鹿児島や京都でも、学校帰りの子どもからしばしばお辞儀され、道を譲られたと言っている。モースの家の料理番の女の子とその遊び仲間に、彼が土瓶と茶碗をあてがうと、彼らはお茶をつぎ合って、まるで貴婦人のようなお辞儀を交換した。「彼らはせいぜい九つか十かで、衣服は貧しく、屋敷の召使いの子供なのである」。彼はこの女の子らを二人連れて、本郷通りの夜市を散歩したことがあった。十銭ずつ与えてどんな風に使うか見ていると、その子らは「地面に坐って悲しげに三味線を弾いている貧しい女、すなわち乞食」の前におかれた笊に、モースが何も言わぬのに、それぞれ一銭ずつ落し入れたのである。この礼節と慈悲心あるかわいい子どもたちは、いったいどこへ消えたのだろう。

 しかしそれは、この子たちを心から可愛がり、この子たちをそのような子に育てた親たちがどこへ消えたのかと問うことと同じだ。



(渡辺京二)