< 聖徳太子と清浄心 >



 「世尊よ、如来蔵はこれ法界蔵なり、法身蔵なり、出世間上上蔵なり、自性清浄蔵なり。


この自性清浄と如来蔵とは、しかも客塵煩悩と上煩悩とに染せらるる不思議の如来の境界


なり。何をもっての故に、刹那の善心は煩悩の所染にあらず。刹那の不善心もまた煩悩の所


染にあらず。煩悩は心に触せず、心は煩悩に触せず。云何ぞ触せざる法にして、しかも能く


心を染することを得ん。世尊よ、しかも煩悩あり、煩悩の心を染することあり。自性清浄なる


心にして、しかも染あることは了知すべきこと難し。唯、仏・世尊のみ実眼たり、実智たり、法


の根本たり、通達の法たり、正法の依たり。実に如く知見したもう」(勝鬘経)


 (本章の要旨は、人々が各自に具わる如来蔵の存在を信ずることが、大乗の教えを実践し、究極の真実を体得する要因となるという。そこで、まず仏教で説く『心性本浄説』の立場から規定して、如来蔵を本性として清浄なるものととらえ、なぜもともと清浄な如来蔵が迷いの煩悩によって汚されるのか、という面について解明する)


太子言く

 『世尊よ、如来蔵はこれ法界蔵なり』より以下は、特別に観察の対象を説明する中の第四章で、これを『自性清浄蔵』と名づける。この章が設けられた理由は、本章の直前の第三章である『転倒真実章』において、『この如来蔵は迷いの煩悩の中に存在し、すでに人びとのよりどころとなっており、人びとが迷いの煩悩から離脱してしまってから、かれらのよりどころとなるというのではない』と説くのを聞いて、ただちに疑問を抱く人があるであろうと予想して、それに答えるためなのである。すなわち、疑問とは、『もしそうであるならば、この如来蔵は必ず生死の迷いに染まってくることになるから、どうして尊貴なものとして人びとのよりどころとなりえようか。もしも生死の迷いに染まっていないというのであれば、如来蔵はすでに生死と別々に隔てられているから、どうして人びとのよりどころとなりえようか』というのである。それにたいして本章では、『この如来蔵はその本性が煩悩のけがれや迷いを離れた清らかなものであり、迷いの煩悩のただ中にあってもけっして生死に染まることはない、ただ生死の中に包み隠されているだけなのである』と答えるのである。


 勝鬘夫人がみずから説く部分を、さらに四つに分ける。


 第一に、煩悩に染まるか染まらないかを明らかにするために、まず如来蔵の『蔵』に五種類あることを挙げて、それが本来同一のものであることを説明する。

 第二に、『この自性清浄』より以下は、煩悩に染まるか染まらないかを区別して知ることが難しいむねを説明する。

 第三に、『何をもっての故に』より以下は、われわれの身近な事例として、一瞬の心の動きをとり挙げて、如来蔵という深遠な道に比べる。

 第四に、『云何ぞ触せざる法にして』より以下は、煩悩に染まるか染まらないかを明かに知るには、仏のみであると考えて、説明を仏に乞う。


 第一に、まず如来蔵の『蔵』に五種類あることを挙げて、それが本来同一のものであることを説明する。すなわち、

 一つには、如来蔵である。この場合は、それが迷いの煩悩の内に存在しているから『蔵』といい、またやがて将来に引きおこす結果を内包しているから『蔵』と名づける。

 二つには、法界蔵である。そのわけは、仏のさとりがあらゆる現象世界を内包して、あまねく照らすからであり、また、これが永遠不変の真理そのものであるから、そのようにいう。

 三つには、法身蔵である。そのわけは、法身というものがあらゆるすぐれた特性を内包しているから『蔵』と名づける。

 四つには、出世間上上蔵(迷いの世界を離れた最高の蔵)である。

 五つには、自性清浄蔵(それ自体が本来、他のものによごされることのない清らかな蔵)である。


 さて、五つのうち、最初と最後のものは、如来蔵が煩悩の中に隠れたときの呼称であり、中間の三つは、煩悩の中から顕になった時の呼称である。このように、隠と顕の相違はあっても、本来は一体のものなのである。


 第二に、『この自性清浄』より以下は、煩悩に染まるか染まらないか区別し難いむねを説明する。『客塵煩悩』というのは四つの潜在的な煩悩いい、『上煩悩』というのは、ガンジス河の砂の数以上もある無数の煩悩をいう。この項でいわんとすることは、如来蔵がこの二種の煩悩よって染まるか染まらないかを知ることは困難であることを明らかにする。なぜならば、如来蔵自体は本来清浄のものであるから、どうして煩悩のけがれに染まることがあろうか、ということが考えられるし、また迷いの煩悩の中に如来蔵が存在するのであるから、どうして煩悩に染まらないことがあろうか、ということも考えられるからである。それゆえに、この如来蔵を『不思議の如来の境界なり』というのである。


 第三に、『何をもっての故に』より以下は、われわれの身近な事例として、一瞬の心の動きをとり挙げて、それが善心とも不善心(悪心)とも決定し難いことを述べて、如来蔵という深遠な道理に比べる。これを二つに分ける。

 @に、あらゆる事象を実体的にとらえる存在観からすれば、染まらないということがいえる。

 Aに、あらゆる事象に実体を認めず生滅変化するものとみる存在観からすれば、染まるということがいえる。

 まず、『染まるのか染まらないのかを区別するのだが、どうして難しいのか』という疑問が提出される。それに答えて、(@に、あらゆる事象を実体的にとらえる存在観からすれば、染まらないということがいえる、ということを明らかにするなかで)『刹那の善心は煩悩の所染にあらず』というのは、あらゆる事象を実体的にとらえる存在観からすれば、善心が先に滅して、煩悩はその直後に生ずるから、その時点においては煩悩に染まった善心なるものが存在しないがゆえに、どうして、『染まる』ということがありえようか、ということである。『刹那の不善心もまた煩悩の所染にあらず』というのは、不善心の生ずるのは煩悩によるのであり、そのうえに、さらにどんな煩悩がやって来てこれを染めようか、ということである。『煩悩は心に触せず、心は煩悩に触せず』といううち、『触』というのは、煩悩がどんなに多く生じても、その作用がわれわれの心に『及』ぶことがないというのである。煩悩が滅んでも心には及ぶことがないのである。同様に心もまた、煩悩に影響を与えることがない。こうして、両者は互いに影響しあうことがないのであるから、どうして『染まる』といことがありえようかというのである。


 第四に、『云何ぞ触せざる法にして、しかも能く心を染することを得ん』より以下は、あらゆる事象を認めず、生滅変化するものとみる存在観からすれば、仮の呼称として、染まるということがある、ということを明らかにする。『しかも煩悩あり、煩悩の心を染することあり』というのは、この存在観においては、仮に染まるということがいえるということである。すなわち、前の善心が滅びないで、それがそのままのちの悪心に転ずると考えるから、悪が前の善を染めるということになる。

 要するに、われわれの身近な事例としての、心が煩悩に染まるか染まらないかについてすら、このように決定しがたいのであるから、まして深遠な道理である仏性としての如来蔵について、その染・不染を決定することがどうしてできようか。『自性清浄なる心にして』より以下は、煩悩に染まるか染まらないかを明かに知るのは、仏のみであると考えて、説明を仏に乞う。これについては、経文に当たって理解するがよい。





 「勝鬘夫人、この難解の法を説きて仏に問いたてまつる時、仏、すなわち随喜したもう。『是


の如し、是の如し、自性清浄なる心にして、しかも染汚あるは了知すべきこと難し。二法の了


知しべきこと難きものあり。いわく、自性清浄心は了知しべきこと難し。彼の心、煩悩の為に


染せらるることもまた了知し難し。是の如きの二法は、汝とおよび大法を成就せる菩薩・摩訶


薩とのみ、すなわち能く聴受す。諸余の声聞は唯仏語を信ずるのみ。もし我が弟子の随いて


信じ、信増上なる者と、明信に依り已(おわ)って法智に随順する者とは、しかも究竟するを


得たり。法智に随順すとは、根と意解と境界とを施設するを観察すると、業と報とを観察する


と、阿羅漢の眠を観察すると、心自在の楽と禅の楽とを観察すると、阿羅漢と辟支仏と大力


の菩薩との聖自在通とを観察するとなり。この五種の巧便の観成就して、我が滅後の未来


世の中において、我が弟子の随いて信じ、信増上なるものと、明信に依って法智に随順する


ものとは、自性清浄と彼の煩悩の為に染汚せらるるとを、しかも究竟することを得ん。是の究


竟は、大乗の道に入る因なり。如来を信ずる者には、是の大利益あり。深義を謗(そし)らず』


と」(勝鬘経)


 (われわれの心が本来、清らかなものであることと、その心が煩悩に染まるということとの不思議な事実を解明して、それによって如来蔵と煩悩との関係を明らかにした勝鬘夫人の考えは、真理にかなったものとして釈尊によって承認された。釈尊は夫人の説を敷衍して、このように説いている。・・・そもそもこの道理は、仏のみが知るところのものであるから、人びとはただ仏の教えを聞いて信ずるよりほかに、大乗の道に入ることはできない。つまり、信心と五種の真理観察法によって、人びとは誰でもこの自性清浄心の染と不染の問題を理解できるようになるから、現在のみならず未来においても、まず仏を信ずることが大切である、とすすめる。



太子言く


 「勝鬘夫人」より以下は、仏が夫人の説いたことをさらに敷衍(ふえん)する。これをさらに二つに分ける。


 第一に、これまで夫人が如来蔵と煩悩の関係を説いてきた説に対して、仏が『よく語った。だが、それはだれもが納得するのに困難な説である』といわれたことを、まず述べる。

 第二に、『是の如き二法は』より以下は、このような、納得するのに非常に困難な道理を、信ずることのできる人を出す。


 第一に、『自性清浄なる心にして、しかも染汚あるは了知しべきこと難し』というのは、如来蔵が煩悩に染まっていることを認識することが、人びとにとって困難であるということを述べたものである。

 『二法の了知すべきこと難きものあり』といううち、『二法』というのは、道理としての如来蔵と、それを汚す現実の具体的なことがらをいう。

 『いわく、自性清浄なる心は了知すべきこと難し』というのは、道理としての如来蔵が煩悩によって染まるとか染まらないとかいう点については、なかなか理解し難いものであるということをいう。

 『彼の心、煩悩の為に染せられるることもまた了知し難し』というのは、現実の具体的なことがらにおいても、心が煩悩よって染まるとか染まらないとかいう点については、なかなか理解し難いということを説く。

 そこで、このように勝鬘夫人が自分自身で解き明かすことが困難な為に、その説明を仏に乞う。ところが、仏もまた同様に、夫人の説明したことばをそのまま繰り返して述べるだけであった。その理由として、つぎの二つの意味が考えられる。

一つには、個々の具体的な事実の次元で説明しようとすれば、『染まる』という印象が強く出る。

二つには、普遍的な道理の次元で論じようとすると、『染まらない』ということになってしまう。それゆえに、勝鬘夫人の説明した言葉をそのままくり返して述べるより仕方がなかったのである。


 第二に、『是の如きの二法は』より以下は、このような説明するのに非常に困難な道理を信ずる人を出す。さきにはすでに勝鬘夫人が理解し難いといっており、いまここでも仏は同様に理解し難いと告げている。そうなると、この理解し難い説をどのように信じていったらよいか、わからなくなってしまう。そこで、この理解し難い説を信ずることができる人を例示して、疑いのないようにと勧めるわけである。この項を三つに分ける。


 一に、全般的にいって、理解力のすぐれた者は容易に信ずることができるが、凡夫は信ずることが難しいということを明らかにする。

 二に、『もし我が弟子の』より以下は、まさしくそれを信ずることができる人を例示する。すなわち、汚れなき信心の智慧を得た信忍の求道者と、および真理に随順する智慧を得た順忍の求道者とである。

 三に、『この五種の巧便』より以下は、信ずるについても結論である。すなわち、仏の巧みな手立てとして我々に説かれた五種の観察法を修めて、しかも仏への信心を確立し、真理を悟る智慧を身につけていくならば、右の道理を理解する人となることができる。


 (一については、省略して述べていない)

 二の、まさしくそれを信ずることができる人を例示する部分については、また二つがある。

  @に、ただちに信忍とおよび順忍という二種の智慧についての説明を出す。

  Aに、『法智に随順すとは』より以下は、順忍、すなわち、真理に随順する智慧について解釈する。


 『もし我が弟子の随いて信じ、信増上なる者』といううちで、『信ず』というのは、信忍、つまり信心の智慧についての説明である。『信増上』というのは、求道者が五十二位の段階のうちで、最初の十信の位をすぎてつぎの十住の位に入ったところの、登住において得る信心をいう。これは信心の中の最上のものである。

 『明信に依り已って法智に随順する者とは、しかも究竟するを得たり』というのは、順忍、つまり真理に随順する智慧についての説明である。ところで、この項で説くのは信忍と順忍の二つではなくて、順忍についてだけの説明ではないか、という疑いが生ずる。

 それは、『随いて信じ、信増上なる者』と説かれているのも、信心は随順の前提として語られているにすぎず、結局、随忍の根本は真理に随順する智慧である順忍であるということを述べたものと考えられるからである。

 順忍だけについてその内容を具体的に解釈する。すなわち、順忍を得るために五種の観察法が説かれる。

 そのうち、第一の観察として、『根と意解と境界とを施設するを観察する』という句のうち、『根』というのは、眼とか耳という六つの感官のことであるが、それらは仮に設けられたもので、それぞれ感官の対象に依存している。『意解』というのは、六つの感官(眼・耳・鼻・舌・身・意)がそれぞれ対応する対象をとって、見るという識別作用とか、聞くという識別作用などの六つの識別作用を起こすのをいう。『境界』というのは、六つの感官が識別作用を起すところの、六つの対象をいう。以上の三種を合わせると十八の領域となり、これをいちいち観察するから、十八の領域に関する観察という。

 第二の観察に、『業と報とを観察する』というのは、原因としての行為と、その行為によって生じた果報との二つを観察することである。

 第三の観察に、『阿修羅の眠を観察する』というのは、あらゆる煩悩の根元である無知を観察することである。

 第四の観察に、『心自在の楽と禅の楽を観察する』というのは、欲望などの情的煩悩から離れた禅定の楽しみを観察することと、および真理に対する無知という知的煩悩から自由になった楽しみを観察するという、二種の観察をいう。『楽しみ』というのは、智慧が対象を観察するのに、自由自在である状況をいう。

 第五の観察とは、『阿羅漢と辟支仏・・・』とは、すぐれた求道者がその身に具える神通力を観察することである。


 三に、『この五種の』より以下は、信ずる人についての結論である。


 『大乗に道に入るの因なり』というのは、大乗の道が仏となるための原因となることを明らかにしている。また一説によれば、『第八地以上の求道者は、大乗の道を歩む者であり、信忍と順忍の二忍は求道者にとって、大乗の悟りを得る原因である』という。

 『如来を信ずる者には、是の大利益あり。深義を謗らず』というのは、次のような意味である。すなわち、仏のことばをこの人は以前に信じていた。そこで、かれはこのような五つの観察力という利益を得る者となった。それゆえ、この五種の観察力によって、いまここで、かれは理解困難な如来蔵の道理を信ずることができる、というのである。



「勝鬘経義疏」(自性清浄章)より