< 仏陀の意味 >



 仏教は、通常の解釈によれば、仏の教である。梵語で言い表わされた場合には仏に関するもので、形容詞形として、仏の教でも、仏の系統でも、仏の弟子でも、広く指すことになっているが、古くは、訳して仏法といい、現今は一般に、仏教と用いている。この仏は仏陀と音訳せられるのと同じで、決して、仏陀の略称でなく、仏で完全な音訳である。古来、浮屠・浮陀・仏駄・浮図・浮頭・歩他・勃陀などと音訳せられてもいるが、仏、仏陀、浮屠などが比較的によく用いられる。「ほとけ」という訓はこれからの派生に外ならぬものである。ブッドの原意は目覚めたるの意味、同時に覚悟したるの意味であって、而も人を指すから、一般に覚悟と訳される。覚には覚察、覚悟の両義があると解釈せられ、覚察は悪事を察知するを云い、覚悟は真実の理を開悟するを云う。悪事を察知することは悪事を為さないことを指すから、悪事を凡て全く脱する意味になるし、而もこれを仏でいうのであるから、悪事は通常いう悪事ではなく、悪の根本たる所謂煩悩を指すことになる為に、これは一切の煩悩障を離脱するをいう。煩悩は心の汚れであり、心の平静を破る悪徳的の心作用であって、道に進趣する障擬であるから、煩悩という障擬の意味で煩悩障という。また、覚悟は真実の理法に目覚め、理法を悟了するを意味するから、智が明確になって、知らざる所がないことになる。故に、これは所知障を蝉脱するを指す。所知は知らるべきことの意味で、対象の一切を指し、その根源的なものを真実の理法となし、これを真理とも呼ぶ。真理という語は決して現今一般に用いるような唯単にまことなどの意味でない。この一切に知達するでなくば、完全性に於いて缺ける所があるから、所知が障擬となる点で、所知の障擬を所知障と名づけるのである。従って、覚察、覚悟は煩悩障、所知障を完全に脱して、全智全能となった所を指すに外ならぬ。これを他の語で、一切の勝者、一切の知者という。この如く覚察し覚悟したのが即ち仏である。

 更に、他の解釈によると、覚者の覚には自覚覚他覚行窮満の義があるとなす。自覚は自ら覚悟することで、真理を自ら證知して真理を体現したこと、通常いう自覚、自意識とは必ずしも同意味でなく、仏教術語の一である。この自覚は仏陀の場合には、それは絶対に完全なものであるが、通常いう場合の根本智を得たのに当たる。覚他は他を自と同じに覚らしめることで、自覚の智が化他の方面に向かったのを指し、通常いう後得智となるから、自覚は直後に覚他となる。従って、覚他も絶対に完全なもので、缺けたる所は無いとせられねばならぬ。故に、覚行窮満という。覚行は自覚と覚他に関する意味で、自覚に絶大の行が先行するから窮満、即ち窮極円満、であり、覚他に絶大の行が随伴するからまた窮満である。かかる三義を具した覚を有するのが仏陀であるとせられるのである。一般に智は自ら磨くべきもので、他から聞いた結果のものとしても自ら得るものであるから、自ら知ることになる点で自覚であり、自覚は自らそれを得て用いるから自受用であるが、吾々としても、自ら知るのみで終ることは、吾々の日常生活上、あり得ないことで、何等かの形で他人に伝えることになるし、また、他人に教え他人を導くことになる。この場合には、その智を他人が享け用いるのであるから、他受用智であるが、他受用智は自受用智と異なる別の智ではなくして、同一の智が方面を異にしたものに過ぎない。自受用智は必ずしも他受用智となるを予想するを要しないが、実際上、必ず他受用智となるべきことは吾々の日常生活上、孤立的生存をなすを得ないことで明かである。他受用智は必ず自受用智を予想し、自受用智に基づくものである。故に、この予想、基礎がなくば、他受用智、覚他は考えられないし、また存在し得ない。而も知ることの窮極は所知の対象と一つになることで、能所未分の状態に入るのであるから、根本智は根本無分別智と呼ばれる程であるが、その内容もしくは当体は他人の窺知を許さない。殊に仏陀の自覚などは吾々の到底知悉するを得るものでないから、仏陀を考えるとしてはその覚他の方面に於いてなすべきで、而も覚他の現われた所によって見る外には見ようはない。従って、覚他の方面を主となす方が仏陀の特色を明らかにするを得るであろう。覚他の働きがあるのが仏陀で、これなくば真の仏陀ではない。仏陀の自覚を等正覚者また正等覚あるいは正偏知すなわち何れも三藐三菩提と呼ぶから、この真の仏陀を等正覚者とも正覚者とも正覚仏ともいい、覚他のない仏陀を独覚仏というのと区別する。独覚は独善的覚者であるが、独覚をしばしば縁覚という。





< 法の意味 >


 覚悟にしても、自覚にしても、そこに対象が考えられ、それを真実理法、即ち真理、または理となすが、広く一般的にいえば、法と呼ぶ。法は梵語のダンマで、曇摩、曇の音訳がこれに当たるのである。この語はパーリ仏典の註訳者の解釈によると、一、徳、即ち善行為または善業、二、教説、即ち教、三、聖典、即ち教法を集成した経典、四、物、即ち身体内外の有形無形物、の四種の意味に用いられるとせられ、また、第二を省いて、因、即ち法無擬解の因関する智、を入れることもある。法無擬解というのは即ち教を完全に理解する智をいうに外ならぬが、法無擬解の因は教であり、教の智は、智によって知られる教が主である。故に、これ等の四種は善業と教と物との三義に纏められ得るであろう。然し、更に、ダルマの語源を考えると、これはヅリが語根で、持する、支える、継ぐなどの意味で、ヅリがダラとなり、更にダルマとなったのであるから、語源的の意味によって、此語には維持、定まり、規範などの意味が存し、また、かくも用いられるし、慣例、理法の意味もある。漢字としての法の字にはかかる意味はないかも知れぬが、然し、言語としての梵語にかかる意味があるのであるから、それを含めて訳された此語には、必ず、かかる意味を含ましめて解せばならぬのである。然らざれば、翻訳によって意味を異にして来て、趣意が歪曲せられることになる。仏教語には此の如き実例は多数あって、前にもいうた如く、漢字の意味が豊富ともなり、また、原意が歪曲せられたのもある。翻訳の上のみを扱うにはある程度までは、かかる点に注意すべきで、凡てを訳語の上でのみ解釈して、事足れりとのみはなすを得ないものである。かくして、行為即ち業が法に適うていれば、それは善行為または善業であって、法に行為、業の意味があってこれを徳と称し得るし、仏の説く所は凡て法に合致し、法を現わしているから、法に教の意味が付き、また、物は凡てあるべきようにあって、法に順じているから、法は物を指すことになる。故に、法の根源的の意味を取って、規範、理法とし、凡ての意味がこれから派生し、凡てこれに包括せられると見得るのである。この根源の理法が即ち仏陀の自覚の内容をなすと推定せられるものであって、仏陀がこれを親證体現して覚他の行に出でて、それが教法となり、仏陀観の発達によって、遂に仏陀は理法そのものとせられるに至ったのである。故に、仏陀の教法は最清浄法界等流の教であり、道であって、真に最清浄法界としての理に通じていて、決して一の宗教などと跼蹐せらるべきものでないといえるのである。即ち天地の公道で、何人もこれを信ずるとか信じないとか、尊奉するとかしないとかいうべきものでなく、苟くも人として生活している以上は凡てこの教法に規っているといわねばならぬものである。

 この如き理法は仏の出世不出世に拘わらず厳然として存するのであるから、この点でいえば、法前仏後である。然し、法前仏後では所謂自然的の生活で、人生の意義に対する所謂自覚自意識を伴わない欠点を含んでいる。人生の意義に徹するにおいて、理法に意味の存することが明らかとなるのであるから、そこに仏陀の成道による自覚が存せねばならぬのである。仏陀の自覚は、つまり、理を理智不二となすことであり、根本無分別智の型に移すことである。理としても固より活動性を含んでいるが、その活動性の実際に現われた時には、それが吾々に知られることにならざるを得ぬのであり、そこに意味が明らかとなる方面が示されるのであるから、そこを智の方面となすのである。その根本無分別智は理智の分別区別がない所であるが、智の方面は性質上直に後得智たる差別智となるから、他受用智になるのである。故に、かかる場合でいえば、仏前法後であって、その法が真の教、真の道となり、日常生活の一一にこの教、道を見出し得て、それで有意義となるのである。教法の一般性質は実にこの如きものである。



(宇井伯寿)