< 仏教と富永仲基 >



 僧侶のやることはすべてインドにならったものである。自分の身を修め、また人をも教化するのだが、とくに梵語をつかって説法をするものだから、だれもこれを会得したためしがない。まして調度品から家の造りにいたるまでを、なに一つインドとちがわないようにしようとするが、こんなことは、おもいもよらないことである。インドでは、片はだをぬぎ合掌するのを礼にかなったものとしている。だから経典にも、「踝膝露現陰馬蔵」とも書かれているのである。人の臀部のきたないところまでも、隠さずにあらわしていくのをよいことだとしている。だから僧侶は、もしすべてをインドにならうのなら、このようなことも、他人の思惑を気にしないでやるべきである。


 「是我語と雖も、余方に於いて清浄ならずんば、行なわざれば過ちなし。我語に非ずと雖も、余方に於いて清浄ならば、行なわざるを得ず」と説かれているように、まったくその国の風俗を改めて、インドに学び従えと仏も教えているわけではない。ところが日本の僧侶は、なにごともすべてインドを見習おうとして、この国にふさわしくないことばかりをやっている。これらはみな、その道にはずれるものである。翁はこれをにくんで、嘲弄したものである」





 釈迦が六仏を祖とし、燃燈仏のことを思い出して、「生死を離れよ」と人々に説きすすめられたのは、釈迦よりもさきの、仏教以外の修行者たちが、「天を祖とし、これをたよりにして修行すれば、昇天して天に生れる」と説いた、その上を出たものである。またこの釈迦より上を出ようとしたもので、欝陀羅が「非非想」を説いたのは、阿羅漢のいう、「無所有処」の上を出たものである。この「無所有所」の説は、またそれよりも先の、「識処」の上を出たものである。「識処」の説は、またこれよりも先の、「空処」あるいは「自在天」などと説かれているものの、その上を出たものである。

 このように、だんだんと説きだして、天について三十二もの説があらわれることになった。これらはみな、仏教以外のことであるが、同じ釈迦の仏法の中にも、文殊菩薩を信奉するものたちが、般若部の大乗経典をつくって「空」を説いたのは、摩訶迦葉を中心とするものたちが、阿含部の小乗経典をつくって「有」を説いた、その説の上を出たものである。普賢菩薩を信奉するものたちが、『法華経』『深密解脱経』などを作って、「不空実相」を説いて、それを仏が悟りをひらいてから四十余年後の説法にかこつけたのは、これもまた文殊の説の「空」の上を出たものである。

 その次に、『華厳経』を作ったものが、それを仏が悟りをひらいてから二十七日目に行なった説法に結びつけて、太陽が、まず高い山々を照らすことにたとえたのは、またこれを仏の悟りを開いたはじめにかこつけて、諸法の上に出ようとしたものである。また次いで、『涅槃経』を作ったものたちが、涅槃一昼夜の説法にかこつけて、仏の精髄を牛乳から出る醍醐(濃厚甘味の液)にたとえたのは、これはすべての法のつき合わせ、さらにその上に出たものである。

 また、金剛薩捶の大日如来にかこつけて、法華を第八、華厳を第九として、釈迦の説法をすべて顕教と名づけたのは、これはまた諸法からはなれることによって、その上を出たものである。また頓部の経典に「一切の煩悩、本来自ら離る。一念不生、即ち是れ成仏」などといい、あるいは禅宗で、「四十余年説くところの経巻は、すべて不浄なものを拭う破れ紙である」などといいだしたのは、これはすべての法を破棄して、さらにその上に出たものである。

 このことをよく知らないで、『菩提留支唯摩経』では「釈迦の一音は、さまざまに聞こえるものだ」といったり、また天台では「釈迦の方便(衆生を教え導く手段)といったり、また一代のうちに、説法は五度かわった」といったり、あるいはまた賢首大師のように、「衆生(一切の生物)の根機(教法をうける能力)にしたがって、その伝えるところをそれぞれちがえている」などと理解するのは、すべて大いなる誤解にもとづく偏見である。この点に関して、くわしいことを知りたいと思うならば、『出定後語』という本を見るのがよい。





 仏道の特徴は、幻術である。幻術というのは、今の飯縄(魔術)のことである。インドは幻術の好きな国で、道を説き、人を教えるにも、この幻術を適当にまじえて導かなければ、誰も信じてしたがおうとはしない。だから釈迦は飯縄の上手であった。かれが六年間山にはいって修行したというのも、この飯縄を学ぶためだったといわれている。

 また、諸法に書かれている神変・神通・神力などというものも、すべて飯縄のことであって、白毫光のうちに三千世界を現わし、広張舌を出して、その舌を梵天(仏の住む世界)にまであげられたということや、あついは維摩詰が、八万四千の獅子座を方丈(一丈四方)のなかに設けたり、神女が舎利弗を女にしたということなどは、みなこの飯縄をつかったものである。

 そして、そこでいろいろとあやしげな、「生死流転因果」というものを説き、「本事本生未曾有」を説き、奇妙ないろいろの説をたてられたのも、すべて人に信じられようとする方便だったのである。これは、インドの人を導く仕方であって、日本ではそれほど必要なことではない。


 「翁は上のように説いているが、神通と飯縄とは同じものではない。飯縄は技術的な学びの技から生まれ、神通は修行の結果生まれ出るものである。しかしながら、翁のいっていることはもっともなことである」



(翁の文)





< 出定後語 序 >


 わたし(仲基)は幼いころ、ひまであったから、儒教の典籍を読むことができた。そして少しく長ずるにおよんで、またひまがあったから、仏教の典籍を読むことができたが、これによって、「儒教・仏の道もまたやはり同じようなものだなあ、みな善を樹立することを目的としているだけだ」と思った。しかしそれにもかかわらず、この考えについて、道の心(義)を詳細な例証に求めるという段になると、そのときはなにも説明を要しないとは限らない。そのときは関係の出典を示さないわけにはいかない。こうして、『出定後語』が出来あがったのである。

 このわたしがこの説を抱くようになって、そのうえ、十年ばかりになるが、これを人に話しても、だれもよくのみこんでくれない。たとい、この後数年、わたしが齢を重ねて、髪になかば霜をいただく年になっても、全世界の儒・仏の道がそれでも依然としてもとの儒・仏の道のようであれば、何の益があろう。

 ああ、この身は身分も賤しく病にかかっているから、これを人に及ぼして恩恵を与えることはすでに不可能なのだ。また死(大故)によってまったくこれが断ち切られ、伝えないで終るかもしれない。わたしはいますでに三十歳、すっかり年をとったから、それを考えただけでも、これを伝えないわけにはいかない。願いとするところは、わたしが伝えるときには、さらにその人がこれを広く都の人たちに伝え、それからさらに韓国あるいは中国に伝え、それからさらにこれを西域の国々に伝え、それによってこれを釈迦牟尼誕生の地に伝えて、世の人をしてみな道において光明を見いだせることができれば、それで死んでも、朽ち果てることはない。

 しかしそうではあるが、はたして何をもとに、いわゆる悪知恵でないことを理解するだろうか。そうなると、これはむずかしい。そのときは、達識の人が手分けして探し求めて、その欠点を塞ぐことに期待するほかない。(延享元年秋八月)




第二十章 禅宗の師資相承


 唐の僧、智炬は『宝林伝』を作って、いわゆる「二十八祖」を記載した。迦葉<一>〜菩提達磨<二十八>で、これがその順序次第である。

 ところがこれは経典のどこにも見ることができないものである。むかしのひとには、これを智炬の偽作だとし、婆舎斯多・不如密多はいずれも他に出ていて、いわゆる、帽子を買ってから頭の形をよく見る手合いに似ているし、達摩多羅・般若密多の名は、事情のよくわからないものに、ただ知らせるだけ知らせて、よくてらしあわせることを許さないものであって、またずいぶん大きな面をしたものだ、というものもある。要するにこれもまた異なった学派が伝えた説であって、信とするにたらないものである。

 ところが、これを真実(法)のうえでいうと、心は”わたしの心”であり、真理は”わたしの真理”である。わたしはわたしの真理をさとるのである。どうしてこのような師資の相承を用いることがあろう。自分で自分を七仏だとしても、誰かかさねてこれを咎めるものがあろうか。ところが、世間にはみな一様にその師資相承を誇るものばかりが満ちあふれている。わたしの眼から見たところでは、菩提達磨はけっして師資相承をもって他人に衒うようなものの徒ではない。菩提達摩以後にしてもまた、「わたしは真理(法)のために来た。衣のために来たのではない」といっている。この徒にしても、またけっして相承を衒う徒ではない。禅宗で師資相承を定める風が、かならずしも後世に至って、智炬によって始まったとは限らない。後世、儒教を奉ずるものもこのことを知らないで、自分たちだけにこうした系譜がないことを恥ずかしく思って、そこで、「堯はこれをもってこれを舜に伝え、舜はこれをもってこれを禹に伝え、こうして孔子・孟子に至った」という。これが儒教における道の伝統を伝えるはじまりであって、おかしなことである。ほかのことはともかく、菅原為長がその系譜について円爾の言に答えなかったことだけは、沈黙のなかに万雷を轟かせたものということができる。ほんとうに珍しいことではないか。

 わたしはこのことについて林中甫に聞いた。かれは「達摩が中国に来たその意図は、おそらく、インドの仏教がすでに像法の末に属していて、すべてが萎靡衰頽し、またともに語りあえるようなひとがいなかったことにあった、とおもわれる。ちょうど、中国は僻遠の地であって、教えはまだ普及してはいないし、すべてがまだ未開に属している。まさにいまこそ、わたしの奉ずる道をもって導かなくてはならない。心から心へと伝える直示の主旨も、また理解するものがあるだろう。そこで意を決してやって来たのである。ところが、かれが初めて梁の武帝に遇ったとき、武帝はまず真の功徳とはなにか、またわたしと向かい合っているのはだれか、とたずねた。これをきいて達摩ははじめて、ここもまたわがインドの仏教と同じだ、と思ったのである。これは、武帝の素質がそぐわなかったのではなく、ほかでもない、達摩がそぐわなかったのである。かれはただちに衣を払って立ち去り、少林寺で九年の間、壁に向かって三昧にはいり、そのまま世を去った。ところで、こうして禅がおこり、その上また機縁も熟したというひともいるが、これはまったくそうでない」といった。

 わたしの見るところでは、この考えはひょっとすると、そのとおりなのかもしれない。ただ達摩が武帝に言った言葉は武帝の素質にそぐわなかったから、ついに達摩は毒殺されて死んだのである。これがどうして、機縁が熟したということになるのだろうか。明らかに、これは後世の徒の修飾の言葉である。

 ああ、達摩は道を伝えるために遥か遼遠の地に来て、そうして道を弘めようとしたが、その言葉は極めて高慢であって、二度とふたたび信じ受けいれるひともなく、ついに極悪な、仏を信じる心の欠けた小人の手にかかって死んだ。わたしは、達摩をもって、古今を通じてこの世にただ一人の気の毒なひとであった、と思う。

 しかし、後になってその道はおおいにさかんとなり、ついには世の禅僧たちは、俗塵を一歩も跳び出ることなく、泥のなかで土くれを洗うように世俗に染まりながら、ただちに釈迦仏に対して対等に立ち向かうようななった。これまたもとより当然なことである。この徒がいう、いわゆる”機縁が熟した”というのは、このことをさして、こういったのであるが、しかしこのことを達摩がやって来たその当初に名づけるのは間違いである。わたしは、達摩を、古今を通じてこの世界でただ一人の気の毒な人であった、とする。(林中甫は、名は師良といい、亡父の友人である。いまも存命である)



(富永仲基)