< 福沢諭吉と仏教 >




 宗教は人の心の内部に働くものにて、最も自由、最も独立して、毫も他の制御を受けず、毫も他の力に依頼せずして、世に存すべきはずなるに、我日本に於いては即ち然らず。元来我国の宗旨は、神仏両道なりという者あれども、神道は未だ宗旨の体を成さず。たとい住古にその説あるも、既に仏法に中に籠絡せられて、数百年の間、本色を顕わすを得ず。あるいは近日に至りて少しく神道の名を聞くが如くなれども、政府の変革に際し、僅かに王室の余光に藉(より)て微々たる運動を為さんとするのみにて、ただ一時偶然の事なれば、余輩の所見にては、これを定まりたる宗旨と認むべからず。とにかくに古来日本に行われて文明の一局を働きたる宗旨は、ただ一の仏法あるのみ。然るに、この仏法も初生の時より治者の党に入りて、その力に依頼せざる者なし。古来、名僧智識と称する者、あるいは入唐して法を求め、あるいは自国にありて新教を開き、人を教化し寺を建てるもの多しといえども、大概皆天子将軍等の眷顧(けんこ)を僥倖(ぎょうこう)し、その余光を仮りて法を弘めんとするのみ。甚だしきは政府より爵位受けて栄とするに至れり。


 僧侶が僧正僧都等の位に補せらるるの例は最も古く、延喜式に僧都以上は三位に准ずといい、後醍醐天皇建武二年の宣旨には、大僧正を以て二位大納言、僧正を以て二位中納言、権僧正を以て三位参議に准ずとあり。この趣を見れば、当時の名僧智識も、天朝の官位の官位を身に付け、その位を以て朝廷の群臣と上下の班を争い、一席の内外を以て栄辱と為したることならん。


 これがため日本の宗旨には、古今、その宗教はあれども自立の宗政なるものあるを聞かず。なお、その実証を得んと欲せば、今日にても国中有名の寺院に行て、その由来記を見るべし。聖武天皇の天平年中、日本の毎国に国分寺を建て、桓武天皇延暦七年には、伝教大師比叡山を開き、根本中堂を建てて王城の鬼門を鎮し、嵯峨天皇弘仁七年には、弘法大師高野山を開き、帝より印符を賜わりてその大伽藍を建立したり。その他、南都の諸山、京都の諸寺、中古には鎌倉の五山、近世には上野の東叡山、芝の増上寺等、何れも皆政府の力に依らざるものなし。その他歴代の天子、自から仏に帰し、あるいは親王の僧たる者も甚だ多し。白河天皇に八男ありて、六人は僧たりしという。これまた宗教に権を得たる一の原因なり。


 独り一向宗は自立に近きものなれども、なおこの弊を免れず。足利の末、大永元年、実如上人の時に、天子即位の資を献じ、その賞として、永世准門跡とて法親王に准ずるの位を賜わりたることあり。王室の衰微貧困を気の毒に思うて、有余の金を給するは、僧侶の身分として尤ものことなれど、その実は然らず、西三條入道の媒酌に由り、銭を以て官位を買たるものなり。これを鄙劣というべし。


 故に古来日本国中の大寺院と称するものは、天子皇后の勅願所にあらざれば将軍執権の建立なり。概してこれを御用の寺といわざるを得ず。その寺の由来を聞けば、御朱印は何百石、住職の格式は何々とて、その状あたかも歴々の士族が自分の家柄を語るに異ならず。一聞以て厭悪の心を生ずべし。寺の門前には下馬札を建て、門を出れば党勢を召連れ、人を払い、道を避けしめ、その威力は封建の大名よりも盛なるものあり。然り而してその威力の源を尋れば、宗教の威力にあらず、ただ政府の威力を借用したるものにして、結局俗権中の一部分たるに過ぎず。仏教盛なりといえども、その教は悉皆政権の中に摂取せられて、十方世界に遍く照らすものは、仏教の光明にあらずして、政権の威光なるが如し。寺院に自立の宗政なきもまた怪むに足らず、その教に帰依する輩に信教の本心なきもまた驚くに足らず。


 その一証を挙れば、古来日本にて、宗旨のみのために戦争に及びしことの極て稀なるを見ても、また以て信教者の惰弱を窺い知るべし。その教に於いて信心帰依の表に現われたる所は、無智無学の田夫野嫗が涙を垂れて泣くもあるに過ぎず。この有様を見れば、仏法はただこれ文盲世界の一器械にして、最愚最陋の人心を緩和するの方便たるのみ。その他には何らの功用もなく、また何らの勢力もあることなし。


 その勢力なきの甚だしきは、徳川の時代に、破壊の僧とて、世俗の罪を犯すにあらず、ただ宗門上の戒を破る者あれば、政府より直ちにこれを捕え、市中に晒して流刑に処するの例あり。かくの如きは即ち僧侶は政府の奴隷というも可なり。近日に至りては政府より全国の僧侶に肉食妻帯を許すの令あり。この令に拠れば、従来僧侶が肉を食わず婦人を近づけざりしは、その宗教の旨を守るがためにはあらずして、政府の免許なきがために勉めて自から禁じたることならん。これらの趣を見れば、僧侶はただ政府の奴隷のみならず、日本国中既に宗教なしというも可なり。(宗教権なし)




(「文明論之概略」より)







 もちろん、福沢の日本仏教批判は、彼の伝統社会および文化に対する啓蒙思想家としてのラヂカルな批判の一環をなすものであって、ときに日本仏教を正面からそれだけ取り上げたものではない。また日本仏教が幕藩体制のなかにほとんど完全に編み込まれた段階以後の仏教と信仰形態が、主として彼の眼中にあったことも明らかである。狭義の仏教批判をめざしたというより、伝統社会に対する啓蒙思想家としてのラヂカルな対決に発している。のみならず、彼の頭に直接描かれていたのは、幕藩体制にはめこまれていた仏教の現実の姿であった。けれども、巨視的に見て彼の峻烈な日本仏教の総括的批判(教団にせよ平信徒にせよ、俗権からの自立性の弱さ)はまさに的を射ていた。もし「伝統」を歴史を通じて支配的な傾向と定義するならば、これが日本仏教の伝統であったことは争えない。ただこうした伝統の流れのなかに、時あって、少数ではあったがこれを突き破って烈々とした光を放った思想と運動がなかったとはいえない。いわゆる鎌倉仏教の初期はそうしたもっとも顕著な例外現象であり、そこからして、日本思想史のなかから日本思想史を通じてもっとも傑出し、世界的に見てもオリジナルな性格をもつ思想家が出てきた。


 親鸞道元日蓮などに代表される鎌倉仏教の思想的著作は、いずれも単なる経論のスコラ的註釈ではなく、時代の深刻な苦悩を直視する認識を、さらに自己の内面の奥底からの体験によって深化させたところに生まれた魂の叫びであった。そこに提示された人間存在の本質についての思想は、日本思想史の上で他に類比を見ないほど独創的なものであっただけでなく、そこに流れる体験の深さ、情操の豊かさ、論理の透徹さは彼らをして優に世界の第一級の思想家に伍せしめるに足りる。むしろそれがいずれも十三世紀初頭の産物であったことは驚異というに近い。


 お互いに教義内容は対立しているが、伝統に対する根本的精神態度において共通している。日蓮は伝統と比較的つながっているが、親鸞と道元は伝統と切れている。宗教意識の型からいうと、宗教的(情操)の豊かさにおいては親鸞に及ぶものはなく、内面性を純粋化し、人格信仰といえる。哲学的論理の透徹さでは道元がもっともすぐれ、修行を純粋化し、実践信仰といえる。予言者的実践の強烈さは日蓮のものであり、経典を純粋化し、経典信仰となる。宗教意識の型が政治意識に翻訳されると、どうなるか。政治思想史としては、こういう思想家が直接、政治に対してどう言っているかではなく、こうした態度が政治に in-put されるとどうなるかを考える)




(丸山眞男)