< 祈 り >








「人間というものは、必要に迫られなければ善を行なわないようにできている」


byマキアヴェルリ





原発54基





原子力は人を幸福にするか






原発攻撃







< 人間の技術 >



 人間の技術というのは、多かれ少なかれ自然界の模倣です。はっきり言って、自然にあるものの模倣でないものは一つもないと言っていい。科学技術というのは自然にある現象から法則性を導き出して、これを技術に適応するということで成り立っているわけですから、どんな超越的な技術が生まれても、たいていは自然界にある。最近は、ちょっとそのへんのところが怪しくなってきましたが、電気にしたところで、雷から原理を得たわけですし、もちろん石油というものも自然界にあったものですし、蒸気機関にしたところでそうです。飛行機にしても、もともとは鳥が飛ぶというところからきています。原子核、核反応ということだって結局、自然界というものを探れば、星が光っている原理が核反応そのものですから、そこから人間は技術を盗んでいる。そういう意味では自然界の模倣なのです。

 しかし、ここで今までの技術と決定的に違ったのは、地上の現象ではなく、自然界といっても天界の現象であったということです。だから地上で人間が生きたり、生物が生きたり、地上のものが動くという原理とはまったく違った原理が、ここで一つ導入された。それが、文字どおり天文学的な超越的破壊力をもつ原爆というかたちに結集した。地上に非地上的なものが持ち込まれたという意味で、核開発というのは技術の歴史の中で非常に特異なものであるということを、事実として押さえておく必要があると思います。もっとも、念のために断っておくと、核の技術は人間が頭脳の中から導き出したわけで、星の光る原理をまねしたわけではない。星が核反応で光るというのは、むしろ後からわかったことです。その意味でも、核の導入というのは、従来の自然界の模倣とは決定的に違っていたのです。


 核だけではなく、その後に続く技術は、かなりそういう面をもってきているのです。たとえば、遺伝子を組み換えるというのも、本来的に自然になかったことを、人間の手がやるようになってという意味がある。そういう現代技術全体の象徴的なものとして、核がある。その延長線上に広島・長崎の地獄、悲惨があったというふうにとらえられるのです。これは人間というものに対する洞察をする場合に、非常に重要なポイントになってきます。人間が生きたり、生活したりする原理を超えたものをつくり出すことができ、地上にないものですらつくり出すことができる。そういう意味では、人間は優れた頭脳をもった素晴らしい生物とみることができるのです。

 しかし、その人間のつくり出したものが、人間の生活や、人間だけではない、地上のすべての生命、あるいは地球そのものが成り立っている原理と調和するかどうか(予定調和と言いますが)ということについての保証は何もない。むしろ、そこに非常にいびつなものができてしまっているのは、今、現代社会が科学技術の間に抱える大きな問題です。本来的に地上的でないものが、人間の頭によって地上にもたらされた。


 核の問題で言いますと、地上の生命というのは、人間に限らず、核の安定ということの上に基本的に成り立っています。原子核の安定・・・原理的に言えば、原子核の原子というのは違いますけれども・・・少し大ざっぱに言えば、原子というものの安定の上に成り立っている。しかし、原子力(核エネルギー)というのは、この原子そのものの安定を壊すことによって、エネルギーを得ることです。そこに根本的な難しさがある。核の原理と、人間が生き、生活する原理との間に横たわる難しさを、我々は自然科学者として、どれだけ認識しているかとなると、はなはだおぼつかない。


 私は原子核というものを研究し始めてから30年ぐらいになりますけれども、どこまでそんな問題意識があったか。我々の内側にあった問題意識としては、やはり100年前にヴュルツブルグでレントゲンがもっていたと同じように、自然の神秘なるものに対する好奇心であり、探究心であったというふうに思います(それによって立身出世するとか、いろいろな要素も働くのですが、それは一応おくとして)。ほとんど誰もがそうだったと言えるでしょう。しかし、個人の側がそういうような好奇心でやっていることが、地球上の人間の生き方の原理と対立してくるなどということについての問題意識は、ずっとなかった。そのことが、じつは、その後に続く核の被害というたいへんなかたちをとって現われた。




(高木仁三郎)