< 清 浄 >




【清浄】


@ 清らかでけがれのないこと。また、そのさま。

A 煩悩や悪行がなく、心身の清らかなこと。

B 清浄(しょうじょう)は、10−21(10垓分の1)であることを示す漢字文化圏における数の単位である。虚空の1/10、阿頼耶の10倍に当たる。




【清浄覚】


@ 仏の悟り。




【清浄楽】


@ 阿弥陀仏の別名、浄土の木々が奏でる音楽の美しさから、この名がある。




【清浄願往生】


@ 阿弥陀仏の、生あるものすべてを救おうと誓った、その願いによって、人々の心に与えられ、芽生えた、浄土に生まれたいという信心のこと。それは仏から恵みとして与えられた真実の信心だから、清浄という。




【清浄願心】


@ すべての人々を救おうと誓った阿弥陀仏の願いの心。阿弥陀仏の慈悲心。

A 真心から阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願う念仏者の心。




【清浄勲】


@ 阿弥陀仏の別号の一つ。仏の声の、香りがにおうように心よく響くことから、こういわれる。「勲」は薫の意。




【清浄光】


@ 阿弥陀仏の身から放たれる十二光の一つ。また、清浄光仏のこと。また、その光。「清浄光明」。



【清浄光仏】


@ 阿弥陀仏の異称。十二光仏の一つ。清浄な光を放って衆生の罪を除くことをいう。




【清浄光明身】


@ 清らかな光かがやくからだ。 ”空すみて心のどけき小夜中に有明の月の光をぞまつ”




【清浄業処】


@ 誓いをたて、修行を積んだ結果、完成した清らかな国土のこと。清らかな行いによって仏の悟りをえて成就した浄土。




【清浄金剛】


@ 密教で阿弥陀仏の別称。観世音菩薩にも用いる。




【清浄食】


@ 執着の対象とならない食物。木の実、草の実などや托鉢による食物。




【清浄衆】


@ 戒律をまもって修行に励む僧尼たちのこと。




【清浄処】


@ 心安らぐ清らかな環境。悟りの境界をいう。




【清浄心】


@ 悪心を捨てさった清らかな心。また執着を払い捨てた心。




【清浄水】


@ 作法にかなった(如法)写経のための水。この水を汲む儀式を水迎の儀という。




【清浄相】


@ 具体的なあらわれたすがたが清らかである、そのすがた。清浄なすがた。




【清浄僧】


@ 戒律を守って修行に励む僧。




【清浄智】


@ 汚れない智慧。




【清浄土】


@ 仏の悟りの智慧によってつくられた、汚れのない、清浄な国土。仏が誓いを実現した清浄な国。清浄仏土・清浄国土・清浄仏国土などとも。

A とくに、阿弥陀仏の浄土。




【清浄人】


@ 行ないの正しい人。

A とくに、阿弥陀仏の尊称の一つ。




【清浄法界】


@ 仏の悟った智慧の対象。理法の世界。仏が悟った四種の涅槃(四涅槃。本来自性清浄涅槃・有余涅槃・無余涅槃・無住処涅槃の四つ)の総括。また、一説に、五智の上では仏智とし、三身の上では法身という。




【清浄本願】


@ 一切のものを救おうという、その思いに一点のまじりけもない、仏の純粋無垢な願い。




【清浄本然忌】


@ 死者の三十三回忌をいう。




【浄】


@ にごりがなく清らかなこと。

A 煩悩のないこと。

B 浄土のこと。穢土に対する。




【浄域】


@ 阿弥陀仏の住する世界。浄土。

A 寺の境内。または、霊地。




【浄因】


@ 清浄な因。悟りのための因となる正しい行い。

A 浄土に生まれるための因。念仏をさす。




【浄院】


@ 寺。寺院。または、浄土宗の寺。




【浄慧】


@ 清浄な智慧。煩悩にくもらされない智慧。




【浄穢】


@ 浄土と穢土。

A 悟りと迷い。善と悪。




【浄莚】


@ 静かな寺の坐禅の席。または、説法を聞く法席。




【浄円明の三点】


@ 涅槃の三徳である法身・般若・解脱の本性。法身の本性は清浄、般若の本性は完全円満、解脱の本性は明暁と解し、これを伊字の三点になぞらえて、三つであって実は一つのものと説いたもの。




【浄戒】


@ 仏の定められた戒。悪を制する五戒・十善などの戒。

A 戒律を正しく守ること。

B 「さんじゅじょうかい(三聚浄戒)」の略。




【浄界】


@ 清浄な地域。寺院・霊地などをいう。




【浄戒波羅密多】


@ 真実の正しい智慧に裏づけられた戒律の実践。きめられた戒律を正しく守って、悟りを目ざす菩薩の修行。




【浄竿】


@ 禅寺で、入浴または厠に入るとき、衣を脱いでかける竿。または、袈裟を洗ったときにかける竿。




【浄教】


@ 浄土の教え。浄土門の教え。浄土教。




【浄行】


@ 清浄な行い。広くは淫欲を離れて、戒を守ること。




【浄行者】


@ 淫欲を離れた、行ないの清浄な人。古くは、「おこないひと」と読んだ。




【浄行衆】


@ 持戒清浄な僧たち。僧の中でもとくに戒律をよく守っている僧衆。




【清行禅師】


@ 行ないが清浄で、坐禅修行に努める僧をいう。




【清行僧】


@ 戒律を守る行いの清浄な僧。




【浄華】


@ 阿弥陀仏が仏になったときに坐した蓮華の座をいう。




【浄潔】


@ 清浄なこと。または、きよめること。清浄にすること。




【浄業】


@ 清浄な行為。

A 仏の悟りを開くことを可能にする行為。

B 極楽浄土に往生する行為である念仏をいう。




【浄業安心】


@ 清浄な行為としての念仏の安心。阿弥陀仏の本願の救いを信じて称える念仏の、疑いのない信心。




【浄業正因】


@ 清浄な行いである仏となる直接の原因。




【浄国】


@ 仏の国。浄土。

A とくに極楽浄土のこと。




【浄乞食】


@ 比丘の異称。




【浄財】


@ 貪りの心を捨て、世のため人のためになる事業に寄付された財貨。清浄な信仰心から布施・寄捨された金品。




【浄三業】


@ 身・口・意の三業を清めること。密教で、すべてのものは本性清浄であると観じて、行者の三業を清めること。また、その清浄な三業。護身法の一つ。




【性浄】


@ 煩悩にけがされていても、本来のすがたにおいては清浄であるということ。




【浄性】


@ 煩悩のけがれのない、清浄な本性。




【浄定】


@ 色界・無色界の禅定を定の性質によって三つに分けた三定(味定・浄定・無漏定)の一つ。有漏の善心と相応して起こる定で、順退分定・順住分定・順勝進分定・順決択分定の四種を分ける。




【浄場】


@ 清浄な所。霊地。山など、霊邃な場所。




【性浄円明】


@ 本性が清浄で、欠けることなくまどかに、また明かなこと。迷いを離れたさま。







< 四 禅 >



「初禅は、欲情と罪悪とを遠離して、寂黙の裡に内観省察をして、生じたる歓喜の状態である。二禅は、内観も反省もすべてこれを鎮座し、ただ深き安静の状態より、生じたる歓喜の状態をいうのである。即ちすべての思想が極めて安静に帰して、そこに卓絶せる直観の生ずる状態をいうのである。三禅は、阿羅漢の歓喜愉悦の情が、やがて我が身に来ることを推知して、欲情の破壊と歓喜を待ち設ける状態である。四禅は、前の歓喜も悲哀も消え失せて、ただ安舒たる心意と回想のみの存する清浄微妙の状態である。


第一禅に於いて、神聖清浄にして孤独を守る比丘は宗教上の深き思想問題に心を傾け、推理考察するのである。かくすると漸次心が清浄になって、推理心が消え失せ、鋭い直感の力が生じて来る。これが第二禅である。その次に主観の意識も消え失せて、永続的なる歓喜の状態が来たって全身恍惚として浮き上がる様に感ずる。これが第三禅である。次にこの恍惚の念もなくなり、歓喜悲哀のないただ安舒たる心意と回想の念のみ残る様になる。これが第四禅である。


私はこれに依って、四禅とは仏教徒以外のものでも宗教に深き経験のあるものの観ずる状態、即ち一時に激変して宗教的の恍惚の境地に入る彼の異常の自信と内観の生ずる瞬間とそれから平安の状態に帰る有様を写したものと解するのである」



(『釈尊之生涯及其教理』 リス・デイビス著 1893年6月)

「日々、欲念に敗られて行く生活、何という醜い惨憺たる光景であろうか。覚めたる眼の殆んど当て所もない有様ではないか。十億の人類、その幾人が、この欲念の生活から、真に解脱しうるであろうか。殆んど、すべては、欲念ー苦痛ー悲哀ー寂莫ー懊悩の世界へずるずる引きずられて行く。

六道輪廻、十二因縁というは、我等当面の生活の真実相ではあるまいか。

この人類の中にあって、同じい悲痛、懊悩の世界から、真に超脱し給える大聖釈尊の人格、ひとたびでもその人格を想起するものの胸に何という偉大深遠の響きを伝え来るのであろうか。この響き、これを静かに、我が胸の中に味ふて、驚嘆となり、讃仰となり、語に顕わし、筆に記したものが、古来幾多の釈尊の伝記である。

されば、この釈尊の伝記は、かの天人の歌った様に、『世界を食らう罪の火の中に顕わるる水である。世界の迷の闇の中に顕わるる光である。人類の禍の危うき太洋の中に顕わるる舟である』。

古来、幾憶の人が、この伝記とその教とに依って、欲の鎖から、幾分なりとも離れ得たのであろうか。苦痛と悲哀の盃を手より離したのであろうか。

私もまた欲念の奴である。この故に猶更、大聖釈尊を欽仰し奉る。少しづつなりとも、その真実の相(すがた)に新参したいという望に堪えぬ。

釈尊の時代の背景、その背景の中に、静かに、しかも大に、活躍し給う大聖釈尊の面影、私の胸を躍らさずには置かないのである。科学的に、組織的に、最古の典籍を唯一の證權として、その研究を進めた欧州人の結論は、略々同形である。我々は全部その活論を肯定するのではない。けれども、大体に於いて肯かはざるを得ない或るものが多いのである。且つ、今の日本の学界にあって、釈尊を研究し奉らんとするものは、欧州人の御蔭を蒙むらない訳には行かないのである。それ故、此処に、リス・デイビス教授の仏伝を訳出するも、敢て不用のことではあるまいと思う。

私はこの仏伝に止まらず、余暇のある毎に、他の重要な仏伝を巻を逐て訳出したいと思っている。日本の学野に多少の貢献はあることと信ずる」



(赤沼智善)