< 仏教と太陽神話 >



 釈尊に関する物語は、主に転輪聖王に関するもので、これを精神化して用いたり、またはそのまま依用したりしたものである。またこれらの信仰は多く古代より伝わる太陽神話から借り来ったものに相違ない。例えば白象というは、白馬と同じく大空の王たる太陽の象徴である。セナール(M.Senart)は、その著『仏陀物語』に於いて、釈尊物語と、太陽神話との類似を巡り、釈尊伝の中の、一見奇怪至極にして、全く必要のない様に思われる点を、充分説明がつく様にせられて居る。かくの如き、詩的に象徴せられたものは、その源が解らなければ了解せられるものではない。白象の形で、母后の腹中に入るという様なことは、誠に馬鹿気に見ゆるのである。


 セナール氏が、釈尊伝全部を太陽神話に依った物語であるとする説は、非常に興味もあり、また発明する所に富んだ説である、この説の如何なるものかは、私がある限定したる意味に於いて採用せんために、前に引いた諸点でも、略々察せられるであろうが、更にその梗概を上げて見ようと思う。セナール氏は古伝に従って、物語を十二段に分ちて、太陽仏伝をとり扱って居る。



一、天を捨てる決心


 誕生以前に於いては、仏陀は神であった。神々の主であった。正しくいえば、仏陀は生まれるのではない。人民の幸福と、救済のために、人民の間に化現するのである。



二、托胎


 仏陀の托胎は、全く神秘的である。彼には人間の父はない。天より下る時に、仏陀は、自分の母なる雲(摩耶とは水蒸気の雲なり)の胎内に覆われたる光の神の象徴を取って居る。雲の中より、洩るる第一の光箭に於いて、仏陀の存在を証明し、神々はこの第一の光箭に向って祈願し、生命をその中より得来たって居る。



三、誕生


 仏陀はマーヤーの助けに依って、火を生ずる木より、光と火の主として生まれたのである。魔女マーヤーとは崇厳なる生産力の代表者として、且つ半ば朦朧としたる朝霧の女神であるが、その息子が、眩わしい第一の光箭を放つと共に、亡びて仕舞ったのである。彼女は今も、女造物主、または宇宙と神の乳母という名で残って居る。力強くして、ひとたび生るれば、最早誰も抵抗することの出来ない彼の息子は、世界を照らし、その無上権を振へ、神々をして帰敬せしめつつ、益々生長する。



四、競技


 空中の若き娘達(空中の蒸気を指す)の間にその力と光とを包み、偶に光を見せて育った仏陀は遂に自己全体を示す時が来た。仏陀はその陰鬱なる敵(雲)と初合戦を試みてこれを破り、天下に敵なくして独り輝いたのである。



五、結婚と密殿の歓楽


 仏陀は数多きニンフ(山林水澤の少女)と、一緒に育ってきたのであるが、遂にその遊び仲間たりしニンフは仏陀の妻となり、恋人となった。仏陀は雲深き密殿の歓楽に酔って、天宮に自己を忘れて仕舞った。



六、父の家を捨てる


 然しまた仏陀の時は来た。仏陀は断然自己を密殿より引き放ちて、美しき宮殿を、奇蹟に依って捨てた。天馬は、悪魔の賽の垣を越えて、空の河を渡った。



七、苦行


 この時から苦闘が始まる。仏陀は初め空間の森にさまようて、悪魔の雲軍に誘惑せられ、覆われんとし疲労を覚えたが、直に天の牧場に入りて甘露を飲み、不死の水に浴びて力を盛り返した。



八、悪魔の降伏


 仏陀は今や甘露を飲み、その神輪を転じて、雨と光を、豊かにするその天賦の実行に熟れて来た。仏陀は天樹を取った。嵐の魔神はその暴威をたくましくして仏陀とその天樹を争わんとする。この天地暗冥の戦闘に於いて、寛仁なる仏陀は、遂に勝利を占めて、黒き摩軍は、粉砕されて仕舞ったのである。最後に、悪魔の娘、アフサラス、即ち天に舞って居る軽い水蒸気は、その軽い翼を以て仏陀を包まんとしたが、これも無効であった。仏陀はその包囲を脱し、これを破り給いたれば、アフサラスも形を失ってあとかたもなく消え失せて仕舞ったのである。



九、成等覚


 仏陀は今や、すべての光輝と権威とを示して居る。仏陀はその最後の高頂に達して居る。これ実に勝利の瞬間である。



十、転法輪


 すべての障擬を離れ、すべての敵手を離れ、その永久の敵の企図を碎破して、今や仏陀は一千の光明を放つその平円面を以て大空間中に動きつつあるのである。



十一、涅槃


 暫くして、仏陀はその生涯の終りに達した。今や消滅の時である。赤熱の野猪なる悪魔と代わる時である。然しその自らの消滅に先ちて、仏陀は自分の光明の種族および従者が皆、夕暮れの雲の惨憺たる光景の中に亡びて行くのを眺めて居った。



十二、葬の式


 仏陀は大なる柴堆の上に、燃ゆる火の如き最後の光明を放って、西へ消えた。今は只雲の乳が、この天の葬の最後の炎を、地平線上に消すのみである。



 少なくとも、セナール氏の書に於いては、この神話は、非常に優美に歌われてある。然し読者にして、これに依って、セナール氏が、単に釈尊一生の物語を、太陽神話を散文に書直したものと見るもの、即ち仏教全体を太陽崇拝とするものと見れば誤謬である。セナール氏は、決して仏教の興起に付いて説を立てたのではない。古い太陽神話が、仏教の物語中に取り入れられてあることを示さんと勤め、仏伝物語の歴史的根拠を顕わしたのである。氏は仏教の物語は、根基を太陽神話にもって居ると、若しくは確かに、一度は持って居ったことを信じて疑わない。また氏は仏教が、他の各宗教と同じく、人格的創建者と同時に、こういう歴史的の起原を持たねばならぬことを主張するのである。






< 釈尊の日常生活 >



 釈尊の日常生活は、略、次のようなものであった。午前五時には起きられる。もしその土地に滞留するのであったなら、鉢を手にして行乞に出掛ける時の来るまで留まって居られる。また若し他所へ赴くべき時ならば、その間に八里や十里位は歩いて仕舞われる。釈尊は屡々朝の食事(一日中の主要なる食事)に他の家から招待を受けられる。然らざる時は、鉢を手にし、家から家へと行乞しつつ進まるる。この行乞は午前の中に終る。招待の時には、食事終りて後、宗教の根本義を語りて謝意を表せられる。またもしその滞留所に於いて食事をせられる時には、食事終りて後、弟子に対して信仰上の深い問題について訓誨し、問答して、食事の謝礼とせられる。日の盛りには休息をするか、黙想をせられる。午後も時過ぎれば、、遍歴中ならば、その旅をつづけ、滞在の時ならば、樹下にて弟子等を接見せられる。隣村より花を持って来る村人もある。俗人または他の教団の出家者が来て教えを聞き、或は論議をする。余ものは樹下の草の上に坐してこれを聞いて居る。日没に及んで人皆散ずれば、釈尊は、沐浴を取られる。その後、夜更けるまで弟子と談合せられるのである。






(リス・デイヴィス)