< 子 守 唄 >


〜 白隠禅師 〜



 子守唄をうたって聞かせよう。うたって聞かせば聞かす程よい子に育とう。育つその子に此処は何処だと尋ねて見ても、幼な子供には何処にいるやら、わかるまいが、この世に生まれた限りは無限長夜の闇であり、この世を離れて居処とて他にもうない。母の胎内に宿り、それから出生して育つには、ひとえに母の愛情によるしかなく、母は子から離れることがなく自分の身に子を引き添え、夏の暑さにつけ、冬の寒さにつけ、善い時にも、悪い時にも片時も子のことを忘れない。子は有難いことで母任せでおればよい。幼な子は悪いことなど自分から仕出かすことなどあろう筈はなく、全く無心である。神や仏をいうならば、その無心の子こそがそれである。そころがこの無心の子が日々成長するにしたがい、悪い智慧を身につけ、気随気儘な勝手なことをやるようになり、何時の間にか宝のような無心の子が、迷うに迷う人間の頭巾を自分の頭にかぶせて仕舞い、折角にもって生まれた無心の宝を持ちぐされにしている。もったいないことである。そうして成長すれば、酒と女色とにおぼれ、夜は遊びまわって朝寝をし、起きれば不機嫌で小言ばかりいい、慾張りで”ばくち”にふけり、勝てば勝ったでまたやり、負ければ負けたで口惜しくてまたやり、遂に持ち山を借金のかたに取られる始末となる。こう(啌は音「コウ」、いかなる声をいう。白隠はこの字を「ウソ」と読んでいるらしいがここでは「こうして」の「コウ」にかけていよう。)して若し世渡りが楽々と出来るというなら、まことに天下太平であるが、現実はそんなに甘いものではない。

 栄耀栄華をつくしたのも昨日の夢で、今日は乞食となろう。この世を生きていくには、ともあれ正直で、まっすぐの道を歩むことに心がけなくてはならない。天地・国王・主人・親の恩に重いことに気をつけて、着る衣類、食べるものにも無駄な奢りをしてはならない。着るものには寒さをしのぎ、食べるものにはけだるさを満たせばこと足り、家財の諸道具にしても飾りはいらぬことである。家居も雨露さえあたらなかったら充分であり、粗末な家居は住めば結構気持ちがいいものであり、何につけても奢らぬ心が大切である。

 伊勢の大神の三鈷の具は、人間の欲望を破ろうという意味のものであり、その大神宮の屋根は茅葺であって、民の奢りを誡められているのであり、全く大神の恵みの心の有難いことである。思うに貧と福とは天命の然らしむところであろう。天命のものであることを知らないで無理をすると、その身に過ちが生ずる。貧は天命であっても、心は正直であって少欲であれば、貧は貧でも不足はないものであり、却って金持ちはその持ったことによってそれが苦労の種となっている。親譲りの財産を減らすまいと貪欲になれば益々減って、親譲りの財産を盗んだと同じ結果になり、慾張りのために世間からは愛想をつかされ、商家は商売も苦しくなって家の倉庫は”からっぽ”ということになる。

 家の宝もさることながら、心の宝を減らさない工夫はどうしたらいいかというと、わが身を気儘にしないで仁の心を他に対して起し、慈悲と人情で人を助け、家内親類一家ばかりでなく、友達、知り合い、仲間を困っていたならなるだけ救うことである。もっとも金は限りのあるもので無制限に救助のために使うこともなるまいから、使うには入ってくるものを計算して出さなくてはならない。倹約と”けちんぼう”とは同じではなく、その違いをよく弁えることが必要であり、倹約は自分の身に奢るのを反省してしないことであり、”けちんぼう”は家の内、家の外にあって人をひどい目に遇わせ、不仁不義をする行ないであり、欲ばかり起して自分に足ることを知らぬからそうなるのであり、餓鬼道に陥った人間の苦患はここにこそある。

 人間は”まこと”の心さえあったら貧乏人だって仁はなし得るのであり、あえて物的なものによらなくては仁は出来ぬのではなく、食欲・瞋恚・愚痴の心を離れ得たなら皆慈悲心をもってそれがなし得るのである。仁をもってすれば身の振舞い、口にいうこと、意に思っていることも、人を助けたり他世間のいろいろの道にあって、為になるようになすことであるから、その心がそのなすところは神であり、菩薩の行ないである。士・農・工・商みなそれぞれ与えられた職分であり、自分の家職を各々が大事にしたら、我と天地とは相応し、四海はすべて兄弟ということになって、そこには最早他人はないのである。しかも皆が尊い仏の真理の御教えを聞くに至っては、聞いた一切の男子、女子は共にいつの世にあってもわが父母として慕われることになる。しかし、他人に気に入るのが目的ではなく、たとえ気に入ったとしても主や親に背いていたとしたら、もう神や仏の守りを蒙ることはない。主は月日、父母は天地のようなものであり、仕えて主に忠、父母に孝であれば、そうした人には神や仏を祈らなくても、神仏はちゃんとその人の身に添ってお守り下さるのである。


 あの世の極楽ということが説かれるが、その極楽はこの世の外にあるのではなく、それぞれの人のうちにある。子どもを育てるそのなかにあるといってもよく、これくらい大事なことはない。後つぎの子供が良かったら、自分の後を譲って隠居しても心配はなく、そこが安楽世界で、生きながらこの世が安穏で、未来が浄土ということになる。あのように往生して極楽に居たいというても、その願いが願いだけで、することをしないでいては、隠居していていらぬ世話を子にし、怒ってばかりいては鬼のように呵責をし、恐ろしい閻魔のような役目をしていることになり、それでは一家親子もろとも、ついにいざこざが絶えずこの世がさながら地獄ともなる。子供は育てることが大事だといったが、子供の本性は生まれながら善であるといっても、育てるについて愛が過ぎて甘やかすことになっては、子供は気儘になっていけない。幼児教育にあっては友達を選ぶことが先ず第一である。友達が嘘つきであったら嘘つきを習おう。麻のなかに生じた蓬のようなものであり、蓬は麻に習うようなものである。親子関係にしてもそうであり、親のなすことが皆子供にうつるのであり、親のなすことが良かったら子もそれを習ってよくなり、親が欲っぱりだと子もそういうことになる。

 子供が不幸にも片親しかない場合、一層その子供の育て方が大事なことになる。父は働いて一家の生活の安楽を与え、慈悲でいえば慈をもって子供を教育し、母は家庭によって一家が苦難に遇わないようにつとめて、その悲をもって子供に愛と憐れみの情をかけて教育するのであるが、これが若し一方のことしかなされないとすれば、教育は片寄って育てられた子供は片輪と成る。人間は五身(頭・両手・両足)は人並みに具っていても心は片輪である。慈と悲この二つを一人の親が合わせて子供になしたという例もないではないが、なかなかむつかしいことである。昔、孟子が学半ばで故郷に帰って来たとき、母はたまたま、機を織っていたが、その織っていた機を刀をもって断ち、お前が学問を廃するのは自分がこの機を断つようなものだといって、怒って子供を励まし、孟子はこれによっていちずに師について勉学し、今も孟子と呼んで尊ばれるようになったのは、母一人の片親の教育であったが、慈と悲とを合わせてなした教育によった為と聞けば、片親にしても子供をしつけることの大事なことがわかる。

 奉公をさせようとするならば、苦労さすのが大切で人情をかけてはならない。殊に女の子には教育が必要であり、嫉妬深くなると他人の着ている衣類を見てもうらやましく思い、その人に負けまいと着飾ったりすることになる。これも女の愚かさ、わからなさから起こることであるが、こうなるのは母のしていることが皆娘のすることになっているのであり、母が気儘であれば娘もそうなり、母が奢れば娘も奢り、母が癇癪もちなら娘も短気で、すべて娘は母のすることを習うことになる。娘は嫁に出そうが、婿養子を取ろうが結婚した上は妻として夫に随うことをつとめ、家庭内を納めることを役目とするのでなくてはならず、妻が勝手気儘なことをしていたら、一家は乱れてものがじゅうじゅう煮え返るようなことになる。じゅうじゅうといえば、六道の一つである修羅道の修羅を思い起こすが、妬みの心が盛んでいさかいばかりしているような、そんなところにしてはならない。

 たとえ夫は馬鹿ものであっても、神や仏のように主人を信頼し、舅や姑は自分の二人の親だと思って孝養をつくし、目下のものは憐れみ、高慢になってはならない。夫婦は天地のようなものであって和合しなくてはならないのであり、心は正直で、心の内も外も神のようでなくてはならない。慈悲深い仏の説かれた道と儒教の五常(仁・義・礼・智・信)の道とは、人の人であることの道を教えられたものであり、儒教、仏教、神道の皆一つの道である。寝ていても、起きていても、いても立っても、これでもかこれでもかと一心不乱に神仏に対して信仰をすれば、きっと子供はよい子だといわれることになる。幾歳になろうと無量寿仏のように年は無量で、いつまでも可愛らしく、二人とないいい御子さんだといわれることになる。中国やインド、またありとあらゆる国々にあって、何処の国でもこの二人とないいい御子さんがあるというに越したことはない。

 何宗とか角(各)宗とか、宗派を別々に立てているが、教えの心理は一つの月のようなものであり、須磨、明石、姨捨山で見る月も同じであり、吉野、竜田で見る紅葉も同じである。月や紅葉の美しさは実は外に尋ねて見るべきではなく、人の心に見るべきであり、大切なのは人である。寒い寒いといっても寒さを堪えていれば夏が来て暑くなるように、此処は憂い辛い娑婆世界であるといっても、堪忍の為所と此処を忍ぶかの人と人たるところである。したくなくても親孝行を、主人には忠義を、そうして家業に励まなくてはならないのであり、それを堪えてし通したら、遂に忠も孝も礼も議も成し得ることになる。万芸万能、学問にしても励むことなくして初めから上手ということはない。すべて堪忍をすることを重ねて出来るのであり、遂に蘊奥を究めて師と仰がれることにもなる。

 昔、奈良に明詮僧都という人があった。初めは学問など修める気はなかったが、ある夜のこと寺を出たとき、たまたま雨降りとなって大仏殿に雨宿りをして夜明けとなったとき、また雨が強く降り軒の雨だけが石に当たって自然に石に穴をあけているのを見て悟るところがあり、むつかしい文字も繰り返してしばしば見れば、終には了解出来るに違いないとし、倦くことなく堪えて勉学につとめたことから、この人は法相宗の知識と呼ばれ、今日までもその名を芳しく伝えている。

 したいことを気儘に任せてやっていては決していい事にはならない。こんなことをしていては遊び戯れごと、奢りごとでしかなく、女色に迷ったり、”ばくち”をしたり、朝寝朝酒の怠け者になったりして、心は汚れて地獄行きのもとになる。そんなことにならないように、堪えてしたい放題なことをしないようにすることである。この堪えることが出来たら、まず人が人となることが出来よう。”くせ”はすぐに身につくものだが、悪い”くせ”よりよい”くせ”をつけなくてはならない。浄いものと汚いものとは見別けた方がよく、地獄は汚いところ、浄土は浄いところにきまっている。人も浄くあるべきであり、神であり、仏であるというのは、皆この自分がそうでなくてはならない。我の強い人は我意を立てるものであるが、我意を立てたらそれは神でもなく仏でもなく、邪見である。

 家々にはそれぞれ伝えられた宗旨があるが、それを我見でもって替えないことである。国には御法度があり、家には家法がある。守らなくてはならなぬものを堅く守るのは、自分の欲ですることではない。御祈祷の御礼に、自分勝手な欲から自分の都合のいいことばかりを願ったところで、神や仏はそんな身勝手を受けられる筈はない。南無阿弥陀仏の念仏、何妙法蓮華経の題目を唱え、お経を読むにしても悪人と欲心からするときは、どんなにそれがもっともらしくてもその身はそのまま地獄に堕ちよう。今このまま家庭にあって堪えつとめることが出来たらそれで極楽に往生することであり、我意を立てることをしないで神や仏に香を焚き、花を捧げて供養し、僅かに神や仏に一椀の食を供えることが出来たら、それだけでもその受ける功徳は大きく犯した罪”とが”を免れ得ることともなる。

 この場合、果してそうなるかどうかと思案分別するのは、皆そうなることを信じない妄想のためである。我意を離れて心は自ら空寂なものにしなくてはならぬというのは、これ釈尊の御教えである。まことに有難い忝ない教えである。心は清浄であって正しくし、日々に思いを新たにして日々この唄をうたってほしい。念仏、題目もこの唄のなかにすべて含まれている。この幼い子にこの唄を聞かして大事に守り育てれば、生死の迷いを離れて迷いのない浄土に至り、望みのままに十法世界にある浄土、或いは西方極楽浄土の何処へなりとも儒教、仏教、神道の祖師方の手に手を取ってお導きにあずかり、往きて生まれるところ悉く清浄な蓮華台ということになる。この唄をうたう子守もまた仏の位に登り、家内一同揃って安全ということになる。目出度し目出度しである。