< さて人間は如何 >




 今日地球上に全盛を極めている動物種属は言うまでもなく人間である。かつて地質時代に全盛を極めた各種族は何れも一時代限りで絶滅し、次の時代には全く影を隠したが、現今全盛を極めている人間種族は将来如何に成り行くであろうか。著者の見る所によれば、斯様な種族は皆初め他種族に打ち勝つ時に有効であった武器が、その後過度に発達して、そのため終に滅亡したのであるが、人間には決してこれに類することは起こらぬであろうか。未来を論ずることは本書の目的でもなく、また著者のよくする所ではないが、人間社会の現在の状態を見ると、一度全盛を極めた動物種属の末路に似た所が明らかにあるように思われる故、次にいささかそれらの点を列挙して読者の参考に供する。


 人間が悉く他の動物種属に打ち勝って向かう所敵なきに至ったのは如何なる武器を用いたに因るかと云うに、これは誰も知る通り、物の理屈を考え得る脳と、道具を造って使用し得る手とである。もしも人間の脳が小さくて物を工夫する力が無かったならば、到底今日の如き勢いを獲ることは不可能であったに違いない。またもしも人間の手が馬の足の如くに蹄で包まれて、物を握ることができなかったならば、決して他の種族に打ち勝ち得なかったことは明らかである。されば脳と手とは人間の最も大切な武器であるが、手の働きと脳の働きとは実は相関連したもので、脳で工夫した道具を手で造り、手で道具を使って脳に経験を留め、両方が相助けて両方の働きが進歩する。如何に脳で考えてもこれを実行する手が無ければ何の役にも立たず、如何に手を働かそうとしても、予め設計する脳が無かったならば何を始めることも出来ぬ。矢を放ち、槍で突き、網を張り、落とし穴を掘りするなどするのは、皆脳と手との連合した働きであるが、斯かることを為し得る動物が地球上に現われた以上は、他の動物種属は到底これに勝てる見込みが無く、力は何倍も強く牙は何倍も鋭くとも終に悉く人間に征服せられて、人間に対抗し得る敵は一種も無くなった。斯くて人間は益々、勢いを増し全盛を極めるに至ったが、その後はただ種族内に激しい競争が行われ、脳と手との働きの優った者は絶えず脳と手との働きの劣った者を圧迫して攻め亡ぼし、その結果としてこれらの働きは日を追うて上達し、研究は何処までも深く、道具は何処までも精巧に成らねば止まぬ有様となった。人はこれを文明開化と称えて現代を謳歌しているが、誰も知らぬ間に人間の身体や社会的生活状態に、次に述べる如き種族の生存上頗る面白からぬ変化が生じた。


 先ず身体に関する方面から始めるに、脳と手との働きが進歩して様々のものを工夫し製作することが出来るようになれば、寒い時には獣の皮を剥ぎ草の繊維を編みなどして衣服を纏い始めるであろうが、皮膚は保護せられるとそれだけ柔弱になり、僅かの寒気にも堪え得ぬように成れば更に衣服を重ね、頭の上から足の先まで完全に被い包む故、終には一寸帽子を取っても靴下を脱いでも風邪をひくほどに身体が弱くなってしまう。また人間が自由に火を用い始めたことは、すべて他の動物に打ち勝ち得た主な原因であるが、食物を煮て食うようになってからは歯と胃腸とが著しく弱くなった。野生の獅子や虎には決して無い虫歯が段々出来始め、生活が文明的に進むに従ってその数が殖えた。どこの国でも下層の人民に比べると、貴族や金持ちには虫歯の数が何層倍にも多い。嗜好はとかく極端に走り易いもので、冬は沸き立つような汁を吹きながら吸い、夏は口の痛むような氷菓子を我慢して食う。塩や砂糖を純粋に製し得てからは、或いは鹹(から)過ぎる程に塩を入れ、或いは甘過ぎるほどに砂糖を加える。これらのことや運動の不足やなおその他の種々の事情で胃腸の働きは次第に衰え、蟲様垂炎なども頻繁に起こり、胃が悪いと言わねば殆んど大金持らしく聞こえぬようになった。住宅も衣服と同じく益々、完全になって、夏は電気扇で冷風を送り、冬は暖房管で室内を温めるようになると、常にこれに慣れて寒暑に対する抵抗力が次第に滅し、少しでも荒い風に触れると忽ち健康を害するような弱い身体と成り終るが、これらはすべて脳と手との働きが進んだ結果である。


 智力が進めば、病を治し健康を保つことにも様々の工夫を凝らし、病原微菌に対する抵抗力の弱い者には人工的に抗毒血清を注射してこれを助け、消火液分泌の不足する者には人造のヂャスターゼやペプシネを飲ませてこれを補うが、自然に任せて置けば死ぬべき筈の弱い者を人工で助け生かせるとすれば、人間生来の健康の平均が少しづつ降るは勿論である。医学が進歩すれば一人一人の患者の生命を何日か延ばし得る場合は多少増すであろうが、それだけ種族全体の健康状態が何時とはなく悪くなるを免れぬ。文明人の身体が少しづつ退化するのは素より他に多くの原因があって、決して医術の進歩のみに因るのではないが、智力を用いて出来るだけ身体を丁重に保護し助けることは確かにその一原因であろう。身体が弱くなれば病に罹る者も増え、統計を取って見ると、何病の患者でも年々著しく数が増して行くことが分かる。


 他種族を圧倒して自分等だけの世の中となれば、安全に子孫を育てることが出来るために、人口が盛んに増えて忽ち激しい生活難が生ずる。狭い土地に多数の人が押し合って住めば、油断しては直に落伍者となる恐れがある故、相手に負けぬように絶えず新しい工夫を凝らし、新しい道具を造って働かねばならず、そのため脳と手とは殆んど休まる時が無い。その上智力が進めば如何なる仕事をするにも大仕掛けの器械を用いる故、その運転する響きと振動とが日夜神経を悩ませる。かくて神経系は過度の刺激のために次第に衰弱して病的に鋭敏となり、些細なことにも忽ち興奮して、軽々しく自殺したり他を殺したりする者が続々と生ずる。神経衰弱症は決して無かったもので、全く文明の進んだために起った特殊の病気に相違ないから、これを「文明病」と名づけるのは真に理に適った呼び方である。


 競争の労苦を慰めるための娯楽も、脳の働きが進むと単純なものでは満足が出来ぬようになり、種々工夫を凝らして濃厚な激烈なものを造るが、これがまた強く神経を刺激する。芝居や活動写真などはその著しい例であるが、真実の生存競争の労苦の余暇を以て、仮想人物の生存競争の労苦を我が身に引き受けて感ずるのであるから、無論神経系を安息せしむべき道ではない。また人間は労苦を忘れるために、酒、煙草、阿片などの如きものを造って用いるが、これは種族生存のためには素より有害である。凡そ娯楽にはすべて忘れると云うことが要素の一つであって、芝居でも活動写真でもこれを見て喜んでいる間は自分の住する現実の世界を暫時忘れているのであるが、酒や煙草の類は実際の労苦を忘れることを唯一の目的とし、煙草には「忘れ草」という名前さえつけてある。而して斯く忘れさせる働きを有するものは何れも劇毒である故、常にこれを用い続ければ当人にも子孫にも身体精神ともに害を受けるを免れぬ。阿片の如きは少時これを用いただけでも中毒の症状が頗る著しく現われる。酒の有害であることは誰が考えても明らかである故、各国ともに禁酒の運動が盛んに行われるが、しばらくなりとも現実の世界から逃れて夢幻の世界に遊ぶことが何よりの楽しみである今日の社会に於いては、飯を減らし着物を脱いでも、酒や煙草が止められぬ人間が、何時までも沢山にあって、その害も長く絶えぬであろう。而してこれらは他の動物種族では決して見られぬ現象である。


 なお生活難が増すに従い、結婚して家庭を造るだけの資力が容易には得られぬ故、自然晩婚の風が生じ、一生独身で暮す男女も出来るが、斯くては勢い風儀も乱れ、売笑婦の数が年々増加し、これらが日々多数の客に接すれば淋病や梅毒は忽ち世間一体に蔓延して、その一代の人間の健康を害うのみならず、子どもは生まれた時から既に病に罹ったものが沢山になる。その他、智力によって工夫した避妊の方法が下層の人民にまで普く知れ渡れば、性欲を満足せしめながら子の生れぬことを望む場合には盛んにこれを実行するであろうから、教育が進めば自然子の生まれる数が減ずるが、繁殖力の減退することは種族の生存からいうと最も由々しき大事である。子の生まれる数が減れば生活難が減じて、却って結構であると考えるかも知れぬが、中々左様にはならぬ。何故かというに珊瑚や苔蟲の郡体ならば百匹の虫に対して百匹分の食物さえあれば何れも満腹するが、人間は千人に対して千五百人分の食物があっても、その多数は飢えを忍ばねばならぬ様な特殊の事情が存する故、人数は増えずとも競争は相変わらず烈しく、体質は以上述べた如くに次第に悪く成り行くであろう。


 次に道徳の方面について考えるに、これまた脳と手との働きの進むに従い段々退歩すべき理由がある。智力の未だ進まぬ野蛮時代には通信や運輸の方法が極めて幼稚である故、戦争するに当たって一郡となる団体は頗る小さからざるを得なかった。隊長の号令の聞こえる所、相図の旗の見える所より外へ出ては仲間との一致の行動が取れぬ故、その位の広さの所に集まり得るだけの人数が一団を造って、各々競争の単位となったが、斯かる小団体の中では、各人の行動がその団体に及ぼす結果は誰にも明瞭に知れ渡り、団体の生存に有利な行為は必ず善として賞せられ、団体の生存に有害な行為は必ず悪として罰せられ、善の隠れて賞せられず、悪の顕われずして罰を免るる如きことは決して無く、善の為すべき所以、悪の為すべからざる所以が極めて確かに了解せられる。且つ斯かる小団体が数多く相対立して烈しく競争すれば、悪の行なわれることの多い団体は必ず戦に負けて、その中の個体は殺されるか食われるかして全部滅亡し、善の行なわれることの多い団体のみが勝って生き残り、それに属する個体のみが子孫を遺す故、もしもそのままに進んだならば、自然淘汰の結果として終には蟻や蜂の如き完全な社会的生活を営む動物と成ったかも知れぬ。然るに脳の働きと手の働きとが進歩したために、通信や運輸の方法が速やかに発達し、これに伴って競争の単位となる団体は次第に大きくなり、電話や電信で命令を伝え、汽車や自動車で兵糧を運搬するようになれば、幾百万の兵隊をも一人の指揮官で動かすことが出来るために、何時の間にか相争う団体の数が減じて各団体は非常に大きなものと成った。所で団体が非常に大きくなり、その中の人数が非常に多数になると、一人づつの行動が全団体に及ぼす結果は殆んど分からぬ程の微弱なものとなり、一人が善を行ってもそのため急に団体の勢いがよくなる訳でもなく、一人が悪を行なってもそのため速やかに団体の勢いが衰える訳でもなく、従って善が隠れて賞せられぬこともしばしばあれば、悪が免れて罰せられぬこともしばしばあり、時としては悪を行なった者が善の仮面を被って賞に与えることもある。斯様な状態に立ち至れば、善は何故に為さねばならぬか、悪は何故に為すべかざるかという理屈が頗る曖昧になって来る。小さな団体の内では悪は必ず現れて厳しく罰せられるゆえ、潜に悪を行なった者には日夜烈しく良心の呵責を受けるが、団体が大きくなって悪の必ずしも罰せられぬ実例が沢山目の前に並ぶと、勢い良心の刃は鈍くならざるを得ない。また団体が大きくなるに従い、団体間の競争に於ける勝負の決するのに甚だしく手間が取れ、競争は絶えず行われながら、一方が全滅して跡を止めぬまでには至らぬ。即ち負けてもただ兵士の一部が死ぬだけで、他は依然として生存する故、団体を単位とした自然淘汰は行われず、その結果として団体生活に適する性質は次第に退化する。大きな団体の内では、各個人の直接に感ずるのは各自一個の生存の要求であって、国運の消長の如きは衣食足つて後でなければ考えている余裕が無い。而して個人を単位とする生存競争が烈しくなれば、自然淘汰の結果として益々単独生活に適する性質が発達し、自分さえ宜しければ同僚は如何に成り行いても構わぬというようになり、斯かる者の間に立っては良心などを持ち合わさぬ者の方が却って成功する割合が多くなる。各個人が斯くの如く利己的になっては、如何に立派な制度を設け、如何に結構な規約を結んでも、到底完全な団体生活が行われるべき望みはない。団体的生活を営む動物でありながら、追々団体的生活に適せぬ方向に進み行くことは、種族の生存にとっては極めて不利益なことであるが、その原因は全く団体をして過度に大ならざるを得ざらしめた脳と手との働きにある。


 更に財産に関する方面を見るに、手を以て道具を用いる以上は何事を為すにも道具と人とが揃わねばならず、人だけがあっても道具が無くては殆んど何も出来ぬ。獺(かわうそ)ならば自分の足で水中を泳ぎ、自分の口で魚を捕えるが、人間は船に乗り櫓を漕ぎ、網で掬い、籠に入れるのである故、この中の一品が欠けても漁には出られぬ。僅かに櫓に掛ける一本の短い網が見付からなくても岸を離れることが出来ぬ。斯かる場合には、捕れた魚の一部を与える約定で隣の人からあいている櫓や網を借りるであろうが、これが私有財産を貸して利子を取る制度の始まりである。而して一旦物を貸して利子を取る制度が開かれると、道具を造ってこれを貸すことを専門とする者と、これを借りて働くことを専門とする者とが生ずるが、脳と手との働きが次第に精巧な器械を造るようになると共に、器械の値は益々高く、労働の値は益々安く、器械を所有する者は法外の収入を得るに反し、器械を借りる者は牛馬の如くに働かねばならぬように成る。共同の生活を営む社会の中に、一方には何もせずに贅沢に暮らす者があり、他方には終日汗を流しても食えぬ者があるというのは、決して団体生活の健全な状態とは考えられぬ。蒸気機関でも機織り機械でも発電機でも化学工業でも、著しい発明のある毎に富者は益々富み、貧者は益々貧しくなった所から見れば、今後も恐らく文明の進むに従い最少数の極富者と大多数の極貧者とに分かれ行く傾が止まぬであろうが、それが社会生活の各方面に絶えず影響を及ぼし、身体にも精神にも著しい変化をひき起こす。而もそれが何れも種族生存の上に不利益なことばかりである。


 前に健康や道徳に関して今日の人間が如何なる方面に進みつつあるかを述べたが、貧富の懸隔が甚だしく成ればすべてこれらの方面にも直接に影響する。極富者と極貧者とが相隣して生活すれば、男女間の風儀なども直に乱れるのは当然で、餓えに迫った女が富家に媚びて淫を売るのを防ぐことは出来ず、貧者は最も安価に性欲の満足を求めようとする故、それに応ずる職業の女も増え、世間一般に品行が乱脈になれば花柳病が盛に蔓延して終には殆んど一人も残らずその害毒を被るであろう。その他富者は飽いて病を得、貧者は餓えて健康を保ち得ず、何れも体質が次第に下落する。現に文明諸国の貧民には栄養不足のために抵抗力が弱くなって、些細な病にも堪え得ぬ者が夥しくある。また富者は金を与えて如何なることをも敢えてし、貧者は金を得んがために如何なることをも忍ばざるを得ぬ故、その事柄の善か悪かを問う暇はなく、道徳の観念は漸々薄らいで、大概の悪事は日常のこととして人が注意せぬように成ってしまうが、これでは到底協力一致を旨とする団体生活には適せぬ。


 国内の人民が少数の富者と多数の貧者とに分かれ、富者は金の力によって自分等のみに都合のよいことを行なえば、貧者はこれを見て決して黙っては居らず、富者を敵として憎み、あらゆる方法を講じてこれを倒そうと試み、貧者と富者との間に妥協の余地の無い烈しい争闘が始まる。教育が進めば貧者と雖も智力に於いては決して富者に劣らぬ故、自分の境遇と富者の境遇を比較して、何故斯くまで相違するかと考えては不満の念に堪えず、現今の社会の制度を悉く富者のみに有利な不都合千万なものと思い込み、全部これを覆そうと企てる者も大勢出て来る。今日社会問題と名づけるものには様々の種類があるが、その根本は何れも経済の問題である故、貧富の懸隔が益々甚だしくなる傾のある間は到底満足に解決せられる見込みは無かろう。斯くの如く、一団体の内が更に幾つもの組に分かれて互いに相憎み相闘うことは、団体生活を営む種族の生存に取って頗る有害であるが、その根源を質せば皆初め手を以て道具を用いたのに基くことである。


 要するに、今日の人間は最初他の動物種族を征服するときに有効であった武器なる脳と手との働きが、その後種族内の競争のために何処までも進歩し、そのため身体は弱くなり、道徳は衰え、共同生活が困難になり、貧富の懸隔が甚だしくなって、不平を抱き同僚を呪う者が数多く生じ、日々団体的動物の健全なる生活状態より遠ざかり行くように見受ける。これらのことの実例を挙げるのは煩しい故省くが、毎日の新聞紙上に幾らでも掲げてある故、この点に於いては世界中の新聞紙を本章の付録と見做しても差支えはない。今日地球上の人間は幾つかの民族に分かれ、民族の間にも個人の間にも脳と手とによる烈しい競争が行われている故、今後も尚智力は益々進み器械は益々精巧になろうが、この競争に一歩でも負けた民族は忽ち相手の民族から烈しい圧迫を蒙り極めて苦しい位置に立たねばならぬから、自己の民族の維持継続を図るには是非とも脳と手とを働かせ、発明と勤勉とによって敵なる民族に優ることを努めねばならぬ。斯く互いに相励めば所謂文明は尚一層進むであろうが、その結果は如何にというに、ただ民族と民族、個人と個人とが競争するに用いる武器が精鋭になるだけで、前に述べた如き人間種族全体に現われる欠陥を救うためには何の役にも立たぬであろう。人間の身体や精神が漸々退化する傾のあることに気の付いた学者は既に大勢あって、人種改善とか種族の衛生とかいうことが、今日では盛んに唱えられているが、以上述べた如き欠陥は何れも脳と手との働きが進んだために当然生じたもの故、同じ脳と手との働きによって今更これを救おうとするのは、恰も火を以て火事を消し、水を以て洪水を防ごうとするのと同じようで、結局は到底その目的を達し得ぬであろう。「知っていることは何の役にも立たず、役に立つようなことは何も知らぬ」と云ったファウストの歎息はそのまま人種改良学者等の最後の歎息となるであろうと想像する。但し、幾多の民族が相睨み合っている現代に於いては少しでも相手の民族よりも速く退化するようなことがあっては、忽ち敵の迫害のために極めて苦しい地位に陥らざるを得ぬ故、一方脳と手との力によって相手と競争しながら、他方にはまた脳の働き、手の働きの結果として当然生ずべき欠陥を出来るだけ防ぐように努めることが目下の急務である。何れの民族も結局は、脳の過度に発達したために益々生存に不適当な状態に赴くことを避けられぬであろうが、いま敵よりも先に退化しては、直に敵のために攻められ苦しめられるべきは明らかである故、その苦しみを免れんとするには是非とも、更に脳と手とを働かせ、工夫を凝らし力を尽くして、身体精神ともに成るべく長く健全ならしめることを図らねばならぬ。人間全体が終には如何に成り行くかというような遠い将来の問題よりも、如何にして我が民族を維持すべきかと云う問題の方が目前に迫っている故、応急の手段としては、やはり人種改善や種族衛生を学術的に深く研究して、出来る限りの良法を実地に試みるの外はない。斯くして、一方に於いては智力によって、軍事、殖産等の方面を進歩せしめ、他方に於いては同じく智力によって生活状態の退化を防ぐことを努めたならば、速やかに他の民族のために亡ぼされる如き運命には恐らく遇わぬであろう。


 以上の如く考えて後に更に現今の人間を眺めると、その身体には明らかに過度に発達した部分のあることに気付かざるを得ない。前に鹿の或る種類ではその滅亡する前に角が大きく成り過ぎ、虎の或る種類では同じく牙が大きく成り過ぎたことを述べたが、人間の身体では脳が確かに大きく成り過ぎている。人間は何時も自分を標準として物を判断し、人体の美を論ずるに当たっても断金法などと称する勝手な法則を定め、これに適ったものを円満な体格と見做すが、虚心平気に考えて見ると、重さ十二三貫、長さ五尺二三寸の身体に重さ三百六十匁、直径五寸五分もあるような大きな脳が備わり、これを包むために、顔面部より遥かに大きな頭蓋骨の発達している有様は、述べた鹿の角や虎の牙と相似たもので、何れも畧々極端に達している。もしも彼の鹿が、角の大き過ぎるために滅亡し、彼の虎が牙の長過ぎるために滅亡したものとすれば、人間は今後或いは脳が大きく成り過ぎたために滅亡するのではなかろうかとの感じが自然に浮かぶが、これは強ちに根拠の無い杞憂でも無かろう。已に現今でも胎児の頭が大きいために難産の場合が沢山にあり、出産の際に命を失う者さえ相応にある位故、萬一この上に人間の脳が発達して胎児の頭が大きく成ったならば、それだけでも出産に伴う苦痛と危険とが非常に増し、自然の難産と人工的の避妊とのために生殖の率が著しく減ずるに違いない。母が子を産むのは生理的に当然のことで、本来は何の故障も無しに行わるべきものであるに人間だけは、例外として非常な危険がこれに伴うのは、確かに人間が種族の生存上不利益な方向に進み来った証拠と考えねばならぬ。本書の始めにも云った通り、凡そ物は見ようによって種々に異なって見えるもので、同一の物に対しても観察する人の立つ場所を換えると全く別の感じが起こる。人間種族の将来に関してもその通りで、人間のみを見るのと、古今の諸動物に比較して見るのとでは大に趣が違い、また同じく生物学的に論じても一人一人に考え方は著しく異なるであろう。而して他の人々が如何に考えるかは知らぬが、著者一人の見る所は先ず以上畧述した如くである。




盛者必滅、有為転変は実に古今に通じた生物界の規則であって、これに漏れたものは一種として有った例はない。





(丘 浅次郎)