< 仏国土の清浄 >



ブッダ曰く

 「良家の若者たちよ、衆生という仏国土こそ、実は菩薩の仏国土なのである。それはなぜか。菩薩は、衆生に対する利益の増大のあるかぎり、そのかぎりが仏国土であると受けとるのである。衆生が鍛錬されていく状態、それに応じて仏国土というものが考えられる。仏国土に行くことがどのようであれば、衆生は仏陀の知にはいることとなるかという、それに応じて仏国土が考えられる。仏国土に行くことがどのようであることによって、人々は聖者に等しい機根をもちうるかという、それに応じて仏国土は考えられる。それはなぜかといえば、菩薩にとっての仏国土というものは、衆生の利益と無関係にはなりたたないからである。宝蔵(弟子)よ、たとえば次のようである。空中に何かをつくろうとし、それを希望どおりにつくったとしても、空中では実際にはつくることもできないし、飾ることもできない。それと同時に、あらゆる存在は虚空のようなものであると知って、菩薩は衆生を成熟させるために、希望したとおりに仏国土をつくる。しかし、衆生をぬきにして空中にはつくられるはずもなく、飾られるはずもないのである。

 しかし、宝蔵よ、衆生の素直な心という仏国土こそは、菩薩の仏国土である。菩薩が悟りを得たときのその仏国土には、人を偽りたぶらかしたことのない衆生が生まれるであろう。また、深い決意という仏国土が、菩薩の仏国土である。その仏国土には、あらゆる善根と知や徳を集めた衆生が生まれるであろう。修行という国土こそ、菩薩の仏国土である。そこにはあらゆる善法をすみかとする衆生が生まれる。菩薩の偉大な発心が、仏国土である。そこにはすでに大乗にはいっている衆生が生まれる。

 布施の国土が菩薩の仏国土である。そこにはあらゆる財物を施与する衆生が生まれる。戒律という国土が菩薩の仏国土である。そこにはあらゆる善への意欲を持って十善業道をまもっている衆生が生まれる。忍耐という国土が菩薩の仏国土である。そこには三十二相をもって身を飾り、堪忍と柔和と寂静とのすぐれた彼岸に到達した衆生が生まれる。精進努力が仏国土である。そこにはあらゆる善を行なおうと努力する衆生が生まれる。禅定が仏国土である。そこには正しく念じ、正しく知ることによって、心の平静を得た衆生が生まれる。智慧という国土が仏国土である。そこには真実を見ることに決定的な資格をすでに得た衆生が生まれる。四種の無限(四無量心)が仏国土である。そこには慈しみ(慈)と同情(悲)と喜び(喜)と不偏の心(捨)との持ち主である衆生が生まれる。人々を真理に近づかせる四種のことがら(四摂事=布施・愛語・利行・同事)が仏国土である。そこにはあらゆる解脱の事実に引きつけられた衆生が生まれる。方便に巧みなことが仏国土である。その国土には、すべての方便手段と観察とに巧みな衆生が生まれる。

 悟りへの適切な手段としての三十七種が仏国土である。そこには四種の正しく心を配ることや、四種の正しい努力や、四種の神通の基礎や、五種の機能や、五種の能力や、七種の悟りの支分や、八種の道を行うことを知っている衆生が生まれる。回向(自己の善や功徳を他にさし向けること)の心が仏国土である。この国土には、あらゆる功徳に飾られた人々が出現するであろう。八種の不運な生まれつきを除こうとする説法が仏国土である。この国土では、すべての悪趣がまったく絶たれ、八種の不運な生まれつきもなくなるであろう。自らは戒律の条文をよく守り、他人の過失はこれを口にしないことが、仏国土にほかならぬ。その仏国土では、過失という名前さえ聞かれない。浄らかな十善業道こそは、菩薩の仏国土にほかならない。菩薩に悟りを得させるこの仏国土には、十善業道の結果として寿命をまっとうする者、大資産家となった者、異性との関係の清浄な者、真実を語ることによって身を飾った者、ことばのやわらかな者、家族の間に不和のない者、争いごとをまるく治めるのに巧みな者、ねたみのない者、怒る心のない者、正しく見る者、これらの衆生が生まれるであろう。

 良家の若者たちよ、このようにして菩薩が悟りに対して発心することが仏国土であるように、すなおな心も同様に仏国土である。すなおな心のように、修行も同様である。修行のあるかぎり、深い決意も同様である。深い決意のあるかぎり、洞察もあり、洞察のあるかぎり、教えに従って行うことがあり、行なうことのあるかぎり、。回向もあり、回向のあるかぎり、方便もあり、方便のあるかぎり、国土の清浄もある。国土の清浄があるかぎり、衆生の清浄も同様であり、衆生の清浄があるように、知の清浄もあり、知の清浄があるように、説法の清浄もあり、説法の清浄のあるように、知の完成の清浄もあり、知の完成の清浄のあるように、自己の心の清浄も同様にある。

 それゆえに、若者よ、国土清浄を欲する菩薩は、自己の心を治め浄めることにつとめるべきである。

なんとなれば、どのように菩薩の心が浄らかであるかに従って、仏国土の清浄があるからである

 

 そのとき、仏陀の威神力によって、長老のシャーリプトラに、次のような考えが生じた。

 「もし心が清浄であるに従って、そのように菩薩の仏国土が浄らかになるのであれば、世尊は、菩薩の行を行じたのであるから、その心が不浄であるなどということがあろうか。それなのにどうして、仏国土がこのように不浄なものとして見えるのであろうか」

 そこで、シャーリプトラが心で考えていることを世尊は知って、次のように仰せられた。

 「シャーリプトラよ、次のことをどう考えるか。日や月は不浄なのか。そうではないであろう。盲者には見えないのか」

 お答えする、「世尊よ、そうではありません。それは盲者の過失ではあっても、日や月に過失があるのではありません」

 仰せられる、「シャーリプトラよ、それと同様に、ある者には、如来の仏国土が功徳をもって飾られていることが見えない。それは彼らの無知からする過失ではあっても、そこに如来の側に過失があるのではない。シャーリプトラよ、如来の仏国土は清浄であるにもかかわらず、おまえがそれを見ないのである」

 そのとき、ブラフマー神のシキンが、長老のシャーリプトラに告げた。「大徳よ、如来の仏国土が清浄でないなどとは、仰せくださいますな。世尊の仏国土の清浄なことは、たとえば、他化自在天(欲界に属する六種の神々およびその世界のうちで、他化自在天は最高の位置にある)の宮殿が装飾されているのと同じことであって、われわれは世尊の仏国土も、そのようなものとして見なければなりません」

 そこで、シャーリプトラは言う。「ブラフマーよ、わたくしにはこの大地が、高低や、いばらや、崖や、山頂や、溝や泥などでいっぱいなのが見えます」

ブラフマー神が答える。「そのように仏国土が不浄に見えるわけは、きっと自分の心に高低があり、仏陀の知に対する意欲が不浄だからです。シャーリプトラよ、すべての衆生に対して心が平等であり、仏陀の知に対する意欲が浄らかである者には、この仏国土が清浄なものとして映るのです」

 そのとき世尊は、なお人々に疑念があるのを知ってこの三千大千世界の上に足の指をおかれた。この世界は、無量百千の宝石を集め積み重ねて飾られているものとなった。それはあたかも、宝荘厳如来の世界が、無限の功徳の宝をもって飾られているのと同様であった。それはこの集まりにいる者すべてにとって驚異であり、彼ら自らもまた、宝の蓮華で飾られた席の上にすわっているのを感じたのであった。

 そのとき世尊は、シャーリプトラに向って仰せられた。「シャーリプトラよ、仏国土がこのように功徳で飾られているのを見たか」

 お答えする。「拝見いたしました、世尊よ。これらの飾りはいままでに見たことも聞いたこともないものです」

 世尊が仰せられる。「シャーリプトラよ、この仏国土はいつもこのようであるのだが、低劣な衆生を次第に成熟させていくために、如来は、この仏国土にこんなに多くの欠陥や不完全さがあるように見せるのである。たとえば、神々は同一の宝石の器で食事をするが、どのような徳を過去に積んだかという差異によって、その食事が醍醐味のあるものであったりなかったりするようなものである。それと同じく、シャーリプトラよ、人々は同一の仏国土に生れてはいるが、彼らがどのように浄められているかに応じて、仏国土の功徳の飾られ方も種々にあらわとなるのである」


 上述のように、仏国土が功徳をもって飾られている姿であらわれたとき、八万四千の人々が、無上の完全な悟りへと発心した。宝蔵とともに集まった五百人の青年は、真理に随順するという知を得た。

 次いで世尊が上述の神変を収めると、そのときから仏国土はまた以前の状態にもどったことが認められた。これを見て、声聞乗(小乗)に属する神や人々は、「いかにも、このつくられた世界は無常なるかな」と知って、三万二千の者が、法に対して汚れのない清浄な目をもつ者となった。八千の比丘たちは、執着がなくなり、煩悩の漏出からの心の解脱を得た。広大な仏国土に対して、信順した八万四千の者も、すべての存在は、心によって設立成就された性質のものであることを知って、正しく完成した無上の悟りに向って発心した。


(「維摩経」より)