< 尊い真実としての苦 >
いまだかつて聞かれたことのないこの不思議な詩句が世尊の心に浮かんできた。
『わたしが苦労してさとりを得たものを、いま人に説いて何の得るところがあろう。貪欲と憎悪とにうち負かされた人々にとって、この法をさとるのは容易ではない。常識の流れに逆らい、精妙で、深遠で、理解しがたい、微妙なこの法を、貪欲に汚された幾重にも無知の闇におおわれている人々は、見ることがない』
娑婆の主ブラフマー神は世尊のほうへ向かって合掌して、言った。
『世尊、法をお説きください。善き人よ、法をお説きください。世にはその眼があまり塵によごれていない人々もおります。いまは彼らも法を聞いていないのでその心が衰退していますが、世尊が法をお説きになったら、やがて法を了解する者となるでありましょう』
世尊は娑婆の主ブラフマー神に次の詩節をもって答えられた。
『不死を得るための門は開かれた。耳をもつ者は、聞いておのれの盲信を捨てよ。ブラフマー神よ、わたしがこのすぐれた卓越した法を人々のために説かなかったのは、それが人々を害するであろうと案じてであった』
そのとき、娑婆の主ブラフマー神は、世尊の説法のためのきっかけをつくることができたと考えて、世尊に敬礼し、その周りを右まわりにまわって、その場からすがたを消した。
尊い真実としての苦(苦諦)とは
生れることも苦であり、老いることも苦であり、病むことも苦である。悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みも苦である。憎いものに会うのも苦であり、愛しいものと別れることも苦である。欲求するものを得られないのも苦である。要するに、人生のすべてのもの・・・それは執着をおこすもとである五種類のものの集まりとして存在するが・・・それがそのまま苦である。
尊い真実としての苦とはこれであり、知り尽くさなければならない。そして、すでに知り尽くされた。
尊い真実としての苦の生起の原因(集諦)とは
迷いの生涯を繰り返すもととなり、喜悦と欲情とを伴って、いたるところの対象に愛着する渇欲である。すなわち、情欲的快楽を求める渇欲と、個体の存続を願う渇欲と、権勢や繁栄をもとめる渇欲である。
尊い真実としての苦の生起の原因とはこれであり、断ち捨てられなければならない。そして、すでに断ち捨てられた。
尊い真実としての苦の消滅(滅諦)とは
その渇欲をすっかり離れること、すなわちそれの止滅である。それの棄捨であり、それの放棄であり、それから解放されることであり、それに対する執着を去ることである。
尊い真実としての苦の消滅とはこれであり、現実に体験されなければならない。そして、すでに現実に体験された。
尊い真実としての苦の消滅に進む道(道諦)とは
八項目から成る尊い道、すなわち、正しい見解・正しい思考・正しいことば・正しい行為・正しい暮らしぶり・正しい努力・正しい心くばり・正しい精神統一である。
尊い真実としての苦の消滅に進む道とはこれであり、実修されなければならない。そして、すでに実修された。
と、わたしには、かつて聞いたことのない法に対して、見る眼が生じ、理解が生じ、洞察が生じ、覚知が生じ、直観が生じた。
わたしの心の解脱は不動である。
これが最後の生存であって、いまや再び迷いの生存にはいることはない。
世尊がこれを説かれたとき、五人の比丘の群れは歓喜して世尊の説を信受した。
そして、この説明がなされたとき、尊者コーンダンニャには汚れなく清浄な法を見る眼が生じた。・・・およそ生起する性質のある
すべてのものは、滅びゆく性質がある、と。沙門も婆羅門も神も悪魔もブラフマー神も、世界のだれもそれを逆転させることはできない。
こうして、その一刹那その一瞬その一刻のあいだに、声は遠くブラフマ世界にまで達した。そして、この十千世界は動き震いゆらいだ。はかりしれぬ広大な光明が世に現われた。それは神々の威力をも超えるものであった。