< 仏教と戦争 >




 戦争責任の反省は、日本大乗仏教の発想法と論理のいくつかに向けられなくてはならない。



(一) 「事の中に理を見る」 実相観の論理と有機的連関をなす没批判的姿勢が、満州事変、日中戦争ないし建国記念日などの既成事実に弱い日本民族のエートス形成に、直接間接に寄与したこと。おなじ受動性、没主体性が、仏教を日本の「家」・・・それはいうなれば天皇制国家の細胞核として神棚をもっていた・・・の宗教として奇形化したこと。


(二) 「差別即平等」の論理が、体制擁護の論理として機能してきたこと。


(三) 「即非」の論理、すなわち不自由即自由、「随所に従となる」(聖戦に滅私奉公)ことが、「随所に主となる」(大乗禅)ことだといった絶対矛盾の自己同一の論理が、おなじ社会的・政治的役割を果たしてきたこと。


(四) 「安心」への要求が、「安全」へに要求に呑み込まれてしまうような心境主義の体験論理を説きすすめたこと。


(五) これらの論理ないし発想法が、すべて「内なる心の平和」を「外なる世界の平和」から切り離して確保する安心立命の心術論理として機能してきたこと。





一、国家と仏教


 インドの大乗仏教典には護国的性格のものが少なくない。この種のものが日本の王朝によって輸入され保護されてきたことが、日本仏教の鎮護国家的な性格を濃くした。この特性は中世鎌倉期の新仏教において弱められはしたが、これらの新仏教もやがて政治権力への従属を強めた。江戸時代の仏教は幕府による寺院法度の統制下におかれるとともに、その切支丹禁止政策に協力する「家」の宗教、祖先崇拝の儀式と法事の宗教として形骸化し、神社神道と混合して半ば国教化した。このことはキリスト教の超国家性と近代性にたいする非寛容と敵対とを意味した。江戸末期、明治初期の仏教は、国学者、神道者、それを支持する政治勢力による廃仏毀釈運動にたいする自衛のために、ますます反キリスト教的、反社会主義的となった。このことは明治の天皇制ナショナリズム、軍国主義への従属を強めることでもあった。



二、人間観と社会観


 仏教は三世にわたる業の輪廻、三世因果の思想によって人間と社会とを解釈した。その結果、原始仏教の四姓平等観はいちじるしい制約をうけることになった。人間はすべて仏性をそなえ、仏となる素質をもつ点において平等であるが、各人の三世にわたる善悪の業の果報として、ちがった身分、能力、境遇に生れる。さらに女性は男性にくらべて無知、業欲の深さなど、成仏への五つの障害をもつと考えられた。貴賤、貧富、男女、幸不幸が背後に道徳的評価をともなう差別としてとらえられた。三世因果律によって各人が差別的であることが、かえって真の平等であり正義であるという論理が形成され、身分社会の秩序が形而上的に根拠づけられた。かくて足るを知り分に安んずる不争とあきらめの心術ないし人生哲学が普及した。そして儒教の宇宙論と結合した・・・しかし、易姓革命に通ずる「天」の思想契機を除いて・・・仏教の宇宙論は、自然界の差別と秩序を模範とし媒介として(事実は逆に人間界のそれの自然界への投映であったが)、人間界の差別と秩序を類推し解釈する汎自然主義=汎道徳主義の論理、いいかえるならば体制擁護的自然法思想によって世界を解釈し、現存の社会体制を不変のものとしてとらえ、社会主義を山を崩して川を埋める悪平等思想として排撃した。



三、勧善懲悪の教説


 三世因果説は民衆の私的功利心に訴える勧善懲悪思想を柱としたが、これを補強したものが上記の宇宙論であった。聖徳太子の「十七条憲法」にいう「詔ヲ承ケテハ必ズ謹シメ。君ハ則チ天ナリ、臣ハ則チ地ナリ・・・地、天ヲ覆ワント欲セバ、則チ壊ルルヲ致サンノミ」という警告がそれである。このようにして半ば国教的な日本仏教の護教的路線が敷かれたのである。近代日本の仏教は、儒教の分限倫理をとりいれた上からの国民道徳・教育勅語(明治23年)を軌道とし治安維持法をムチとする明治政府の文教政策の忠僕として、期待される臣民像の形成に奉仕することになった。



四、人権と正義の問題


 仏教の縁起観によれば、ものはすべて無数の因と縁との作用連関において生起する。したがってものはすべて生滅変化し、過ぎ去るもの、実体なき空なるものである。このような世界観にもとづく無我観は、個的人格の独立性を成り立たせる場をもたなかった。・・・このことは空なる自然界への科学的関心を触発しなかった事情と照応した。・・・それは近代的な人権と正義のよりどころとなる自然法に相当する原理を提供しなかった。前記「十七条憲法」の「背私向公」のマキシムは、天皇制ファシズムにおける「滅私奉公」と直結した。この場合「公」は市民、人民を意味するのではなく、天皇と国家を意味する「キミ」と「オオヤケ」であった。無我説はMikado Imperialismに奉仕する論理および倫理となった。



五、規範原理(ドグマ)の不在


 実体概念を否定し関係概念の支えとなる流動的直観の哲学は、超越的人格神の不在とともに、あくまでそれを崇拝し護持し、それのためにたたかうべき基本的なドグマないしテーゼの確立とはなじまないものであった。この事情は、日本文化の主情性、審美性と相俟って、思想、理論の軽視をともなうことにもなった。仏教は実存主体の内面性に重きをおく宗教のつねとして、行為の結果に力点をおく責任の倫理・・・三世因果説は似て非なるもの・・・ではなく、行為者の心情を中心とする倫理をうちたてた。



六、恩の思想


 縁起観を背景とする恩の思想は仏教道徳の中心であったが、四恩(父母、国王、衆生、天地または三宝=仏・法・僧)のうち、重心は日本的な家父長的神政制のもとで、父母の恩を介して君恩に移行し収斂し、衆生恩は重きをなすに至らなかった。



七、相衣相関の論理


 ものごとの相衣の論理は、近代日本において国家有機体説をもった。それは一方では全体(国家・社会)あっての部分(個人)の論理となり、他方では資本家あっての労働者、労働者あっての資本家という大家族制的協調主義の論理が、中道、和合の倫理をうむことになった。



八、中道主義


 原始仏教の中道思想は、近代日本仏教の中道主義社会思想として具体化した。この中道は、極左思想と極右思想、左翼冒険主義と右翼日和見主義との中間ではなく、ベルンシュタイン的な修正社会主義でもない。そのような対立以前の妥協主義である。あいまいな中間者による教化と調停の処世法であり、あいまいな社会改良説であった。



九、祖先崇拝の伝説


 鎮護国家の宗教として「土着化」した仏教は、祖先崇拝の慣習道徳を宣教してきた。やがてそれは「義は君臣、情は父子」といった「大家族」主義の国民道徳と合流し、「八紘一宇」の聖戦倫理を翼賛する運命をたどることになった。



十、「老」の精神


 「寂滅」の教義は中世以降の日本において「幽玄」「わび」「さび」「おかしみ」の文化を生んだ。そこにあるのは若さの新緑ではなく老成の渋さである。「社会党よ大人になれ」といわれる。このばあい大人になるというのは、現実批判、現実否定から現実容認になることである。「おとなし」は「大人らし」である。それは落着いて穏当であり和順であることである。融通性と妥協性に富むことである。老の精神は不争、無欲、和順、寛容の精神である。



十一、正義よりも安心


 神なき「空」の宗教は、超越の原理が希薄であったために、国家神道と確執をかもす契機が微弱であった。神の国の正義を地上にもたらすという祈りまたは決意ではなく、むしろ個的実存の安心の確立を主眼とすることによって、社会改造の意志を確立するに至らなかった。



十二、「即」の論理


 安心と表裏の関係にある自由は、心境的には矛盾の同一である。不自由即自由である。それは政治的社会的な人間解放への関心を無力化する自由であった。スタティックな美的観照的な諦観の論理である。ダイナミックな即物的な矛盾の論理ではなく、心境的な融和、風流、風雅、洒脱の道である。この風流の道は、仏教社会主義のための堅固な地盤を準備しなかった。



(市川白弦)