<伝承 万世一系神話 T>



 今、世間で要求せられていることは、これまでの歴史が間違っているから、それを改めて、真の歴史を書かねばならぬ、というのであるが、こういう場合、歴史が間違っているということには二つの意義があるらしい。


 一つは、これまで歴史的事実を記述したものと考えられていた古書が実はそうでない。ということであって、たとえば『古事記』や『日本書紀』は上代の歴史的事実を記述したものではない、というのがそれである。これは史料と歴史との区別をしないからのことであって、記紀(『古事記』と『日本書紀』)は上代史の史料ではあるが上代史ではないから、それに事実ではないことが記されていても、歴史が間違っているということはできぬ。史料は真偽混雑しているのが常であるから、その偽なる部分を捨て真なる部分をとって歴史の資料をすべきであり、また史料の多くは多方面をもつ国民生活のその全方面に関する記述を具えているものではなく、ある一、二の方面に関することが記されているのみであるから、どの方面の資料をそれに求むべきかを、史料そのものについて吟味しなければならぬ。史料には批判を要するというのはこのことである。たとえば記紀において、外観上、歴史的事実の記録であるが如き記事においても、細かに考えると事実とは考えられぬものが少なくないから、そこでその真偽の判別を要するし、また神代の物語などの如く、一見して事実の記録と考えられぬものは、それが何事についての史料であるかを見定めねばならぬ。物語に語られていること、すなわちそこにははたらいている人物の言動などは、事実ではないが、物語のつくられたことは事実であるとともに、物語によって表現せられている思想もまた事実として存在したものであるから、それは外面的の歴史的事実に関する史料ではないが、文芸史、思想史の貴重なる史料である。こういう史料を史料の性質にしたがって正しく用いることによって、歴史は構成せられる。史料と歴史とのこの区別は、史学の研究者においては何人も知っていることであるが、世間では深くそのことを考えず、記紀の如き史料をそのまま歴史だと思っているために、上にいったようなことがいわれるのであろう。


 今一つは、歴史家の書いた歴史が、上にいった史料の批判を行なわず、またはそれを誤り、そのために真偽の弁別が間違ったり、史料の性質を理解しなかったり、あるいはまた何らかの偏見によってことさらに事実を枉げたり、ほしいままな解釈を加えたりして、その結果、虚偽の歴史が書かれていることをいうのである。


 さて、この二つの意義のいずれにおいても、これまで一般に日本の上代史といわれているものは「間違っている」と言い得られる。しからば真の上代史はどんなものかというと、それはまだできあがっていない。という意味は、「何人にも承認せられているような歴史が構成せられていない」ということである。上にいった史料批判が歴史家によって一様でなく、したがって歴史の資料が一定していない、ということがその一つの原因である。

 したがって次に述べるところは、わたくしの私案にすぎないということを、読者はあらかじめ知っておかれたい。ただわたくしとしては、これを学界並びに一般世間に提供するだけの自信はもっている。


 日本の国家は「日本民族」と称し得られる一つの民族によって形づくられた。この日本民族は近いところにその親縁のある民族をもたぬ。大陸におけるシナ(支那)民族とは、もとより人種が違う。チョウセン(朝鮮)・マンシュウ(満州)・モウコ(蒙古)方面の諸民族とも違う。このことは体質からも、言語からも、また生活の仕方からも、知り得られよう。ただ半島の南端の韓民族のうちには、あるいは日本民族と混血したものがいくらかあるのではないか、と推測せられもする。また洋上では、リュウキュウ(琉球)の大部分に同じ民族の分派が占居したであろうが、タイワン(台湾)及びそれより南のほうの島々の民族とは同じでない。本土の東北部にまったく人種の違うアイヌのいたことは、いうまでもない。


 こういう日本民族の原住地も、移住してきた道筋も、またその時期も、今まで研究せられたところでは、まったくわからぬ。生活の状態や様式やから見ると、原住地は南方であったらしく、大陸の北部でなかったことは推測せられるが、その土地は知りがたく、来住の道筋も、世間でよく憶測せられているように海路であったには限らぬ。時期はただ遠い昔であったと言い得るのみである。


 原住地なり、来住の途上なり、またはこの島に来たときからなりにおいて、種々の異民族をいくらかずつ包容し、またそれらと混血したことはあったろうが、民族としての統一を失うほどなことではなく、遠い昔から一つの民族として生活してきたので、多くの民族の混和によって日本民族が形づくられたのではない。この島に来たときに、民族の違うどれだけかの原住民がいたのではあろうが、それが、一つもしくはいくつかの民族的勢力として、後々までも長く残ってはいなかったらしく、時とともに日本民族に同化せられ包容せられてしまったであろう。


 こういう日本民族の存在の明らかに世界に知られ、世界的意義をもつようになったことの今日にわかるのは、前一世紀もしくは二世紀であって、シナでは前漢の時代である。これが日本民族の歴史時代のはじまりである。それより前のこの民族の先史時代がこの島においてどれだけ続いていたかはわからぬが、長い、長い、年月であったことは、推測せられる。


 先史時代の日本民族の生活状態は先史考古学の示すところのほかは、歴史時代の初期の状態から逆推することによって、その末期のありさまがほぼ想像せられる。主なる生業は農業であったが、この島に住んでいることがすでに久しいので、親子、夫婦の少数の結合による家族形態が整い、安定した村落が形づくられ、多くのそういう村落のを抱合する小国家が多く成り立っていたので、政治的には日本民族は多くの小国家に分かれていたのである。この小国家の君主は、政治的権力とともに宗教的権力をももっていたらしく、種々の呪術や原始的な宗教心のあらわれとしての神の祭祀やが、その配下の民衆のために、彼らによって行なわれ、それが政治の一つのはたらきとなっていた。地方によっては、これらの小国家の一つでありながら、その君主が付近の他のいくつかの小国家の上に立ってそれらを統御したものもあったようである。


 君主の権威は民衆から租税を徴しまたは彼らを使役することであったろうが、小国家においては、君主は地主としての性質を多分に具えていたのではないか。したがってまた君主は、政治的権力ではあるが、それとともに配下の民衆の首長もしくは指導者というような地位にいたのではないか、と推測せられもする。農業そのことの本質に伴う風習として、耕地が何人かの私有であったことは、明らかであろう。


 この日本民族は牧畜をした形跡はないが、漁猟は至るところで営まれ、海上の交通も沿海の住民によって盛んに行われた。しかしこういうことを生業としたものも、日本民族であることに変わりはなく、住地の状態によってそれに適応する生活をしていたところに、やはりこの島に移住してきてから長い歳月を経ていたことが示されている。用いていた器具が石器であったことは、もちろんである。


 日本民族の存在が世界的意義をもつようになったのは、今のキュウシュウ(九州)の北西部にあたる地方のいくつかの小国家に属するものが、半島の西南に沿うて海路その北西部に進み、当時その地方に広がってきていたシナ人と接触したことによって、はじまったのである。彼らはここでシナ人から絹や青銅器などの工芸品や種々の知識やを得てきたので、それによってシナの文物を学ぶ機会が生じ、日本民族の生活に新しい生面が開けはじめた。青銅器の製作と使用とのはじまったのは前一世紀の末の頃であったらしく、その後もかなり長い間はいわゆる金石併用時代であったが、ともかくもシナの文物を受け入れることになった地方の小国家の君主はそれによって、彼らの権威をもその富をも加えることができた。


 キュウシュウ地方の諸小国とシナ人とのこの接触は、一世紀、二世紀を通じて変わることなく行なわれたが、その間の関係は時が経つにつれて次第に密接になり、シナ人から得る工芸品や知識やがますます多くなるとともに、それを得ようとする欲求もまた強くなり、その欲求のために船舶を派遣する君主の数も多くなった。鉄器の使用もその製作の技術もまたこの間に学びはじめられたらしい。


 ところが三世紀になると、文化上の関係がさらに深くなるとともに、その交通にいくらかの政治的意義が伴うことになり、君主の間には、半島におけるシナの政治的権力を背景として、あるいは付近の諸小国の君主に臨み、あるいは敵対の地位にある君主を威圧しようとするものが生じた。ヤマト(邪馬台、今の筑後か山門か)の女王として伝えられているヒミコ(卑弥呼)がそれである。当時、このヤマト(邪馬台)の君主はほぼキュウシュウの北半の諸小国の上にその権威を及ぼしていたようである。


 キュウシュウ地方の諸君主が得たシナの工芸品やその製作の技術や、その他の種々知識は、セト(瀬戸)内海の航路によって、早くからのちのいわゆるキンキ(近畿)地方に伝えられ、一、二世紀の頃にはその地域に文化の一つの中心が形づくられ、そうしてそれには、その地方を領有する政治的勢力の存在が伴っていたことが考えられる。この政治的勢力は種々の方面から考察して、皇室の御祖先を君主とするものであったことが、ほぼ知り得られるようであり、ヤマト(大和)がその中心となっていたであろう。それがいつからの存在であり、どうして打ち立てられたかも、その勢力の範囲がどれだけの地域であったかも、またどういう径路でそれだけの勢力が得られたかも、すべて確かにはわからぬが、のちの形勢から推測すると、二世紀頃には上にいったような勢力として存在したらしい。その地域の西南部は少なくとも今のオオサカ(大阪)湾の沿岸地方を含んでいて、セト内海の航路によって遠くキュウシュウ方面と交通し得る便宜をもっていたに違いないが、東北方においてどこまで広がっていたかは、知りがたい。


 この地域のすべてが直接の領土としてはじめから存在したには限らず、あるいは、そこにいくつかの小国家が成り立っていたのを、いつのときからかそれらのうちの一つであったヤマト地方の君主、すなわち皇室の御祖先がそれらを服従させてその上に君臨し、それらを統御するようになり、さらにあとになってその諸小国を直接の領土として収容した、というような径路がとられたでもあろう。


 三世紀にはその領土が次第に広がって、西のほうではセト内海の沿岸地方を包含するようになり、トウホク(東北)地方でもかなりの遠方までその勢力の範囲に入ったらしく想像せられるが、それもまた同じような道筋を経てのことであったかもしれぬ。しかし具体的にはその状勢がまったく伝えられていない。ただイヅモ(出雲)地方にはかなり優勢な政治的勢力があって、それは長い間このヤマトを中心とする勢力に対して反抗的態度をとっていたようである。

 さて、このような、ヤマトを中心としてのちのキンキ地方を含む政治的勢力が形づくられたのは、一つは、西のほうから伝えられたあたらしい文物を利用するとこによって、その実力が養い得られたためであろうと考えられるが、一つは、そのときの君主の個人的の力によるところも少なくなかったであろう。いかなる国家にもその勢力の強大になるには創業の主ともいうべき君主のあるのが、一般の状態だからである。そうして険要の地であるヤマトと、豊沃で物資の多いヨドガワ(淀川)の平野と、海路の交通の要地であるオオサカの沿岸とを含む、地理的に優れた地位を占めていることが、それからのちの勢力の発展の基礎となり、勢力が伸びれば伸びるにしたがって君主の要望もまた大きくなり、その欲望が次第に遂げられて勢力が強くなってゆくと、多くの小国の君主はそれに圧せられて漸次服属してゆく、という情勢が展開せられてきたものと推測せられる。


 しかし三世紀においては、イヅモの勢力を帰服させることはできたようであるけれども、キュウシュウ地方にはまだ進出することはできなかった。それは半島におけるシナの政治的勢力を背景とし、キュウシュウの北半における諸小国を統制している強力なヤマト(邪馬台)の国家がそこにあったからである。

 けれども、四世紀に入るとまもなく、アジア大陸の東北部における遊牧民族の活動によってその地方のシナ人の政治的勢力が覆され、半島におけるそれもまた失われたので、ヤマト(邪馬台)の君主はその頼るところがなくなった。東方なるヤマト(大和)の勢力はこの機会に乗じてキュウシュウの地に進出し、その北半の諸小国とそれらの上に権威をもっていたヤマト(邪馬台)の国とを服属させたらしい。四世紀の前半のことである。そしてこの勢いの一歩を進めたのが、四世紀の後半におけるヤマト(大和)朝廷の勢力の半島への進出であって、それによってわが国と半島とに新しい事態が生じた。そうして半島を通じてヤマトの朝廷に採り入れられたシナの文物が皇室の権威を一層強め、したがってまた一つの国家として日本民族の統一を一層固めてゆくはたらきをすることになるのである。ただキュウシュウの南半、すなわちいわゆるクマソ(熊襲)の地域にあった諸小国は、五世紀に入ってからはほぼ完全に服属させることができたようである。東北方の諸小国がヤマトの国家に服属した情勢は少しもわからぬが、西南方においてキュウシュウの南半が帰服した時代には、それはすなわちほぼ今のカントウ(関東)からシナノ(信濃)を経てエチゴ(越後)の中部地方に至るまでである。


 皇室の御祖先を君主として戴いていたヤマトの国家が日本民族を統一した情勢が、ほぼこういうものであったとすれば、普通に考えられているような日本の建国という際立った事件が、ある時期、ある年月に起こったのでないことは、おのずから知られよう。日本の建国の時期を皇室によって定め、皇室の御祖先がヤマトにあった小国の君主にはじめられたとき、とすることができるかもしれぬが、その時期はもとよりわからず、また日本の建国をこういう意義に解することとも妥当とは思われぬ。もし日本民族の全体が一つの国家に統一せられたときを建国とすれば、そのおおよその時期はよし推測し得られるとしても、確かなことはやはりわからず、またそれを建国とすることもふさわしくない。日本の国家は長い歴史的過程を経て漸次に形づくられてきたものであるから、とくに建国というべきときはないとするのが、当たっていよう。要するに、皇室のはじめと建国とは別のことである。日本民族の由来がこの二つのどれともまったくかけ離れたものであることは、なおさらいうまでもない。


 昔は、いわゆる神代の説話に基いて、皇室ははじめから日本の全土を領有せられたように考え、皇室のはじめと日本全土の領有という意義での建国とが同じであるように思われていたし、近頃はこの二つと、この島における日本民族のはじめとの三つさえも、何となく混雑して考えられているようであるが、それは上代の歴史的事実を明らかにしないからのことである。


 さて、ここに述べたことには、それぞれ根拠があるが、今はそういう根拠の上に立つこの建国史の過程を略述したのみであって、一々その根拠を示すことは差し控えた。ところで、もしこの歴史的過程が事実に近いものであるとするならば、ジンム(神武)天皇の東征の物語は決して歴史的事実を語ったものでないことが知られよう。それはヤマトの皇都の起源説話なのである。


 日本民族が皇室の下に一つの国家として統一せられてから、かなりの歳月を経たあと、皇室の権威が次第に固まって来た時代、わたくしの考えではそれは六世紀のはじめの頃、において、一層それを固めるために、朝廷において皇室の由来を語る神代の物語がつくられたが、それには、皇祖が太陽としての日の神とせられ、天上にあるものとせられたのであるから、皇孫がこの国に降ることが語られねばならず、そうしてその降られた土地がヒムカ(日向)とせられたために、それと現に皇都のあるヤマトとを結びつける必要が生じたので、そこでこの東征物語がつくられたのである。ヤマトに皇都はあったが、それがいつからのことともわからず、どうしてそこに皇都があることになったかもまったく知られなくなっていたので、この物語はおのずからその皇都の起源説話となったのである。東征は日の神の加護によって遂げられたことになっているが、これは天上における皇祖としての日の神の皇都が『天つ日嗣』(アマテラスの系統の継承)を受けられた皇孫によって地上のヒムカに遷され、それがまたジンム天皇によってヤマトに遷されたことを語ったものであり、皇祖を日の神とする思想によってつくられたものである。だからそれを建国の歴史的事実として見ることはできない。


それからのちの政治的経営として『古事記』や『日本書紀』に記されていることも、チュウアイ(仲哀)天皇の頃までのは、すべて歴史的事実の記録とは考えられぬ。ただ歴代の天皇の系譜については、ほぼ三世紀の頃であろうと思われるスシン(崇神)天皇からあとは、歴史的の存在として見られよう。それより前のについては、いろいろの考えかたができようが、系譜上の存在がどうであろうとも、ヤマトの国家の発展の形勢を考えるについては、それは問題の外に置かるべきである。創業の主ともいうべき君主のあったことが何らかの形でのちに言い伝えられたかと想像せられるが、その創業の事跡は皇室についての何事かがはじめて文字に記録せられたと考えられる四世紀の末において、すでに知られなくなっていたので、記紀にはまったくあらわれていない。


 ところで、ヤマトの皇室が上に述べたように次第に諸小国の君主を服属させていったその仕方はどうであったかというに、それは相手により場合によって一様ではなかったろう。武力の用いられたこともあったろう。君主の地位に伴っている宗教的権威のはたらきもあったろう。しかし、血なまぐさい戦争の行なわれたことは少なかったろうと推測せられる。もともと日本民族が多くの小国家に分かれていても、その間に絶えざる戦争があったというのではなく、武力的競争によってそれらの国家が存在したのではなかった。農業民は本来平和を好むものである。この農業民の首領であり指導者でありある意味において大地主らしくもある小君主もまた、その生存のためには平和が必要である。また、ともすれば戦争の起こりやすい異民族との接触がなく、すべての国家がみな同一民族であったがために、好戦的な殺伐な気風も養われなかった。小国家が概して小国家たるにとどまって、甚だしく強大な国家のあらわれなかったのも、勢力の強弱と領土の大小とをきたすべき戦争の少なかったことを示すものと、解せられよう。キュウシュウ地方においてかのヤマト(邪馬台)が、付近の多くの小国を存続させながら、それらの上に勢力を及ぼしていたのも、戦勝国の態度ではなかったように見える。かなりあとになっても、日本に城郭建築の行なわれなかったことも、またこのことについて参考せらるべきである。


 皇室が多くの小国の君主を服属させられたのは、このような一般的状態の下において行なわれたことであり、皇室がもともとそれらの多くの小国家の君主の家の一つであったのであるから、その勢力の発展が戦争によることの少なかったことは、おのずから推測せられよう。国家の統一せられたあとに存在した地方的豪族、いわゆる国造、県主などの多くが統一せられない前の小君主の地位の継続せられたものであるらしいこと、皇居に城郭などの軍事的設備が後々までも設けられなかったことなども、またこの推測を助ける。皇室の直轄領やヤマトの朝廷の権力者の領土が、地方的豪族の領土の間に点綴して置かれはしたので、そのうちには昔の小国家の滅亡したあとに設けられたものもあろうが、よしそうであるにしても、それらがどうして滅亡したかはわからぬ。

 統一のあとの国造などの態度によって推測すると、ヤマトの朝廷の勢威の増大するにつれて、諸小国家の君主はその地位と領土とを保全するためには、自ら進んでそれに帰服するものが多かったと考えられる。彼らは武力による反抗を試みるにはあまり勢力が小さかったし、隣国と戦争をした経験もあまりもたなかったし、また多くの小国家に分かれていたとはいえ、もともと同じ一つの日本民族として同じ歴史をもち、言語・宗教・風俗・習慣の同じであるそれらであるから、新たに己れらの頭上に臨んでくる大きな政治勢力があっても、それに対してははじめから親和の情があったのであろう。


 また従来とても、もしこういう小国家の同じ地域にあるいくつかが、キュウシュウにおける上記の例の如く、そのうちの優勢なものに従属していたことがあったとすれば、皇室に帰服することは、その優勢なものを一層大きい勢力としての皇室に変えたのみであるから、その移り行きはかなり滑らかに行われたらしい、ということも考えられる。朝廷の側としては、場合によっては武力も用いられたに違いなく、また一般に何らかの方法による威圧が加えられたことは、想像せられるが、大勢はこういう状態であったのではあるまいか。


 国家の統一の情勢はほぼこのように考えられるが、ヤマトの朝廷の相手としたところは、民衆ではなくして諸小国の君主であった。統一の事業はこれらの君主を服属させることによって行なわれたので、直接に民衆を相手としたのではない。武力をもって民衆を征討したのでないことは、なおさらである。民衆からいうと、国家が統一せられたというのは、これまでの君主の上に立つことになったヤマトの朝廷に間接に隷属することになった、というだけのことである。皇室の直轄領となった土地の住民のほかは、皇室との直接の結びつきは生じなかったのである。


 さて、こうして皇室に服属した民衆はいうまでもなく、国造などの地方的豪族とても、皇室と血族的関係をもっていたはずはなく、したがって日本の国家が皇室を宗教とする一家族の広がったものでないことは、いうまでもあるまい。



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(津田左右吉)