< 仏教の四つの特色 >




 仏教にはいろいろな特色があるけれども、それを今一々列挙して論ずるの遑(いとま)を有して居られないけれども、下にその中の四つの特色だけを挙げて論ずることにしようと思う。


第 一


 仏教は複雑にして多方面的のものである。この点に於いては如何なる宗教も仏教に対しては比較にならないように思う。仏教は無神教とも云われて居るが、また汎神教とも云われて居る。いったい仏教は何方であろうか。根本仏教は無神教であったに相違無い。然し大乗仏教となっては余程汎神教というべきところがある。然らば汎神教は無神教から発達したのであるかと云えば、真の無神教ならば、それから汎神教は発達しそうにないけれども、然し無神教とは云うものの、仏陀の人格が霊的のものとなって、神格の性質を有するに至ったところから云えば、単なる無神教でもなかったのである。如来だの法身だのという点から云えば決して単なる無神教としてこれを見るべきではなかろう。それであるから、考えようによっては有神教とも云えないことはないのであるから、実に仏教は多種多様である。また或いは阿弥陀仏を立て、或いは大日如来を立て、或いはその他人格的の仏を最高と仰ぎ信ずる場合に於いては一神教の形式を取るようなこともあり、また無数の仏を尊信する場合は無論多神教と云うべきである。然しまた、禅のような立場から考えてみれば、一切偶像を焼き捨ててしまっても、仏教は決してその存在を失うものではないのみならず、却って生々として存在するようである。それから仏教には浄土門のような、他力教の方面もあるけれども、また聖道門のような自力教の方面もある。それからまた、俗諦門もあれば、真諦門もあり、なかなか複雑を極めたものである。但し仏教に於いてはキリスト教のように、造物者を立てないのである。造物者は仏教のどうゆう方面に於いても終に見出すことは出来ないのである。然しながら、如何なる宗教も仏教のように、多種多様の複雑なる性質を有していないと断言しても差支えないであろうと思う。



第 二


 仏教は哲学として意義深遠である。というのは仏教には宗教的方面があると同時に哲学的方面がある。宗教的方面は感情の要求を充たす為に必要であるが、哲学的方面は知識の要求を充たすために無かるべからざるものである。而してその哲学的方面は宗教的方面の基礎根柢となって居るのである。そういうわけで仏教は世界の凡ゆる宗教の中で最も深遠なる意義を有して居るものと思われる。ユダヤ教だのキリスト教だの、それからイスラム教だの、こういうセミチック系統(セム系)の宗教には元来哲学的方面が無い。これ等はいずれも純然たる宗教である。もしこれ等に哲学ありとすればそれは後から結び付いたものである。殊に中世に於ける教父哲学だの、スコラ哲学だのというのは、いずれもギリシャの哲学がキリスト教に結び付いたものである。元来キリストは仏陀の如き哲学者ではなかった。仏陀は哲学者にして宗教家を兼ねた人であった。ユダヤにはどう考えても哲学も無く、自然科学も無く、単に伝統的の熱烈なる宗教的信念のみが支配して居ったのである。キリストはそういう雰囲気の裏に成長して或る時期に偶然インスパイレーションを得た人で、純然たる宗教家であった。これらが仏陀と同一視すべからざる点である。ペルシャのゾロアスター教にもこれという哲学は無い。もっともゾロアスター教にはアフラマーズダーという善神とアーリマンという悪神との闘争を説き、最後にはアフラマーズダーが勝利を得て、燦然たる光明の世界に入ることになって居るが、その趣旨はスピノーザ倫理学の最後の所に於いて理性が感情を克服して純理性的の生活を実現するのを道徳的理想として説き、カントが宗教哲学に於いて、善が最後に悪に打勝って純善の世界となると見たのと同じで、余程哲学的の趣旨に合ったところがあるけれども、これを以て直ちに哲学とは云えない。道教には老荘の哲学があるけれども、然し老荘以後哲学的に少しも発展しないで、而して低級なる宗教的信念を以て満足し、寧ろ次第に堕落した傾向を免れないのである。ただしバラモン教は宗教と哲学とを兼ね有して居るものであるが、然しその哲学は仏教の哲学ほど深遠なるものではない。言い換えてみれば、バラモン教の哲学は確かに多大に仏教に影響したことは疑われないけれども、仏教はバラモン教より遥かに発達を遂げ、一層高尚深遠なるものとなったのである。



第 三


 仏教は包括的に極めて広大なるものである。キリスト教だのユダヤ教だの乃至イスラム教だの、ああいう宗教は唯一独自の神を立てて一切他の神々の並立を許さないで、余程狭隘なる態度を有し、而してなかなか排他的の感情が強大であるのである。ところが仏教はキリスト教に限らず他の宗教に対して、そのような拒絶的の態度を執らないのである。もっとも他宗の教理に対しては批判を加えるようなこともあるけれども、余程包括的の傾向が他の宗教よりは多大である。それ故に權田雷斧氏の如くキリストを曼荼羅の中に入れるようなこともするのである。それで、それに対して何ら異論も起らないというのは看過すべからざることである。然しながら、キリスト教の側では到底仏陀をその教理の中に編み込むようなことは出来もしないし、また許容もしないことは云う迄もない。キリスト教の方ではキリスト教のみを真の宗教として仏教その他の宗教を認めないのである。認めないというのは宗教として認めないのである。ところが、仏教の側ではキリスト教を宗教でないというような者は一人も無いのである。こういう点を見ると、仏教とキリスト教の差異の甚だしいことが明瞭になってくる。如何に仏教が包括的にして広大であるかということはこれ等の点から考えてみたならば少しも疑うべきではなかろうと思う。

 それからなお仏教の側から推して考えてみるとキリスト教に似たものが仏教の中にある。それは浄土教の阿弥陀仏尊信である。浄土教は他力本願であるが、キリスト教も他力本願である。キリスト教は違った形に於いて仏教の中に浄土教として存在して居ると云ってもよいくらいである。然しながら阿弥陀仏は世界の造物主ではない。キリスト教の神は造物主である。彼と此と固より同一視すべからざる点は種々ある。然しながら、キリスト教は仏教の立場から云えば小乗教である。何故そういうかなれば、人と神とを峻別して居る。人は神になることは出来ない、これが丁度仏教の側で云えば小乗時代に於いて、人は如来になることは出来ないと考えたのと同じである。それから小乗では差別対立を設けて、その所に止まって居る。これがキリスト教の未だ小乗の段階にある証拠である。浄土教は他力本願ではあるけれども、大乗である。何故なれば念仏さえすれば成仏が出来ると説くのであるから、その所は小乗と大変に違う。この様にキリスト教を小乗と見れば、大乗仏教より低級な宗教と見られても仕方は無いであろう。然しながらキリスト教は我が国に於いて仏教と接触して来たからには、更に進んで大乗の地位に至らなければならない。而して至り得らるる可能性があると思う。キリストは元と人であるけれども、それが一旦インスパイレーションを得て後神となった。少くも神と同じ性質を有するに至った。即ち神の子と称せられ、または神と聖霊とを合わせて三位一体と称せらるるに至った次第であるから、仏陀が人であったけれども、大悟徹底して如来となったと同じわけである。それだから、一転して大乗的キリスト教を生み出すべき可能性は充分あると思われる。キリスト教は寧ろ仏教の中に包括されもしくは仏教に影響されて、そういう新たなる発展の道を打開すべきではなかろうか。とにかく、キリスト教は仏教を取り入れることが出来ないにしても、仏教の中にはキリスト教を取り入れて包括することが出来るであろうと思われる。要するに仏教はそのように包括的にして、広大なものである。



第 四


 仏教は温和にして慈愛的のものである。仏教はキリスト教またはイスラム教に比して考えてみると、遥かに温和な形跡を存して居る。キリスト教も福音書によれば、立派な博愛人道の教で、而して無抵抗主義の考ではあるけれども、然し仏教に比べてみると遥かに峻烈峭刻の教である。抑々人はキリスト教に拠らざれば救われざるものと説いて、他の宗教に拠っても救われるということを認めないところに非常な相違がある。而してキリスト教の神のみが本当な神、即ちいわゆる真神で、その他の神または仏なんというものは総て嘘の神であるとし、宗教としても真の宗教は世界に於いて独りキリスト教あるのみと、こう初めから決めて来るのである。従って仏教のような大宗教も動もすればすなわち宗教としてこれを度外視するの傾向がある。が仏教の側ではキリスト教を宗教でないという者はかつてあったことが無い。キリスト教はかつてしばしば迫害されたけれども、またしばしば異教徒または異信者を迫害した悲惨な歴史がある。而して十字軍を始めとして、幾多の宗教戦をした形跡が歴史に記載されている。ところが、斯かることは仏教の側には殆んど全く無いのである。仏教の側に於いて、仏教の信仰の為に戦争を起した実例は自分の寡聞なる為めか、かつてこれあることを聞いた事が無い。仏教の如何に温和な宗教であるかということは古今の歴史が十分証明して居ると云ってよかろう。

 仏教はただ温和であるのみならず、温和であると共に慈愛的である。キリスト教ももとより博愛の精神を以て起っては居るけれども、仏教の博愛はキリスト教のそれより遥かに広大である。キリスト教の博愛は人類に限って居る。仏教の博愛は一切衆生に対するもので、生きとし生けるものは悉くその博愛の対象となって居る。即ち動植物までも博愛の範囲内に含まれて居る。キリスト教の側では動植物に対する博愛は説かれてない。これは世界は人間本位に作られたもので、人間の為ならば動植物もその目的の為に使用して差支無いと云うことになって居るからであるが、仏教の側ではここが大変違うので、凡そ生命ある者は皆殺すなかれという考で、『法華経』などにはしばしば「一切衆生ハ皆是レ吾ガ子ナリ」と説いてあるが、あれは根本仏教の精神であったに相違いない。儒教でも博愛の精神を以て仁を説き、ある程度まで動植物に及ぶのであるけれども、仏教の博愛はそれよりも更に広大なものである。その利害得失如何ということはしばらく措いて、兎に角最も広大な博愛を説いたのは諸宗教の中に於いて仏教を以て最も顕著なるものとするものである。







< 仏陀の平等主義 >



 一は、平等主義にして種姓の差別を認識せざる事。一は、国民的の性質を脱して普遍的の性質を有せる事、是れなり。釈迦はすでに平等的世界観を有するが故に、社会上に於いてもまた平等主義を把持し、バラモンが主張する如き、階級の差別を否定し、歴史的に成立せる種姓の制を一朝にして破壊せんとせり。およそ歴史的に成立せるものは容易に破壊し得られざれども、釈迦が意外にもその功を奏することの大なりしはよくよくまた以あるなり、如何にバラモンが勢力を有せるも数量上よりこれをいえば、他の三姓(バラモン:僧侶、クシャトリア:王族、ヴァイシャ:農商、シュードラ:賤族)はバラモンの上により、換言すれば、釈迦の平等主義は社会の最大部分に都合良き防御なり、彼等を苦難より救いだすべき唯一の警鐘なり。ヴァイシャ、シュードラはもちろんクシャトリアさえもバラモンに対して劣等と見なされたれども、釈迦の旗幟の下にありては皆バラモンと同等にして何等の差別もなし。特にシュードラは我が国の穢多の如くに賤視されたるに、今やこれをバラモンと優劣せざる一視同仁の大聖ありて学と不学との別なく、貧と富とを論せず、如何なる人も愛哀して誘掖(導き助けること)せざるなし。これに於いてか社会の最大部分は動揺し始め、遂に一大宗教を成すの端緒を開きたり。この点に於いてもキリストが貧弱を慰撫して強大を撃破せしを想起せざるを得ざるなり。しかれども釈迦が偉大の影響を後世に及ぼししは、またその普遍的の性質を有するによる者あるを忘するべからず。バラモン教は国民的なり、インドアーリアと称する血族の信仰にしてその血族と連結するものなり。換言すれば、バラモン教はインドアーリアの宗教にして、その儀式は独りバラモンの管轄に属す。これ故にインドアーリア以外の人にしてバラモン教を尊信すること甚だ謂われなきことなり。バラモンにしてバラモン教を脱して、仏教もしくは他の宗教に化宗せしものあるを聞く。未だ仏教もしくは他の宗教の信者にして、バラモン教に化宗せしものあるを聞かざるは蓋しこれが為なり。バラモン教はユダヤ教と相似たり。ユダヤ教もまたユダヤ人の血族と連結せる信仰なり。即ち国民的の性質を有する宗教なり。これ故にユダヤ教を脱してキリスト教に化宗するものはあり。未だキリスト教を脱してユダヤ教に化宗するものあるを聞かざるなり。バラモン教はユダヤ教と同じく国民的の宗教なるが故に、インドアーリアの血液ありて身体に循環し居るにあらざれば、これを尊信するを得ざるなり。これ故にインドアーリア以外にこれを伝播すること能わず。また何人もこれを伝播することの必要を見ず。この如くにしてその信仰はインドアーリアの区域内に限られるなり。然るに仏教は然らず。その普遍的の性質を有するを以ての如何なる国土にも伝播するを得べく、如何なる国民もこれを崇奉するを得べきなり。もし仏教が初めより国民的の宗教なりしならば、今日は殆んどその跡を滅せしならん。ただその国民的ならざりしが故に、チベットに支那にモンゴルに朝鮮に日本にタイにビルマにジャワに広く東方に伝播するを得たり。これまたキリスト教の普遍的の性質を有するの故を以て広く各国に伝播し、ユダヤ教の如く独り一箇の血族に限るものにあらざると相似たり。


 釈迦は特更にバラモン教に反抗するが如き狭少なる目的を有するものにあらざれども、自然バラモン教に反抗して起れるが如き形跡あり。釈迦彼自身の意志はしばらくこれを置き、そのクシャトリアの種姓に出でたるに拘わらず、ベーダに反せる宗教を唱出するが如き。すでにバラモン教に対する反応と見なすべきものあり。況やその惹起したる社会的の変動に於いてをや。然れども釈迦はかつて”パラシュラーマ”が21回まで、クシャトリアを殄滅せりと言い伝えるが如く、兵力によりてバラモンを圧倒せしにあらず。一切を同一視する絶大の平等的世界観によりてバラモン教と相容れざる一種の宗教を建設し、幾もなく無数の信者を得るに至れり。啻にクシャトリア、ヴァイシャ及びシュードラにして釈迦の教義に帰依せしものあるに止まらず。バラモンにして尚且つ新規の宗教に化宗せしもの、また少しとせず。この如き当時の情状なるが故に釈迦の出現はバラモンに取りては電気の打撃を受けたるより一層甚だしき激痛なりしならん。しばらく古伝説によりてバラモンはかつて釈迦以前に於いてクシャトリアの種姓に打勝ちしとありとするも、今や無形なる精神上の戦争に於いて彼等はクシャトリアの種姓より出でたる釈迦の為めに敗北せり。釈迦の勢力は日に月に強大となり、恰も崩氷の谷底に堕ちるが如く、これを防止するものなく、アショカ王の時に至りてその極度に達せり。バラモンが以前の勢力を回復して仏教の痕跡を絶ちしは実に紀元後9世紀の事なり。然れば彼等が百度皇張を試みて遂にその功を奏するに至るまで実に千数百年の久しきを要せり。然れどもバラモンが一たび釈迦の余勢をインドの中央に撲滅せりと知覚せるとき、釈迦の感化はすでにインド以外広く各国に普及し、バラモン教の到底匹敵し能わざる大勢力を世界に占有せり。




(井上哲次郎)