< 仏陀の清浄心眼 >




 仏国土は何れも浄土である。釈尊が住して教化せられる此国土は、釈尊の浄土である。然らば何故に此土を称して穢土と云い、また五濁悪世と称せられるか。それは濁悪凡夫に準じて見るから、穢土となり五濁悪世となるのである。もし夫れ仏眼に準じて見るならば、この土がこのまま常寂光の浄土となるのである。浄土もこのままこの土にある。穢土もこのまま此土にある。見る人の心に依て同一の土が異なって現われるのである。仏陀の清浄心眼に映ずる一切の世界は、何の汚穢も濁悪もない。一切皆浄化して清浄善美となるのである。濁悪凡夫の煩悩眼に映ずる一切の現象は、皆悪化せられて嫌悪恐怖の的となり、五濁五悪の現行と見えるのである。されば浄土と穢土とは自らの心にある。心清浄なれば獄裡も浄土となり、心不浄なれば楼閣天堂も穢土となる。外界に迷わされずに唯心に徹底して居れば、外界の真不真、善不善、美不美、浄不浄に拘わらず、一切唯心造なる真味を味わうことが出来る。


 上述した所に依って、浄土と穢土とは自分等の心に存在するものであって、別に外界に存在するものではない事が明らかになったと思う。然るに近頃我国仏教界に大いに噪(さわ)いでいる問題は、西方に極楽浄土がないとかあるとか云うことである。元来小説家の作ったユートピアに就いては、その存在の有無は論ずるに足らないものである。併し、それを論ぜねばならなかったのは、一方に大多数の人々が、その極楽浄土の実在を堅く信じていたからである。


 指方立相と言うことは、西方を指定してその方向に極楽浄土があると観じ、そこに阿弥陀仏の相好を建立することを云うのである。これは観無量寿経の説く所である。此経は無量寿経の小説的なるに似ないで、頗る合理的に観法的説かれている経である。この経の要領とも云うべき語は、諸仏正偏知海は心想より生ずとあって、強ち弥陀の浄土を外界にあるとしない。唯心の浄土、己身の弥陀、極楽はここを去って遠からず、心清浄なれば真に此土が極楽であるとしている。然らば何故に西方を指して極楽を観ぜしめたかと云えば、それは自心の浄土が解かるまで、仮に方便上西方を指して観ぜしめたままである。それで同経には去此不遠と説いて、学者を指導している。


 上述した所に依て観ると、無量寿経や阿弥陀経には此土を西方に去って、十万憶の仏国土を過ぎて、実在していると説いた極楽浄土は、観無量寿経には唯だ吾人の心想中に存するものと説いている。即ち吾人の観念中に現るる極楽浄土であり、阿弥陀仏であることを確説している。是れ恰も観経は無量寿経や阿弥陀経の荒唐無稽であることを、観法を以てそれを正道に救い出した観がある。それは何れにしても極楽は吾人の心にあって、西方には無いことを明示しているものである。


 これでも尚極楽浄土は心中には無くて、西方にあるかの様に思う者があるならば、如何に挙げる聖言を見て、了解徹底するが善い。それは仏が吠舎離国の菴摩羅樹国に於いて、宝積童子に十七種の浄土を説かれた。それが何れも心を浄土として挙げて居られる。


一、直心。

二、深心。

三、大乗心。

四、布施。

五、持戒。

六、忍辱。

七、精進。

八、禅定。

九、智慧。

十、四無量心。

十一、四攝法。

十二、方便。

十三、三十七品。

十四、廻向心。

十五、八難を除くこと。

十六、戒行を守ること。

十七、十善。


とあって一々皆菩薩の浄土であることを附言している。この聖言に依て心清浄に基因する諸徳の外に、浄土はないことを明らかに知るべきである。



仏陀の清浄心眼とは仏眼のことである。


仏陀に五眼あって、一に仏眼、二に法眼、三に慧眼、四に天眼、五に肉眼である。

肉眼とは肉身所有の眼にして普通の人の有するもの。天眼とは天人即ち神の所有する眼であって、人間界禅定を修めて得られる。遠近内外昼夜を問わず能く見ることが出来る。慧眼とは行者の人、真空無相の理を照見する智慧を云う。法眼とは菩薩が一切衆生を度する為に一切の法門を照見する智慧を云う。前記の四眼を一身に具有するを仏眼と名づける。前説の四眼も仏陀が有すれば、皆仏眼となるものである。




(河口慧海)