< 洗 浄 >


〜 父母の介護に想う 〜



 仏祖が護りつづけて来た仏道の修行と証契(さとり)とは、一体の清浄な解脱の体験である。


 南岳衡山般若寺観音院大慧禅師に、在るとき、六祖慧能禅師が

「仏道はどうして修行や証契をたよるのか」

と問うたのに、大慧はこれに応えて

「もともと修証は無いわけではないが、身心の汚れがあれば修証を得ることはできません」と返した。

六祖はこれを賞して続け

「それは諸仏が護持し、また念願された所である。汝もまた、私もその通りである。また、インドの諸祖たちもそのようである」

と。


 大比丘三千威儀経の記事に

「身を清浄にするとは、大小便を洗い清め、手の十指の爪を切ることである」

とある。

身心は「不染汚」であっても、身を浄め心を浄めるのが仏道である。ただ単に、身心を清めるばかりでなく、国土を清め、樹下をも清めるのである。国土は、未だかつて、塵に汚れたことはないけれども、清めることは、諸仏が念願された所である。諸仏は、仏道を成就されてからも、更に退くことも廃めることもしないで、精進するのである。その仏道の根本精神を推し量ってはならない。身心を浄める作法・礼儀が仏道の根本精神であり、逆に仏道を成就するには、作法・礼儀から出発する。


 華厳経・浄行品の文に

「大小便を行ずる時は、まさに願うべきである。衆生の汚れを除き去って、貪、瞋、痴なる三毒を滅尽せしめんことを、と。また、当に水で身心を洗浄する時は願うべきである。衆生をして、この上もないすぐれた仏道に入らせ、迷いの世界を解脱せしめんことを、と。また、心身の解脱の法は水を以て洗浄し衆生の為に願うべきである。あらゆる面に忍耐の身心を以て清浄なる解脱を現成せしめんことを」と。


 水は、必ずしも、もとから清浄であるのでも、また不浄なものでもない。自己の身体も、同じく、もともと清浄なものでも、不浄なものでもない。あらゆるものごともまたこのように、浄でも不浄でもないものである。水は有情のものではないし、無情のものでもない。自己の身体もまた、有情のものでも、無情のものでもない。あらゆるものごともまたそうである。仏世尊の教えはこのようである。


 然しながら、水によって、身体を清めるのではない。仏道によって仏法を保ちつづける所にこの威儀がある。これを「洗浄」というのである。仏祖の一身心をそのまま自己の身心として正伝するのである。仏祖の説く一句を身をもって見聞きするのである。仏祖の智慧の光明を、あきらかに永代に護持するのである。すべて仏祖の無量無辺の功徳を現成させることである。自己の身心に威儀による修行を体得した瞬間に、永久の仏行が自己の身心に円満に具足する。即ち仏道を成就するのである。だから、修行の身心、即ち仏身・仏心が、本来のすがたを現わすのである。


 十指の爪を切るべきである。十指というのは左右の両手の爪である。足指の爪も同じように切るのである。経典に「爪の長さが、一分ばかりになれば、罪となる」と記されてある。この故に、爪の長く伸ばしてはならない。爪の長いのは、外道に先例がある。特に、気をつけて、爪を切るべきである。ところが、いまの大宋国の僧の中で、参学の眼を具えていない人々が、多く爪を長く伸ばしている。ある者は、一寸、二寸及び、三四寸の長さの者もある。これは非法である。仏道参学者の身心を保持しないものであり、仏道を学習しないから、このような有様である。参学眼を得た有徳の僧は、そうではない。


 或いは、髪を長くしている僧もある。これも非法である。大国の僧のしていることであるから、正しい法であろうと誤解してはならない。先師、天童如浄禅師が、深く戒めの言葉を、天下の僧侶の中の、長髪・長爪の人々に、与えられて言われた。「浄髪即ち頭を剃ることを了解しない者は俗人でもなく、勿論僧でもない。これは畜生である。古来の仏祖で、一人として、頭を剃らない人があろうか。今にして、頭を剃らない者は、真の畜生である」と。このように、大衆に教示されたので、長い間頭を剃らない人々も、大多数頭を剃った。先師は上堂の時、或る時は普説(略式の説法)の時、弾指(親指を人差し指で鳴らす)して叱責せられた。「訳も解らないで、どうして、髪を長くし、爪を長くしているのであろうか。憐れむべきことである。この世界に身心を受けながら、その身心を道に外れたところに置いていることは、近頃、二三百年の間、祖師道がすたれた故に、このような人々が多いのである。或る者は、寺院の主人となり、或る者は、朝廷より賜わった禅師号を、大書したりして、衆生を教化するような顔をしている。人間界、天上界として、不幸なことである。いま、大宋国中、すべての諸山に於いて、求道心のある者は皆無である。従って仏道を得た者は久しく絶えている。ただ堕落した僧ばかりである」と。


 これに対して諸方の長老と言われた人々も、恨むことなく、反駁することなく馬の耳に念仏であった。知るべきである、長髪は仏祖の厳しく戒められている非法である。長爪は外道の行ずる所である。仏祖の子孫たる者は、これらの非法を好んではならない。身心を清浄に保つべきである。爪を切り、髪を剃るべきである。


 大小便を行じた後を洗うことを怠ってはならない。


 厠の中では、左手で入り口の扉を閉める。次に水桶の水を少しばかり便器の中に注ぐ、次に水桶を前方にある水桶をおく所に安置する。次に立ちながら、便器に向って三度弾指する。その時、左手は握って左腰につけておくのである。次に袴の口と衣の先とを握って、入口に向って両足で便器の上端の両辺を踏みうずくまって用を足す。両辺や前後を汚してはならない。この間、黙然としている。壁を隔てて談笑したり、声をあげて歌を唱ったり、詩を吟じたりしてはならない。鼻水を垂らしたり、唾を吐いたりして、あたりを取り散らかしてはならない。にわかに、力んだりしてはならない。壁面に落書きをしてはならない。便所のへらをもって地面に線を画いてはならない。用を足したならば、箆を使う。また紙を用いる法もある。古紙を用いてはならない。字を書いた紙も用いてはならない。未使用の箆と使用済みの箆とを区別しておく。箆は、長さ八寸で三角形、太さは手の親指大。漆塗や塗ってないものもある。使用した箆は、箆箱に投じる。浄い箆は、もとから、箆立てにあって、便器の前に置いてある。箆を使い、紙を使った後、洗浄する法は、右手に水桶をもって、左手をよく濡らしてから、左手を水をすくう形に作って水を受けて、先ず小便処を洗浄すること三度、次に肛門を洗う。定められた方法の通りに洗浄して清潔にすべきである。

 この間、水桶を荒々しく傾けて水を掌の外にこぼしたり散らして、水を早くなくしてはならない。


 清規には「もし法に契った洗浄をしないならば、坐禅の床に坐することも、仏法僧の三宝を礼拝することもできない。また他人の礼拝を受けることもできない」とある。三千威儀経には「もし大小便する処を洗わなければ、悪をなす罪を得る。また僧の清浄な坐具の上に坐して三宝を礼拝することはできない。たとえ礼拝しても福徳はない」とある。この故に仏道修行、功夫の道場では、必ずこの作法を第一に行ずべきである。三宝を礼拝せず、人の礼拝を受けず、人を礼拝しないのは仏道ではない。この故に仏祖の道場では必ずこの法儀がある。仏祖の道場中の人々は、必ずこの法儀を具足している。これは自ら強いて行ずるのではなく、この法儀の自然の働きである。諸仏が日常に用いられる働きである。諸祖師の日常生活そのものである。ただこの世界の諸仏だけでなく、十方世界の仏の働きである。仏の国土、この国土の仏の働きである。浅学の人々の思うのに「諸仏には、厠の作法などはなく、この世界の諸仏の働きは、仏国土の諸仏の通りではない」と考えるのである。こうした考え方は仏道の参学ではない。知るべきである、浄と不浄は、あたかも美しい桃花の紅のように無自性である。浄、不浄の差別は凡夫の差別観であって、仏知見によれば浄不浄はない。また、暖も寒も凡夫の身心による差別であって、仏祖には寒暖の別がないように、諸仏の家には必ず厠のあることを知るべきである。


 仏の厠の中の威儀は洗浄である。祖師から祖師へ相伝して来たのである。仏の威儀が、今なお残っていることは、古の仏則を模範として慶ぶべきことである。我々は逢い難い仏道に逢うことができたのである。ましてや釈尊は、恐れ多くも厠の中で羅候羅の為に説法されている。厠は仏の教えを説かれる道場の一つである。この道場の仏行が、即ち仏の威儀である。仏はこの威儀を仏に伝え、仏祖はまたその威儀を正伝して来られたのである。


 いま偉大なる師である釈迦牟尼仏の仏道が、広く全世界に伝わっているのは、仏心身の体験の現成である。仏身心の現成する、その時即ち洗浄の意義の現成である。





(「洗浄」道元)