< 慧能までは >


〜 如来禅と祖師禅 〜



 大体について云えば、印度仏教に於ける三学六波羅密中にある禅定は、如来禅であって、支那仏教に於ける教外に別伝する禅定は、祖師禅と名づけられる。如来禅の根源は根本仏教なる仏陀の行処、即ち三摩地(静観)から発している。祖師禅の根源は仏滅後菩提達磨が、支那に渡来した時から起こったものであって、祖師禅は印度には全くなかったものである。この祖師禅の名も達摩渡来後三百年を経た時、仰山禅師が初めて唱え出したことで、それまではその名すらなかったものであった。その語を用いた意に依ると、楞伽経に出ている如来禅を教内未了の禅とし、祖師禅を以て教外別伝至極の禅と云う義に用いたのであった。所が如来禅は釈迦如来根本の禅であるから、若し如来禅が未了の禅ならば、釈迦牟尼仏が仏陀となれなかった筈である。然るに釈尊は既に”アノクタラサンミャクサンボウデ”即ち無上完全円満の菩提覚道を成ぜられたのが、この禅定正観に依られたのであるから、この禅観を以て未了とすることは、絶対に出来ないことである。楞伽経釈に依れば如来禅は首楞厳定である。この禅定に依て法身、般若、解脱の三徳秘蔵の大涅槃を窮境して、無作の妙用を起す、外道二乗菩薩所得の涅槃に簡んで如来禅と云う。とあって仏教中最上の禅が如来禅である。この意義に於いて如来禅を伝えたのが、北宗の禅であって唐の道k禅師が来朝して奈良朝の行表に伝え、行表が伝教に伝えたのが、その後禅としては滅んで了った。現今遺っている禅は皆祖師禅の末流であって、全く支那で発達した宗である。併しこの祖師禅も南宗の祖である六祖慧能に至るまでは、その根拠は如来禅であって、祖師禅となる形式を有っていた。初祖達磨大師命終に臨んで、二祖慧可に告げて曰く、『ここに楞伽経四巻あり、如来の極談の法要なり。今汝に付す』と。表に教外別伝と云うて経教の執着を破したけれども、内に楞伽経を遺属して、その如来正嫡の禅なることを表した。


 又六祖慧能は金剛般若経の応無所住而生其心と云う文に依って、如来の正意を了悟し、以て仏心宗を発揚した。その弟子永嘉大師は證道歌を著わしたその中に、『頓に如来禅を覚了すれば、六度萬行体中に円かなり』と云うて、如来禅であることを表している。以上挙げた所を主として見れば、南宗もまた如来禅であったかの様に見える。けれどもその作用に至っては、如来の修学禅定の順序に依らず、碓房舂米を事とするが如き、また五祖弘忍が慧能に対する謎語的問答と挙動の如き、頓説頓行頓機頓入の如き、皆これ祖師禅の特徴を表している。仰山はこれ等の異点を捕えて祖師禅としたものであろう。如来禅を以て未了禅とするが如きは、如来禅の本義を全く知らざるか、或いは祖師禅を偏重するの余りに発したる暴言と言わねばならぬ。何故ならばその覚悟の真義に至っては、両者少しも異なる所がないからである。されば覚悟の真義は両者同一であって、その方法形式等に異点の存することは、上述した所で明らかになったと思う。





 支那成立の祖師禅が多分に如来禅の意義を有っていた間は、根本仏教の禅と一脈の相通ずるものがあって、尚且つ彼等は仏教の禅定を修めている者で、あると云うことが認められた。然るに仰山以後如来禅が未了禅であると貶せられ、祖師禅のみ賞揚せられてから後は、修禅の根拠となる戒行は無視せられ、また修禅方法の問題である法目は、仏陀制定の因縁、四諦、人無我、法無我、等を用いず、祖師禅僧の問答を考案として用いた。


例せば、

 僧、洞山に問う。如何なるか是れ仏。

 山、曰く、麻三斤。

 趙州、因に僧問う。如何なるか是れ祖師西来意(達磨が西の方から態々来られた御主意は何だ)

 州、曰く、庭前の柏樹子。

 後に開山和尚曰く、樹柏子の話に賊の機あり。と、

 趙州、一菴主の処に到て問う。有や有や。

 主、拳頭を竪起す。

 州曰く、水浅く是れ船を泊むる処にあらず。とて便ち行く、また一菴主の処に到て曰く、有や有や。

 主、また拳頭を竪起す。

 州曰く、能縦、能奪、能殺、能活。

 とて便ち体を作す。


 この様な話題が禅宗には一千七百もあって、これ等の謎的話題に心身を尽碎して、昼夜念頭を離さず、謎を解くに孜々として勤め、以てその意義を解する時は、その馬鹿らしさに自らを大笑し、或いは嘲笑して黄檗の仏法多子なし。即ち何んでもないとか、或いは本来このまま我は如来であったのだ。これまでそれを知らなかったのが馬鹿であったのだ。とて自己を笑い、それより後自ら大宗家となり、関将軍の大刀を掲げて、仏に遇うては仏を殺し、祖に遇うては祖を殺し、父に遇うては父を殺し、母に遇うては母を殺し、生死岸頭に大自在を得て、仏祖を超越すると云うやり方が、祖師禅即ち支那で出来た禅宗である。この禅宗に於いて仏陀の説法は現在何と説くかと問うならば、答えは雀チューチュウ、烏はカァカァ、猫はニャンニャン、犬はワンワンと得意に答える。また清風颯颯、渓流潺潺、暴風轟轟、波浪澎湃。これぞ諸仏の説法なると宣言する。もし人あり、十方の諸仏は現在何処に在ると問わば、張三李四熊公八公、森羅万象山河大地と答える。

 前記の問答に於いて、祖師禅が謎語解説的であり、また奇行判断的であり、また突飛的であるかは明知せられたと思う。そうしてその覚悟せられたる真義が、全く根本仏教の主旨に背反したる萬有神教の主義になり了われるかを知ることが出来る。現代の禅僧は平然として、山河大地は是れ我浄土、賢愚正邪は是れ善知識と言う。是れは仏菩薩にして言い得る語である。即ち清浄なる道徳を具えた仏菩薩の心には、穢土も浄土と化成表現せられ、賢愚正邪も皆善知識と変成攝得せられる。けれども現代禅僧の如き酒を飲み肉を食い、甚だしきは婬楽を貪り、名利を欲するが如き凡人にして、是の如き聖語を発するならば、その語の真義が消滅して、全く邪義を表す語となる。それは彼の住む山河大地は、彼の不浄なる欲楽を恣にする為の地なれば、浄土ではなくして穢土であり、彼自らは有我妄見に住すれば、彼は接する程の正人賢者に捨てられ、彼に親しみ近づく者は邪見者愚人なるが故に、常にそれ等の邪見愚輩のために苦しめられる。仮に彼等にして快楽に住する如き状にあるも、その快楽は酒食婬欲を主とする瞬間的、敗徳的、放逸的のものである。でなければ禅的誇大妄想狂が自ら仏祖以上に超越したりとして、大言壮語以て自ら狂的快楽を恣にして、自ら愉悦するが如き者などである。

 このような情態が現代祖師禅の一部の実情である。尚この外にこの実情より禅定として極度に恐るべき害毒中に陥っている者は、野狐禅、説禅即ち解謎禅、売禅の実境である。




(河口慧海)