< 善と悪について >


〜 エーリッヒ・フロム 〜








 悪ということは特別に≪人間的≫現象である。悪とは人間以前の状態に退行し、特に人間的なるもの、すなわち理性、愛、自由を排除しようとすることである。しかし悪は人間的であると同時に悲劇的でもある。たとえ人間が最も原初的な経験形態へ退行しても、人間は人間であることを中止することはできない。それゆえに人間はひとつの解決法として、悪に満足することは決してできない。動物は悪になりえない。動物は生きるために根元的に必要な生来の衝動にしたがって行動する。悪ということは、人間的なものの領域をこえて、非人間的な領域へ移ろうとすることであるが、人間は「神」になり得ないと同様、動物的にもなりえないから、悪は非常に人間的なものである。≪悪はヒューマンなるものの重荷を逃れようとする悲劇的な試みにおいて、自己を見失うことである≫。かくて悪のもつポテンシャルは悪に対するあらゆる可能性を想像せしめると共に、それに基づく欲望と行動を起こさせ、悪の妄想を育てる想像力を人間に付与するが故に、ますます増大してゆくのである。ここで示されている善と悪についての観念は、本質的にはスピノザが示したものと同じである。「そこで私は以下において、善とはわれわれがわれわれの形成する人間性の形(スピノザは人間性のモデルともそれを呼ぶ)に、ますます近づく手段になることを、われわれが確知するところのものであると解するであろう。これに反して悪とはわれわれはその型に一致するようになるのに妨げとなることを、われわれが確知するところのものであると解するであろう」。スピノザによれば、論理的には「馬が人間に変化するなら、それは昆虫に変化した場合と同様に馬でなくなってしまう」。善はわれわれの存在をわれわれの本質へ限りなく近接させ、悪はその存在と本質とをたえずひきはなすことになる。




 悪の程度は、同時に退行の程度でもある。最大の悪とは生に最も逆行しようとすること、すなわち死に対する愛好、子宮、土壌、無機物へもどろうとする近親相姦的共生の努力であり、また自我(エゴ)の牢獄を離れないために、その人間をして生の仇敵たらしめるナルチシズム的な自己犠牲のことである。こういう生き方は「地獄」の生き方である。




 退行の程度が減少するにつれて、悪もまた減少する。愛の欠如、理性の欠如、関心の欠如、勇気の欠如が悪には存在する。




 人間は退行≪ならびに≫前進の二傾斜を共有する。すなわち善にも悪にもなりうるということである。この二つの傾斜がある平衡を保つ間は、意識をもちかつ努力することによって、かれは選択の自由をもつ。自らの置かれたトータルな立場によって、自らを決定づける二者択一の中の選択は自由である。しかし、二つの傾斜の平衡が失われると、その心情は硬化し、かくてかれにはもはや選択の自由はなくなる。自由の喪失に結びつくような出来事は継続すると、最終的決定なるものは、一般にもはや人が自由に選択したものではない。すなわち最初の決定において、自己のその決定が有する意味に気づきうるならば、善にいたる選択に自由であり得たであろう。




 人は自己の行為を自由に選択しうるという意味において、責任を有する。しかし責任とは一つの倫理的仮定であり、権力を有する者が他人を罰そうとする欲望の合理化にすぎぬことが多い。悪とは人間的なるものであり、退行のポテンシャルであり、ヒューマニティーの喪失であるがためにこそ、われわれのすべての者の内部に存在する。われわれがそれを意識すればするほど、われわれは他人を裁くことはできなくなる。




 人間の心情が硬化すると、非人間的になりうるが、人間でなくなることは決してない。人の心情は依然としてのこる。われわれはすべて、人間として生まれてきた事実、ならびにそれ故に選択を行わねばならぬという、決して終わることのない仕事によって決定づけられている。われわれは目標と同時に手段を選択しなければならない。われわれは誰か他人の救いを待つのではなく、間違った選択は自らを救済することはできないという事実に、よく気づかなければならない。

 事実、われわれは善を選択するためには、意識しうるようにならなければならなぬ・・・しかし万一、われわれが他人の不幸に、他人の親しい眼差しに、小鳥の歌に、緑の草木に感動する力を喪失してしまったならば、いかなる意識をもってしてもわれわれは救済されないであろう。もし人が生に無関心となれば、その人はもはや善を選択しうる希望はないのである。事実このような時には、その人の心はあまりにも硬化してしまっているために、その人の「生」は終わりを告げていることとなろう。もしこのような事態が、全人類ないしはその中の強力な成員におこるような事態が発生すれば、人類の生命はその偉大なる約束を果たすべき、まさにこの瞬間、絶滅することになろう。




 仏陀は人間をなやませる原因は煩悩であることを知っていた。かれは人間が煩悩と苦悩にとりつかれ、輪廻転生の鎖につながれたままであるか、煩悩を振り払い、苦悩と転生を終えるかのいずれかを選択せしめるようにした。人間はこの二つの現実的可能性から、そのひとつを選択することができる、それ以外には人間に役だつ可能性なるものは存在しないのである。