< 美 の 領 域 >


〜 アリストテレス 〜








 自然によって存立する実体には、永遠に不生不滅のものと、生成消滅の与かるものとある。 かの崇高で神聖な存在(天体)については、我々はかえって不完全な考察しかできない定めになっているが(全くのところ、それらを調べる手がかりになることや、われわれが知りたいと願うことで、感覚的に明瞭なのはごく僅かであるから)、生滅すべき植物や動物については、それらがわれわれと共に生育するものであるために、認識の手段はむしろ豊富である。 すなわち、充分な努力さえ惜しまなければ、どの類についても多くの事実を把握することができるであろう。 しかし、学ぶ喜びはどちらでも同じことである。 なぜなら、永遠の事物は、たとえほんの僅かしか理解できないとはいえ、これらを認識するのは崇高なことであるから、われわれの周囲のいかなる事物を研究することより楽しいのである。 ちょうど、われわれの好きなもののどれか一小部分を眺める方が、他の大きなものを沢山とって詳しく調べるのより楽しいように。 一方、われわれの周囲の事物では、より正確に、より沢山知っているということが科学の対象としての長所であり、さらにまたわれわれにより近く、われわれの性質により親しいという点で、神聖な事物に関する哲学と或る程度釣り合いがとれているのである。 しかし後者については、われわれの推測できるかぎりを述べて、一応すませておいたので(天体論)、残るところは動物界について述べることであるが、下等なものであろうと高等なものであろうと、何物をもできるかぎり無視しないつもりである。 というのは、感じの悪い動物でも、それを観察するということになると、造化の自然は、原因を認識しうる人々や生まれながらの哲学者たちには、いいしれぬ楽しみを与えるものだからである。 われわれが動物の姿を見て喜ぶのは、そこに現われた、絵画や彫刻のような造形技術をも同時に見るからで、自然のままの動物そのものを観察するのは、その原因がよく分かるばかりに、かえってそれほど好ましくはない、などというのは実に不合理で、おかしなことである。 であるから、下等動物について調べることを、子供みたいにいやがってはならない。 実際、どんな自然物にもきっと何か驚くべきことがあるもので、ちょうどヘラクレイトスが客人たちに言ったと伝えられるように(その人たちは彼に会いたいと思って来たわけであるが、中に入ってみると、彼は台所のかまどの前で暖まっているところなので、どうしたものかと立ち止まったのである。 すると、『いいから中へお入りなさい。ここにだって神々はおいでなさるのだから』とすすめたそうである)、われわれもためらわずどんな動物の研究にも向かわなければならない。 そうすればどんなものにも何か自然で美しいものが認められるであろう。 というのは、自然物には偶然性でなく一定の目的性が、しかも最も良く認められるからであって、その存立や生成の目的は美の領域に属することである。



〜 「動物部分論」より 〜






オグル博士宛書簡(1882年2月22日)

 「それまでに見た引用から、わたしはアリストテレスの功績を高く評価していましたが、しかしかれがどんなに驚嘆すべき人物だったのか、いささかも思い及ばずにいたのです。 リンネとキュビエの二人は、それぞれたいへん違った意味においてですが、わたしにとって神でありました。 しかし老アリストテレスに較べれば、この二人はただの生徒にすぎません。 それにまた、運動の道具としての筋肉に関する場合のような幾つかの点で、かれの無知はなんと奇妙なものでしょう。 あなたが、かれのせいにされてきたもっとも甚大な過誤のいくつかを、非常にもっともなやりかたで説明してくださったのを嬉しく思っています。 あなたのご本を読むまでは、われわれのありふれた知識でさえ、いかに膨大な労力の集積に負っているのか、まったく理解しておりませんでした。」 byダーウィン