仏陀の理想



 仏陀の説法行化を見れば本質的に悉有佛性の予想の上に行動して居ることは明白である。殊に仏陀自身が少なくともその成道以前に於いて、自らを以て一種超人的な全く他と異なった本質を有すとし、衆生がその性質上成就し得ざるものをも成就し得たものと思惟した如きことは到底想像せられ得ることでなく、全く人として他のものと同性であり、その成就し説教する法は自ら体験したそのままを何人も同一に体験し得と確信して行化したに相違ないこと殆ど論ずるまでもないと信ずる。そして此の如き方面から仏陀の有せし理想を考えて見れば、予が既に『根本佛教に於ける僧伽の意義』に於いて詳しく論述した如く、全人類がもしくは全衆生がすべて真の人としてまたは真の衆生として、各そのところを得て正しく生存するようになる理想の世界を現実化せむとするにあると約言し得る。然し今いうた如く衆生を凡て本質上のみから観察をすれば、後の大乗仏教の多くがいうが如く、一歩を進めて衆生は凡て真の人として生存して居るし仏陀となって居る、いや真の人であり仏陀であるとなすことも理論上当然成立する説であり、またその本質そのものの上から現実の方を見て来れば、現実のままが既に理想の現実化せられ居るものに外ならないと論ずるに至ることも出来るのであるから、仏陀自身に於いても現実化せむとする理想の世界をこの現実界と全く異なった従って遠く別の所にあるものと考えて居るのではない。吾々の日常生存に即した理想を説くのであって、むしろこの現実界を理想化せしむとするのである。従って吾々が凡て仏陀の教えに従って真の人として生存せむと努力しつつあるもののみとなれば、これ即ち仏陀の理想の世界の実現したのであり、この現実界の理想化したのである。必ずしも凡てが真の人となり終った後を待つを要しない。故に吾々が今真の人として生存せむと努力することはそのまま仏陀の理想の現実化に外ならぬといわねばならぬ。此の如き点から見れば仏陀の理想は、たとえそれが実現せられても、決して凡てが休息終始の状態に帰するのではない。もちろん仏陀にあっても飽満休息はない理である。


 然しながら現実に直面して考えれば、吾々としてはかかる理想を実現し得ることは到底不可能であるのが現実の状態である。もちろん実現すればそのまま仏陀であるが、それに至るまでは、よしんば実現化の過程の中にあったにしても、なお且つ仏陀ではないのであるから、凡夫としての衆生たるを免ることは到底出来ぬ。実現化の過程の上にあることは初め仏陀に対する信仰によってその教えを奉じてその如く行ずるのであるから、仏陀の教えの基たる菩提または三菩提が吾々の目的因となって一歩一歩それに近づきつつあることを意味するし、この点から完結満了した状態に於ける理想を想定することになるのである。これは吾々の人類の要求上自然のことであって、動きつつある努力を考える以上は到達し終わった静止急速の状態を要望して止まぬのである。故に仏陀に於いてその凡ての完了飽満の状態を考えることは自然の数である。この要求を基として推して考えて行けば、仏陀はどうしても通常人とは全く異なったものとせねばならぬことになるのが理論上の帰結である。従って動き努力をなす仏陀を説こうとするときは済度すべき衆生界は尽きることなく無限であるから仏陀の大悲も無限であるというて解釈するのが後の大乗仏教の通則となって居るが、阿含に於いても既にその考えであることは成道以後説法を躊躇しさらに説法行化するに思い返したとせられて居る所に現われて居ること前に論じた如くである。この考えは如何にも一度満了休息の状態を考えた上強いてその中に動の考えを附け加えて考えたと思はしむるものであるから、この点に於いて特に仏陀の理想の性質が静止でなくして生々活動であり、その性質上から動が由来するのであることを明記して居ることが必要である。故に仏陀の説くものは生々活動を理想とするものであるが、吾々の考え方の性質上これを完了した静止的のものに考浮べて居るのである。この中生々活動の方面を抽象し、そして衆生の本質が仏性でありその点のみでは仏陀と異ならないという見方と結び付けて考えれば、吾々が理想の現実化の過程の上にある努力活動も、動としては、仏陀の動と全く異なるものとはいはれないことになる理である。この方面から衆生が修行によって凡て仏陀となり得ることに対する根拠が得らるるのであるが、これに現実の方面を見ることが結び付けば、衆生としては吾々は仏陀より遥かに遠くそして理想は完了静止と考定され、仏陀はそれを実際に実現した特別のものとなり、この方面で成道は法の成就、法との一致といはるることになるのである。この如く理想を凡て完了飽満の静止状態と考えることは勿論もともと吾々の要求的の考え方の上でいうのではあるが、然し今仏陀を歴史的人物として見る上からいえば、仏陀にもまたこの人類共通の考え方があると見ねばならぬから、以上のことがそのまま仏陀自身の考え方の上にも適用さるることになる。然るとき初めて進んで仏陀自身が静止的状態と考える理想が如何なるものであるかの研究に入り得るであろう。この問題は実際に於いては不可能なことである。仏陀の言としてその意味をそのまま表して居る如きものは何処にも伝わって居らぬから、どの点から言っても推論以外に方法はなく、従って凡て根本仏教の思想と考えらるるものを取って進んで論ずるのであるが、それすら精々直接の弟子の見た所と考えられ得るものに基く外はない。かかる意味で先ず涅槃についての方面からいうと、根本仏教の考えた涅槃については予は既に多少論述して愛尽苦滅いはるるを自律自主自由の心地と解し、経験的個人性を征服して一種超人的となったものと解した。なおこれを多少分っていえば下の如くなる。涅槃を道徳的方面から見るときは、実はこれを超善悪となすべきである。阿含に於いては後の佛教と同じく、善悪のことをいう際にはこれを善悪無記の三に区別するのが通例になっている。恐らくこの三分法は苦楽捨の三分法に準じていはるるに至ったものであろうと思うが、捨は不苦不楽の謂いであって、実際上から見れば単に概念上考えられたことに過ぎないものであろう。実際生活上では、恍惚の状態でも考えて見るでなくば、不苦不楽の感覚知覚のあるべきことは信ぜられないことである。しかし印度では禅定瑜伽の修行が盛んに行われ、その入観に於いて捨の状態を認めることになったのである。これも入観中のある状態を概念上で考え実際生活上のことを基とし類推によって不苦不楽と名づけるに至ったものと考えられるが、禅定瑜伽を重んずる以上は捨を認めざるを得ないのは因襲上止むを得ぬ。この捨から例して無記も認められることになったのであろう。そして善悪の区別には必ずその標準がなければならぬことはいうまでもない。佛教としてはその標準は第一に涅槃に関係せねばならぬであろうが、多くの場合には行為動作の果報または結果を基として区別するのが通常である。然し仏陀は全く当時の耆那教邪命外道の如く結果論を取ることなく純粋に動機論にのみ立って居た説の人であるから、結果から判ずるのは単なる便宜に過ぎぬ。後世になっては却ってこの方を主となすが、然し仏陀の場合としては涅槃を以てのみ、標準となすべきで、この点からいえば無記の如きは認められざるもの、もし存すとするもそれは善悪判断の対象とはならないか或は異なった標準によっていはれて居るかに過ぎないものである。故に三分法はこの際二分法に見るべきである。そしてまたこの善悪はものの本質をなすのでなくして全く相対的であり関係的であり、従って真の善は層々高きに上って行っていはれ得ることになるのである。この故に涅槃を愛尽といえばとて決して単なる善のものということは出来ぬ。恰も苦滅というからとて直に涅槃を楽のものとなすことが出来ず、而も通例楽となして居るのは、現実を苦なりと強くいう為にその反対語を以て理想を言い表した便宜上の語であって実は超苦楽または最高絶対楽の意味であると全く同じく、涅槃は超善悪または最高絶対善といはねばならぬものである。阿含に於いては涅槃を善の方面から呼ぶことは楽の方面から呼ぶ程に数々ではないが、凡ての煩悩無明漏の滅尽となすことは殆ど常であるから、涅槃は極致の善で、仏陀は最高絶対の善の体現者即ち一切の勝者である。また涅槃を知識的方面のものとして考えれば全く超知識的である。知識はもちろん根と境との対立接触から生ずるものであって、従ってその能力は相対界に限られている。根境識の三和合が触で、触に縁りて苦楽捨の三受が生ずるのであるが、苦の超絶が涅槃であると同じように、知識を超絶した所に涅槃を考えるのが当然である。故に涅槃の言顕はさるる場合は消極的の言辞を以てせられ、識の滅とも称し、そこから進んでは凡ての色身四大その他のものの滅とまでいはれて居る。然し識は詳しくは六識と統一的識との両方面が考えられて居り、識の滅という場合は主として六識の方面でいうのであるから、他の統一的識までをも同時に直に滅ということにはならぬといはねばならぬ。これよりこの統一的識を以てそのまま涅槃に配当し得というのではないが、それの根源的な基礎的なものを以て涅槃を写象せんとするのである。この点から涅槃を前に準じて超知識または最高絶対知と呼んでよいであろう。涅槃を知的方面で言顕わすにその異名として常に證智三菩提即ち正覚などが用いられるから、三菩提または単に菩提を以て最高絶対知と見た涅槃となしても差し支えないであろう。かくして涅槃は極致の知で、仏陀は最高絶対知の智者である。既に涅槃が最高絶対の善であり知であり、仏陀がかかる善及び知の体現者ならば、仏陀の理想は先ず最高絶対の善と知との体現者であることは当然である。


 仏陀の説く法は所謂縁起を見るものは法を見る、法を見るものは縁起を見るとなす法であり、これあるとき彼あり、これ生ずるとき彼生じ、これなきとき彼なく、これ滅するより彼滅すと定義せらるる法であって決してブラフマンと同一概念のものでない。


 この縁起の法というのが仏陀の根本思想であり、成道によって悟った内容を言い顕わすものなることは経律中に於いて古い偈文から見ても散文から見てもその他仏陀の説く諸説の根拠的思想から見ても疑いない所であって、凡てのものが実践躬行を俟って皆仏陀と同じ最高の人格となり得ることを説くことの出来るのも全くこの説によるのである。この理法の成就を法の成就というのであるが、この際成就の意味は、諸の如来の出世不出世に拘わらずこの理は定まれるものといはるるにても知らるる如く、決して仏陀が成立せしめたとか創造したとかいう意味でなくして、全くこれを理解し心證し体験した意味である。既に心身の上にこれを全露することになるから法との一致ということになるのである。然し縁起の理法は一切に亙って居るから吾々と雖それによって支配せられて居ること仏陀と何等異なる所はない。吾々自身がこのことを意識するとせざるとで相異を来たすのでないから、仏陀の理想とした所はこの縁起の理法を成就しこれと一致合体したものであったと考えられる。縁起の理法が一切に亙って一として縁起の法ならざるはなしという考えはもし自己が自己を中心として凡てを見るときは一切は凡て自己の中に包括さられて居るとなす考え方となるものである。勿論同時に他の何れかのものを中心として見れば一切のものは凡て、自分と共に、今他の何れかのものと指した中に包含せられて居ることになる。故に自己を中心とするという自己はどうしても現実の個人的の吾々自身でなくして超個人的の自己、吾々に本来具足せる本質的自己でなければならぬ。従って縁起の法を成就しそれと一致するというはこの超個人的自己となり本質的自己に還った謂に外ならぬのである。この如き超個人的を善悪の方面で言えば超善悪と言わざるを得ぬことになるし、知識の方面から見れば超知識であり、これを最高絶対善最高絶対知と言い現すことになる。そして既に本質的自己となす以上これを体現者体得者と人格的に言うに至るのも自然のことであろう。殊に仏陀の説は凡て実践躬行によって自らそれを得ることを根本とし、決して空に理論を説いてそれで満足するとなす点がないから、この実践躬行を主とする要求上人格的に見るに至って居るのである。無論人格的に呼ばねばならぬことの必要なき場合には人格的にいうことはないが、仏陀の説の性質上多くの場合に人格的に見られて居ると思う。故にこの点から仏陀の理想はつまり理想的仏陀であるといえる。



(宇井伯寿)