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自性清浄心
< 梁 楷 >
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自性清浄心
般若皆空の最後は自性清浄心を明かにするにあると言われて居るから、結局、一切が自性清浄心に立って成立するに至るのである。此の如く見れば、空は否定の意味であるとなすも、その否定は、否定一般の意味とは、必ずしも、同一ではないと言わねばならぬであろうし、結局、肯定となるのである。蓋し、実有に対して空となすのは、対象化せられたものを、根本の実体観の主観の方に攝め込むのであり、空亦復空となすのは、実体観の主観を、一切は心の現れと見る場合の心に、融没せしめるのである。この心が、即ち、自性清浄心に外ならぬのである。
然るに、自性清浄心の現われが一切であるならば、何故に、現われた所に、清浄ならざる醜悪染汚が存するかが、問題とせられるであろう。然し、自性清浄心から眺める場合には、それが徹底的である以上は、善悪美醜などの差別相のあるべき道理はない。差別ありと見るは差別的見方から見たものに過ぎないことであって、自性清浄心は、決して、差別的のものではない。故に娑婆即寂光浄土であり、煩悩即菩提である。更に、又、自性清浄心は、如何にも、吾々の日常心の根柢中心に存する微細脆弱な核の如き心であると考えられるかも知れぬが、決して、そうではない。自性清浄心が種子として存し、その内から、一切を発生せしめる如くに考えるのではない。かかる考えは佛教中の、極めて、一小部分のものの説く、而も、權教たるものに過ぎないから、佛教一般として言えば、かかる意味で、心が一切として現われると説くのではない。故に、自性清浄心は、決して、これを微細なるものと見るべきではなくして、却って、極めて大なる、そして、一切はその中に含まれているものとなすべきである。一切は、自性清浄心という大海の上の、それぞれの小波浪に過ぎないものである。教えとして説く場合には、波浪が水を含むともいえるに例して、吾々の心の中に、自性清浄心なる核があるとも言うが、実際としては、かかるものではない。故に、一切は、触処触処、頭出頭没、自性清浄心ならざるはない。即ち、有に対して空となし、これを実体空となすに対しては空亦復空となし、内外一切空空となるとき、これが真空で、真空は妙有であるから、その妙有の上を、自性清浄心となすに外ならないのである。真空妙有は、有には相違ないが、不思議であり、妙である有であるから、実体視せられた有ではない。実体観からは、これを思議することが出来ない点で、不思議であり、妙であるとなすのである。真空妙有は、又、即ち、諸法実相で、中、又は中道である。故に、一切は中道に外ならない。中は、真中、又は、中庸、ではなくして、両端、反対、矛盾、一切を総統して含んでいる絶対である。この中が、又、即ち、自性清浄心である。我空法空の意味は此の如きものとなるのである。
(宇井伯寿)
独り坐禅
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