<仏教の神様と悪魔>



 悪魔と云われる以上、また宗教的善に反する行為を勧めるものである以上、悪そのものであることは云うまでもありません。しかしながらキリスト教に見るように善と悪との対立、神と魔の対立の上から来たるものではない。それであるから悪そのものを意味するものではない。この点は仏教を味わう上に於いて非常に大切なことであって、仏教では単なる悪、単なる善を認めない。所謂善悪ももと不二であって、離れたものでないと教えるのであります。このことは追々に味わわれ進むことでありましょう。しからば仏教の悪魔とは如何なるものであるか。この悪魔の性質を知るについて二方面があって、第一には仏教の世界観的方面から見、第二には、精神的方面から見るのであります。


 まず第一に仏教観的方面から見ると、この悪魔のことを、第六天の魔王と云うてあります。天と云うことは神と云うことであって、悪魔は即ち神様であり、しかも勝れた神様であって第六天と云うは下から数えて第六番目の神様と云うことであって、四王天、功利天、兜卒天、夜摩天、化楽天のその上の他化自在天がこの悪魔です。他化自在天と云うのは、化楽天が自由に自分の世界を作り出して享楽し得る神様であるに対して、自由に他人の作り出した世界をも享楽し得る神様の謂いであります。他人の化作したもの、作り出したものを自分で自由にする神様の謂いであります。この喩えはよく当たらないかも知れないが、芸術家が苦労して芸術品を創作するのは自化であって、それを、その芸術品を他人がよいな!と享楽するのが他化自在であります。そういう自在の神様であります。しからば何故にこんな勝れた神様が悪魔と云われるのであるかと云うと、この神様の支配する全体の世界、その中には我々の世界も含まれているのでありますが、この全体の世界はみな欲の支配を受けている、欲に動かされている世界である、それで欲界と云われるのでありますが、我々は総て欲の支配を受け、欲に動かされ、欲の奴隷である意味に於いて欲界の一人であり、この第六天の支配下に居る臣下の一人であります。もし我々が素直に欲に動かされて苦しんだり悩んだりして居れば、我々の大王である神はそれで満足しているのであるが、一度この欲の生活に反省が動いて、この欲のすがたに眼をさまし、欲に動かされない生活に入ろうとすると、それは大王に対する反叛となるところから、ここにその大王の神は全力を尽くしてそれを妨げ、欲の支配下に引き戻そうとするのであります。欲に対する反省、欲からの解脱を善として、この善に対しての反対の力をここに悪とし悪魔とするのであります。


 これが仏教の悪魔の正体であります。それでありますから釈尊のみならず、釈尊の御弟子にしても、また今日の我々にしても、欲望生活に対する反省から、解脱を求めようとすれば、この第六天の魔王が邪魔をするばかりでなく、我々の心中の欲望が邪魔をし始めるのであります。悪魔が間隙を見出すというのも、我々のこの心の中の欲望の邪魔を指して云うのであります。それ故に仏教では天魔に加えて我々心中の煩悩をも悪魔とするのであります。所謂煩悩魔であります。煩悩を悪魔とするばかりでなく、煩悩生活へ我々を導く所の一切をも悪魔とするのであります。子は三界の頸枷、妻は生死の覊と云う、可愛い妻子も可愛いが故に三界生死の迷界に引きづり込むところの悪魔であり、妻子のみかは、我々の身体も、身体あるが故に衣食に苦労し、身体あるが故に悪いことをして、苦しまなければならないから、身体も悪魔と云われるのであります。そうしてこの身体が悪魔である限り、死は最も厭な恐ろしいものであるから、死もまた悪魔と云われるのであります。それで妻子の悪魔を身体に含ませて、ここに四種の悪魔が数えられるのであります。


一、天魔

二、死魔

三、五蘊魔(五蘊は今身体を意味する)

四、煩悩魔


 かくの如く考えて来ると、我々は丸で悪魔でとりまかれているのであって、周囲は恐ろしい悪魔どもがうじゃうじゃしている有様であります。敵七人の世の中どころではなく、悪魔の重囲の中に落ち入って逃げる術もないのであります。そんなら魔王の従順な臣下となって、欲の心の動くままに、生活すれば善いのであるか。否、そうすれば欲のために滅ぼされて、苦悩の淵を永遠に出ることが出来ないのは明白なことであります。我々はこの世界を何と呼んだらよいのでありましょう。苦悩の舊里と呼ぼうか、無安の三界と云おうか、何れにせよ、停るべからざる魔境であります。我々はこの魔境をどうしたなら脱出することが出来るでありましょうか。


 かくの如く、我々は七人の敵に狙われているどころではなく、終始、おそろしい悪魔に身をとりまかれて、絶えず隙をねらわれて居るのでありますが、この点から考えてみると、我々の生活と云うものは、誠に危険千万なおそろしい真暗なものと云わねばなりません。酒で一生をしくじるものもあれば、女で一生を棒に振るものもあり、賭博で失敗するものもある。打つ買う、呑む、みなこの悪魔のひろげた手であって、我々現実生活の上へ、このおそろしい手が網のように延べられてあるのであります。

 ところがここに不思議なことには、この真暗なおそろしい生活と並んで、全く異なる明るい愉快な生活がある。否並んであるのではなくて、真暗なおそろしい生活がそのままに転じて明るい愉快な生活となるのであります。嘗ては我々の自分の身体すらが我々を悪へと導く五陰魔と称せらるる悪魔であった。ところがこの身体がそのまま尊い法の器と呼ばれるようになる。三界の頸枷であり、生死の覊であった妻子は大切な同行として導き導かれるものとなる。我々の心の汚れである煩悩までが、法の種としてまた仏の種として、非常に大きな働きをするようになります。ここに光景は全く一転して邪魔であり、妨げであり、敵であり、仇であったものが、助けであり、護りであり、味方であり、友達となるのであります。即ち打つ手がそのまま育ての手であり、悪口が称賛であり、謗りの語が励ましの語であることが味わわれるのであります。

 釈尊の御伝記に依ると、所謂その悪魔降伏の夕、釈尊は菩提樹下の金剛座に座って居られる悪魔は矢を射かけ剣を投げる。するとその矢や剣は、釈尊の御衣の端に行くと花びらとなって、金剛座を荘厳する。悪魔は矢や剣の無いのを見て、腹を立て、今度は黒雲を起し、大雨を降らして襲撃する。ところがその黒雲も多雨も、釈尊の御身の上に至ると、忽ち変じて五色の雲となってたなびく。いかなる悪魔の襲撃も、釈尊を少しも犯すことは出来なかったというのであります。そしる、ほめる、くさす、たたえる、これがすべて毒になる生活もあれば、またこれがすべて楽になる生活もある。毒も薬も我々の生活の外にあるのではなく、我々の生活の中に、毒ともし、薬ともする力があるものであることがこれに依って考えられるのであります。


 然らばどういう生活が、すべてのものをみな毒とするのでありましょうか、これは欲を基調とする我々の生活、欲の支配を受けるところの我々の生活であります。前にも云うように、悪魔の王は第六慾天の王と云われ、我々人間の生活は欲に動かされ、欲に支配せられている生活であるから、我々の住んでいる世界は欲界と名づけられて居るのであります。この欲界の王が魔王であるから、この魔王の配下に居る我々はあらゆる悪魔にとりかこまれているのであります。外に無数の悪魔が居るばかりではなく、我々の心の中にも数限りない悪魔がひそみ、身体も悪魔、妻子眷族もみな悪魔となっているのであります。ほめられたい、儲けたい、善く云われたい、都合よくなりたいというだけの生活では、褒められても有頂天になって自分を忘れるから毒、そしられても、腹が立つから毒、儲けてもなお一層欲心がつのるから毒、損をしても気がくじけ張り合いが無くなり、世の中を怨むようになるから毒、すべてみな毒になって、身を害うようになるのであります。

 ところがここに一念反省が生まれる。自分自分の欲の生活に反省の眼を向けて、生きることの真の意味を味わうようになり、生きることは自分の心を養うことである、自分自身をそだてることであると気がつくようになって来ると、一切の毒はそのまま転じてみな薬となるのであります。そしられて自分自身の欠点に気がつく、ほめられて、励まして下さる親切をよろこび、なお一層の励みをつける。儲けて自制し、損をしてくじけない。毀誉褒貶を越え、毀誉褒貶をすべてみな自分を育てる薬とするのであります。


 このことは甚だ見易い道理であり、極めて平凡なことなのでありますが、扨て実際の生活となると、丸っきり反対なこととなって仕舞うのであります。私自身、このことは常に反省せしめられるのであります。世の中に所謂成功者と云われる人で、宗教のない人を見ると、傲岸無恥にて人を人とも思わず、したい放題のことをして自他を毒しているものであります。また不幸に遇って逆境に遇った人を見ると、宗教のないために、自分の不幸が、他人かなどの為めであるように考え、怨み憎み嫉んでその為に却って自分の身を暗い方へ方へと引きずり込んでいるものであります。宗教のある人はその信力に依って、順境にも我を忘れず、逆境にも決して自棄に陥らず、成功者はそれがみな周囲の御蔭であると感謝して、その感謝の上から行動し、不幸の人はその責任を自分に引き受けて決して他を怨まず、些細な親切にも感謝し、不幸から立ち上る用意をなすものであります。

 それゆえに身を亡ぼすもとは、決して自分の外にあるのではなく、畢竟自分自身の内にあるものであるということが知られるのであります。そうしてその自分自身の内のもととは何であるかというと、欲に支配せられて、その欲に反省のないことであります。欲の生活には、順逆二境ともに悪魔となって、身を亡ぼすことになり、欲の心に反省ある生活には、順逆二境ともに身を育てる薬となって、永遠に生の道を歩むことが出来るのであります。


 私はここに欲の生活と欲の心に反省する生活と云ったのでありますが、欲の生活と云うは、自分自身に反省のない無宗教の生活を云い、欲の心に反省する生活とは、自分自身を反省し、自分の真相にめざめ、そこに仏陀を信ずる宗教生活を意味して云うたのであります。もとよりこの二つの生活の姿は少しも変わっているのではない。仕事をして、生活の資糧を与えられ、それに依って生命を繋いで行く経済生活には何の差違もないのでありますが、その生活の根本に於いて大きな差違があるのであります。




(赤沼智善)






 悪魔が仏陀に近づいてから、詩を以て語りかけた。


人々は苦行によって浄められるのに

その苦行の実行から離れて

清浄に達する道を逸脱して

浄くない人が、みずから浄しと考えている。


 仏陀は詩を以て答えた。


不死に達するための苦行なるものは

すべてためにならぬものであると知って

乾いた陸地にのり上げた船の舵や艪のように

全く役に立たぬものである。

さとりに至る道・・・戒めと、精神統一と、智慧と・・・を修めて

わたしは最高の清浄に達した。

破滅をもたらす者よ。

お前は打ち負かされたのだ。





 悪魔が仏陀に近づいてから、詩を以て語りかけた。


人間の寿命は長い。

立派な人はそれを軽んじない。

乳に飽いた赤子のようにふるまえ

死の来ることがないからである。


 仏陀は詩を以て答えた。


この人間の寿命は短い。

善をなさねばならなぬ。

清浄行を行なわねばならぬ。

生まれた者が死なないということはあり得ない。

たとい永く生きたとしても

百歳か

あるいはそれよりも少し長いだけである。





 悪魔が仏陀に近づいてから、詩を以て語りかけた。


あなたは、ものぐさで臥ているのですか?

あるいは詩作に耽って臥ているのですか?

あなたのなすべき事柄は、数多くあるではありませんか。

人里はなれた休息所に

眠そうな顔をして、独りで

このように眠りに耽っているのはどうしてですか?


 仏陀は詩を以て答えた。


わたしは、ものぐさで臥ているのではない。

また詩作に耽って臥ているのではない。

わたしは目的を達成し、憂いを離れている。

わたしは、一切の生きとし生けるものを憐れんで

人里はなれた休息所に

ひとり臥すのである。

矢が胸を貫いて、心臓が激しくどきどきと動悸している人でも

矢が刺さっているのに、眠ることができる。

煩悩の矢を離れたわたしがどうして眠らないということがあろうか。

めざめているが気がかりもなく、また眠るのを恐れることもない。

夜も昼も、わたしを後悔させて苦しめることがない。

世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。

それ故に、一切の生きとし生けるものどもを憐れみながら

われは眠る。





 悪魔が仏陀に近づいてから、詩を以て語りかけた。


人々が『これがわがものである』と語るところの物

『これはわがものである』と語る人々・・・

そなたの心がそこにとどまるならば

そなたは、わたしから脱れることはできないであろう。


 仏陀は詩を以て答えた。


人々がわがものであると執着して語るところの物

それは、わたしに属するものではない。

執着して語る人々がいるが

わたしはかれらのうちの一人ではない。

このように知れ。

そなたは、わたしの行く道をも見ないであろう。





 悪魔が仏陀に近づいてから、詩を以て語りかけた。


あなたはみずから統治をなさい。

幸せは方は

殺すことなく、殺さしめることなく

勝ことなく、勝たしめることなく

悲しむことなく、悲しませることなく

法によって統治をなさい。


 仏陀は答えた。


そなたは、何を見てわたしにこのように言うのか?


 悪魔は答えた。


そなたは、四つの不思議な霊力を修し、大いに修し

軛を結びつけられた車のように修し

家の礎のようにしっかりと堅固にし

実行し、完全に積み重ね、みごとになしとげた。

そなたがもしも、山の王・雪山を黄金にしようと望み

そのように決意されるならば、山は黄金となるであろう。


 仏陀は答えた。


黄金や銀の山があったとしても

またそれを二倍にしても

それだけでは、一人の人を満足させることはできない。

このことを知って、平らかな心で行うべし。

苦しみと苦しみの起こるもとを見た人は

どうして欲情に傾くであろうか。

世間における制約は束縛であると知って

人はそれを制しみちびくために修学すべし。