< 清浄性 >



 そのとき、スブーティー長老が世尊につぎのように申し上げた。

「世尊よ、勤勉さもなく、善根を離れ、悪友の手中にあるものには、智慧の完成は傾倒して信ずることのむずかしいものです」

世尊は仰せられた。

「そのとおりである。まことにそのとおりである。勤勉さもなく、善根に薄く、愚かで、道を求めようとせず、学問少なく、智恵劣り、悪友に頼り、学ぶ気もなく、疑問を尋ねようとしてもしない輩、善いことを行おうと勤めないものには、智恵の完成は傾倒して信ずることのむずかしいものである」

スブーティーはお尋ねした。

「世尊よ、いったい、この知恵の完成はどれほど深い意味があって、そんなに信じがたいのですか」

世尊はお答えになった。

「スブーティーよ、物質的存在は束縛もされていないし、解放もされていない。それはなぜか。物質的存在としての本体がないから、物質的存在は束縛もされず解放もされていないのである。そのようにして、感覚、表象、意欲もそうであり、思惟も、束縛もされていないし、解放もされていない。それはなぜか。思惟としての本体がないから、思惟は束縛もされず解放もされていないのである。

 物質的存在の過去は束縛されてもいないし、解放されてもいない。それはなぜか。物質的存在は過去としての本体をもたないからである。物質的存在の未来は束縛されてもいないし、解放もされていない。それはなぜか。物質的存在は未来としての本体をもたないからである。現在の物質的存在は束縛されてもいないし、解放もされていない。それはなぜか。現在の物質的存在は現在としての本体をもたないからである。そのように、感覚、表象、意欲もそうであり、思惟の過去も束縛されてもいないし、解放もされていない。それはなぜか。思惟は過去としての本体をもたないからである。思惟の未来は束縛されてもいないし、解放されてもいない。それはなぜか。思惟は未来としての本体をもたないからである。現在の思惟は束縛されてもいないし、解放されてもいない。それはなぜか。現在の思惟は現在としての本体をもたないからである」

スブーティーは言った。

「世尊よ、智恵の完成は信ずるにむずかしいものです。勤勉さもなく、善根も植えておらず、悪友の手中になり、ものぐさで、努力に欠け、忘れっぽく、智恵劣るものには、智恵の完成は信ずるのにたいへんむずかしいものです」

世尊は仰せられた。

「そのとおりである。スブーティよ。まことにそのとおりである。智恵の完成は信ずるにむずかしいものである。勤勉さもなく、善根も植えておらず、悪友の手中にあり、魔の力にみいられ、ものぐさで、努力に欠け、忘れっぽく、智恵劣るものには、智恵の完成は信ずるにたいへんむずかしいものだ。それはなぜか。物質的存在の清浄性なるもの、それが修行の結果の清浄性なのであり、結果の清浄性はそのまま物質的存在の清浄性である。そういうわけで、物質的存在の清浄性と結果の清浄性、これは不二であり、二つに分けられず、相違せず、断絶していない。そういうわけで、結果が清浄であるから物質的存在は清浄になり、物質的存在が清浄であるから結果は清浄になるのである。同じように、感覚、表象、意欲についてもそうであり、思惟の清浄性なるもの、それが修行の結果の清浄性なのであり、結果の清浄性はそのまま思惟の清浄性である。そういうわけで、思惟の清浄性と結果の清浄性、これは不二であり、二つに分けられず、相違せず、断絶していない。そういうわけで、結果が清浄であるから思惟は清浄になり、思惟が清浄であるから結果は清浄になるのである。

 また、スブーティよ、物質的存在の清浄性なるもの、それが全知者性の清浄性なのであり、全知者性の清浄性はそのまま物質的存在の清浄性である。そういうわけで、物質的存在の清浄性と全知者性の清浄性、これは不二であり、二つに分けられず、相違せず、断絶していない。そういうわけで、全知者性が清浄であるから物質的存在は清浄になり、物質的存在が清浄であるから全知者性は清浄なのである。同じように、感覚、表象、意欲についてもそうであり、思惟の清浄性なるもの、それが全知者性の清浄性なのであり、全知者性の清浄性はそのまま思惟の清浄性である。そういうわけで、思惟の清浄性と全知者性の清浄性、これは不二であり、二つに分けられず、相違せず、断絶していない。そういうわけで、全知者性が清浄であるから思惟は清浄になり、思惟が清浄であるから全知者性が清浄なのである」


 そのとき、シャーリプトラ長老が世尊につぎのように申し上げた。

「世尊よ、智恵の完成は意味深いものです」

世尊はお答えになった。

「シャーリプトラよ、清浄であるからだ」

「世尊よ、智恵の完成はものを明らかにするものです」

「清浄であるからだ」

「世尊よ、智恵の完成は光明です」

「清浄であるからだ」

「智恵の完成は再生を超えたものです」

「清浄であるからだ」

「智恵の完成は汚れなきものです」

「清浄であるからだ」

「智恵の完成は獲得もできず、直証することもできないものです」

「清浄であるからだ」

「智恵の完成は生ずることがありません」

「清浄であるからだ」

「智恵の完成は、欲望の世界にも、清浄な物質の世界にも、精神の世界にも、けっして生じないものです」

「清浄であるからだ」

「智恵の完成は知らず、意識しないのです」

「清浄であるからだ」

「智恵の完成は何を知らず、意識しないのですか」

「智恵の完成は物質的存在を知らず、意識しないのだ。それはなぜか。清浄であるからだである。感覚、表象、意欲についてもそうであり、智恵の完成は思惟を知らず、意識しない。それはなぜか。清浄であるからである」

「世尊よ、智恵の完成は全知者性を損じもしないし、益しもしないのです」

「清浄であるからだ」

「智恵の完成はいかなるものをも取りもせず、捨てもしないのです」

「清浄であるからだ」


そのとき、スブーティ長老が世尊につぎのように申し上げた。

「世尊よ、他学派が想像する自我が真実には空であり清浄であるから、物質的存在も清浄なのです」

「スブーティよ、絶対的に清浄であるからである」

「自我が清浄であるから、感覚、表象、意欲も清浄なのです。自我が清浄であるから、思惟も清浄になるのです」

「絶対的に清浄であるからだ」

「自我が清浄であるから結果も清浄なのです」

「絶対的に清浄であるからだ」

「自我が清浄であるから全知者性も清浄なのです」

「絶対的に清浄であるからだ」

「自我が清浄であるから、獲得することもなく直証することもないのです」

「絶対的に清浄であるからだ」

「自我が無辺であるから物質的存在も無辺なのです」

「絶対的に清浄であるからだ」

「自我が無辺であるから、感覚、表象、意欲、思惟も無辺なのです」

「絶対的に清浄であるからだ」

「もしある菩薩大士がこのように理解するならば、それが彼にとって智恵の完成なのです」

「絶対的に清浄であるからだ」

「実に、この知恵の完成は、此岸にも、彼岸にも、またその二つを離れて遠くに存在するのでもないのです」

「絶対的に清浄であるからだ」

スブーティ長老は続けた。

「けれども、世尊よ、もし菩薩大士がそのようにさえ意識するならば、彼はこの知恵の完成を捨て、智恵の完成を遠ざけるのです」

世尊は仰せられた。

「善いかな、善いかな、スブーティよ。そのとおりである。それはなぜか。名前にもとづいて執着し、特徴にもとづいて執着することがあるからである」

「世尊よ、この知恵の完成がそこまでりっぱに説明され、よく説かれ、完全に明らかにされ、しかも世尊がこれらの執着の諸様相まで解説されたとは、まことに稀有なことです」


 そのとき、シャーリプトラ長老はスブーティ長老に向って言った。

「スブーティ長老よ、これらの執着とはどういうものですか」

スブーティ長老は答えた。

「シャーリプトラ長老よ、物質的存在が空であるとするのは一つの執着である。感覚、表象、意欲についてもそうであり、思惟が空であるとするのも、執着なのです。もし人が過去の事物に対してそれらのものは過ぎ去ったと意識するならば、それも執着です。未来の事物に対してそれらのものはまだこないものだと意識するならば、それも執着です。現在の事物に対してそれらのものは現に存在すると意識するならば、それも執着です。菩薩乗によって修行する人が、さとりに向けて最初に心を発しただけでそれほど多くの福徳を得るのだ、と意識するならば、それも執着である」


そのとき、神々の主シャクラがスブーティ長老につぎのように言った。

「スブーティ聖者よ、どういうわけで、さとりに向けて心を発すことが執着となるのですか」

スブーティは言った。

「カウシカよ、彼がもし『これが最初のさとりへ向かう心だ』というようにそのさとりへの心を意識し、『私はそれを無上にして完全なさとりに廻向しよう』といって廻向するとしよう。けれども、その大乗に進み入った良家の男子や女子は本来、空である心の本性を廻向することはできないのです。そういうわけで、無上にして完全なさとりに向かって他人を教え、激励し、熱狂させ、驚喜させるものは、真実に従って教え、激励し、熱狂させ、驚喜させなければなりません。そうであってこそ、その良家の男子や女子は、自分をそこなうこともなく、仏陀の是認せられるような激励の仕方で他人を激励することになるのです。そして、彼はこれらすべての執着のあり方を捨て去ったことになるのです」

そのとき、世尊はスブーティ長老を称讃された。

「善かな、善かな、スブーティよ。お前が菩薩大士たちにこれらの執着のあり方をさとらせるのは。それでは、もっとほかの、より微妙な執着を私が解き明かそう。それを聞け、よく、充分に心を集中しなさい。お前に私は教えよう」

「世尊よ、よろしゅうございます」といって、スブーティ長老は耳を傾けた。世尊はつぎのように仰せられた。

「スブーティよ、この世間で、良家の男子や女子は誠信をささげて、供養されるべき、完全にさとった如来に、その特徴に従って心を集中するのだが、特徴の数が多いだけ執着も多いことになる。それはなぜか。というのは、執着というものは特徴によって起こるからである。そういうわけで、彼が『過去・未来・現在の諸仏世尊の汚れのない諸徳性を自分は随喜しよう』といって随喜し、『随喜を伴った善根を、無上にして完全なさとりに自分は廻向しよう』といって廻向する。けれども、事物に存する”ものの本性”というもの、それは過ぎ去ったのでもなく、まだこないのでもなく、現に存在するものでもないもの、それは三時から解放されている。三時から解放されているもの、それは廻向することもできず、特徴づけることも、対象化することもできない。またそれは見られず、聞かれず、考えられず、知られもしないのである」

スブーティが言った。

「世尊よ、事物の本性は意味深いものであります」

世尊はおっしゃった。

「スブーティよ、離脱しているからである」

「世尊よ、智恵の完成は本質的に意味深いものであります」

世尊はおっしゃった。

「スブーティよ、本質的に清浄であるからだ。智恵の完成は本質的に離脱しているから、本質的に意味深いものである」

スブーティは言った。

「世尊よ、智恵の完成は本質的に離脱しております。私は智恵の完成を礼拝いたします」

世尊は仰せられた。

「スブーティよ、すべてのものも本質的に離脱しているのである。そして、すべてのものの本質的な離脱性というもの、それが智恵の完成にほかならない。それはなぜかというと、供養されるべき、完全にさとった如来たちは、『すべてのものはつくられたものではない』とさとっているからである」

スブーティは申し上げた。

「では、世尊よ、そういうわけで、すべてのものは供養されるべき、完全にさとった如来によってさとられていないことになります」

「スブーティよ、それは、それらのものは本性としては何物でもないからだ。本性といわれるもの、それは無本性であり、無本性なるもの、それが本性である。すべてのものには無特性という、ただ一つの特性があるからである。そういうわけで、すべてのものは、供養されるべき、完全にさとった如来によってさとられていないのである。それはなぜかというと、ものに二つの本性があるわけはなく、すべてのものにはただ一つの本性があるだけである。そして、すべてのものの本性、それは無本性であり、無本性なるもの、それが本性なのだ。このようにして、これらすべての執着のあり方は除去されるのである」

スブーティは言った。

「世尊よ、智恵の完成は意味深いものであります」

世尊は仰せられた。

「スブーティよ、虚空が意味深いことによって、智恵の完成は意味深いのだ」

「世尊よ、智恵の完成は理解しがたいものです」

「というのは、誰もそれをさとらないからだ」

「世尊よ、智恵の完成は不思議なものであります」

「というのは、智恵の完成は心によって知られず、心の近づきえないものだからだ」

「世尊よ、智恵の完成はつくられたものではありません」

「スブーティよ、つくり手が認められないから、智恵の完成はつくられたものではないのだ」

「それでは、世尊よ、菩薩大士はどのように智恵の完成への道を追求すればよいのでしょうか」

「スブーティよ、もし菩薩大士が智恵の完成への道を追求するとき、物質的存在の道を追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求していることになる。そのように、感覚、表象、意欲の道も追求せず、さらに思惟の道をも追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求していることになる。もし『物質的存在は無常である』というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのである。感覚、表象、意欲についてもそうであり、さらに、もし『思惟は無常である』というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求しているのである。もし『物質的存在は空である』というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求しているのである。感覚、表象、意欲についてもそうであり、さらに、もし『思惟は空である』というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求しているのである。もし『物質的存在は不完全である』とか『完全である』とかいうように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求しているのである。つまり、物質的存在の不完全性とか完全性とかいうものは、それは物質的存在ではないのだ。感覚、表象、意欲についてもそうであり、さらに、もし『思惟も不完全である』とか『完全である』とかいうように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求しているのである。つまり、思惟の不完全性とか完全性とかいうものは、それは思惟ではないのだ。もし、そのようにさえ追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求することになる」

このようにいわれたとき、スブーティ長老は世尊にこう申し上げた。

「世尊よ、このようにまで詳しく、菩薩大士の執着のありさまと執着のないありさまが解説されたのは稀有なことです」

「もし菩薩大士が物質的存在は執着される、あるいは執着されない、というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのだ。感覚、表象、意欲についてもそうであり、さらに、思惟は執着される、あるいは執着されない、というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのだ。眼は執着され、執着されない、というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのだ。そのように、耳、鼻、舌、身さらに心との接触によって生ずる感情にいたるまで、それが執着され、執着されない、というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのだ。地の要素は執着され、執着されない、というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのだ。水、火、風、空さらに認識の要素にいたるまで、それが執着され、執着されない、というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのだ。施与の完成は執着され、執着されない、というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのだ。道徳の完成、忍耐の完成、努力の完成、瞑想の完成についてもそうであり、さらに、智恵の完成が執着され、執着されない、というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのだ。そのように三十七のさとりの助けになる要素、如来の十種の知力、自信、如来の四種の透徹せる知、仏陀の十八の他と共通しない特性が執着され、執着されない、というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのだ。預流果は執着され、執着されない、というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのだ。そのように、一来果、不還果、阿羅漢のさとりが執着され、執着されない、というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのだ。独覚のさとりが執着され、執着されない、というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのだ。仏陀のさとりが執着され、執着されない、というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのだ。スブーティよ、また全知者性が執着され、執着されない、というように追求しないならば、彼は智恵の完成への道を追求するのである。

 スブーティよ、このように道を追求する菩薩大士は、物質的存在に対して執着を生ぜず、感覚、表象、意欲に対しても、思惟に対しても執着を生ぜず、眼に執着を生ぜず、ないし心との接触によって生ずる感情にいたるまでも執着を生ぜず、地の要素に執着を生ぜず、ないし認識の要素にいたるまでも執着を生ぜず、施与の完成に執着を生ぜず、道徳の完成、忍耐の完成、努力の完成、瞑想の完成、智恵の完成にも執着を生ぜず、さとりの助けになる諸要素、如来の力、自信、透徹せる知、仏陀の十八の他と共通しない特性にも執着を生ぜず、預流果に執着を生ぜず、一来果、不還果、阿羅漢のさとりにも執着を生ぜず、独覚のさとりに執着を生ぜず、仏陀のさとりに執着を生ぜず、全知者性にも執着を生じないのである。それはなぜかというと、全知者性というものは執着を離れ、束縛されず、解放されず、超越されもしないからである。菩提大士は、実にこのようにすべての執着を超越しようとして、智恵の完成への道を追求せねばならない」

スブーティは言った。

「世尊よ、稀有なことです。この知恵の完成というものがそれほど意味深いとは。それは説かれているときにも減ずることなく、説かれないときにも減じません。説かれても増さず、説かれなくても増しません」

このようにいわれたとき、世尊はスブーティ長老につぎのように仰せられた。

「善いかな、善いかな、スブーティよ。そのとおりである。たとえば、供養されるべき、完全にさとった如来が命の尽きるまで立ちどまって虚空の美しさをたたえようとしても、虚空は増大しない。美しさをたたえられなくても、虚空は決して減少しない。またたとえば、幻の人は美しさをたたえられても誘われもしないし、苦しめられもしない。美しさをたたえられなくても、挫けもせず、苦しめられもしない。ちょうどそのように、諸事物にある”ものの本性”というものは、説かれていてもそのままであり、説かれなくてもそのまま変わらないのだ」

スブーティは言った。

「世尊よ、意味深い智慧の完成への道を追求し、智恵の完成を修習して挫けず、跳ね上がらず、そしてそれに対して努力を傾けて退転しない菩薩大士は、難事の遂行者というべきです。智恵の完成の修習というものは、虚空を修習するようなものです。このような甲冑で身を固めたこれら菩薩大士に敬礼しなければなりません。それはなぜかと申しますと、有情たちのために甲冑を結ぶ人は、虚空との戦闘のために甲冑を着けようとするのです。菩薩大士は、偉大な甲冑で身を固めた人です。虚空に等しい有情、さとりの世界に似た有情たちのために甲冑を着け、無上にして完全なさとりをさとろうと思う菩薩大士は英雄であります。彼は虚空を解放しようとするわけです。彼は虚空を持ち上げようとするわけです。虚空と等しく、さとりの世界に似た有情たちのために甲冑を着ける菩薩大士は、偉大な、努力の完成の甲冑を獲得しているわけです」


そのとき、また別な比丘が、世尊のおられるほうへ合掌を向けて、世尊につぎのように申し上げた。

「世尊よ、私は智慧の完成を礼拝いたします。と申しますのは、智慧の完成はいかなるものをも生ぜしめず、いかなるものをも滅せしめないからです」

そのとき、神々の主シャクラがスブーティ長老にこう言った。

「聖者スブーティよ、この知恵の完成に努力を傾ける人は、いったいどこに努力を傾けるのですか」

スブーティは答えた。

「カウシカよ、知恵の完成に努力を傾ける人は、虚空に努力を傾けるのです。知恵の完成を学び、それに努力を傾けようと考える人は、空間に努力を傾けるのです」

そのとき、神々の主シャクラが世尊につぎのように申し上げた。

「世尊よ、お命じください。私は、この知恵の完成を保持する良家の男子や女子を護衛し、保護し、防御いたします」

そのとき、スブーティ長老が神々の主シャクラに言った。

「カウシカよ、あなたが護衛し、保護し、防御するというそのものを、あなたは見ることができますか」

シャクラ

「そうはゆきません、聖者スブーティよ」

スブーティ

「そこで、カウシカよ、もし菩薩大士が説かれているとおりの知恵の完成に心をとどめるならば、それ知恵の完成が彼の護衛、保護、防御となるでしょう。逆に彼が知恵の完成と離れてしまうならば、彼の弱点を捜し、弱点を求める人や人にあらざるものどもが攻撃の場所を得るでしょう。けれども、知恵の完成への道を追求する菩薩大士の護衛、保護、防御を行おうと思うようなものです。これをどう思いますか、こだまの護衛、保護、防御を行なうことが、あなたにできますか」

シャクラ

「そうはゆきません、聖者スブーティよ」

スブーティ

「カウシカよ、実に、そのように知恵の完成への道を追求し、そこにとどまる菩薩大士は、すべてのものはこだまに等しい、と了解するのです。そして彼はそれらのものを考えず、見ず、知らず、意識しないのです。また、それらのものは存在せず、見られず、知られず、認識されないのだ、と考えて暮らすのです。もしこのように暮らすならば、彼は知恵の完成への道を追求しているわけです」


そのとき、仏陀の威神力によってつくり出された三千大千世界のなかの四天王、神々の主シャクラたちのすべて、マハー・ブラフマー天の神のすべて、サハー(娑婆)世界の主マハー・ブラフマー神、それらの神々すべてが世尊のおられるところへ近づいてきた。近づいて、世尊の両足を頭で頂いて敬礼し、世尊の周囲を三度右まわりにまわって、一方に立ちどまった。一方にとどまって、彼ら、四天王、神々の主シャクラたちのすべて、ブラフマカーイカ、マハー・ブラフマー天の神々たちのすべて、サハー世界の主マハー・ブラフマー神は、仏陀の威神力、仏陀の制御力によって、千人の仏陀たちがあらわれるのに注意を向けた。その千人の仏陀たちの国々では、地上のこの場所におけるようにスブーティという名前の比丘たちが、まさに同じ名前、同じ文章、同じ文字によって、この同じ智慧の完成を説き、この同じ智慧の完成の一章を説いていた。そこではまた、神々の主シャクラたちがやはり疑問を提出し、質疑していた。そして地上のこの場所でも、この同じ智慧の完成が話されたのである。またマイトレーヤ菩薩大士は、未来に無上にして完全なさとりをさとったのちに、地上のこの同じ場所で、この同じ智慧の完成を説かれるであろう」




(八千頌般若経)