< 仏教の十二原理 >
仏教の開祖釈迦牟尼仏陀は、西紀前五六五年頃、一国の皇太子として北方印度に誕生した。生来内省的な性格を有していた彼は、苦悩に充てる世間の生活に満足せずして、二十九歳の時出家沙門となりて、全人類の為に苦悩解脱の道を求めた。修行多年、遂に正覚を成就した彼は、仏陀即ち圓覚者として知られる様になった。爾来四十五年間、彼は広く道を求むる人々の為に苦悩止息に道、中道の教えを説き、八十歳にして平和なる入滅を遂げた。彼の滅後その教法は遠く八方に広がり、今日では世界人類の三分の一近くが、仏陀は自ら正覚を成就し、且つ人々を解脱に導く一大先達なりとして讃仰している。
世界の仏教は今日大別して二派に分かれている。一は小乗或いは長老派として、セイロン・ビルマ・シャム及び印度(それは今日既に仏教圏ではない。)の一部に行われている南方仏教であり、他は大乗として、西蔵・南蒙古・支那及び日本の数憶の住民の間に行われている北方仏教である。而してこれ等の南北仏教は相互に寛容であり、寧ろ同一物の両面を現わして居るに過ぎない。
仏教は平和の宗教と呼ばれている。何となれば、未だ嘗て仏教戦争なるものは行なわれたことがなく、又何人と雖も、その信仰の為に仏教々団から虐待されたことがないからである。以下十二ヶ条は全仏教に共通なる基本的原理又は真理とする所である。
第 一
自己救済は何人に取っても極めて緊要な即今の問題である。人もし毒矢に倒れば、その射手、その作者、その全長等の詮索に没頭して、これを抜き取ることを後回しとするが如きことはあるまい。仏道の修行に於いても、修行しながら教義の理解をいよいよ深めて行くことも出来るのであるから、人生の如実相に直面し直接に身を以てする経験によって即刻修道を開始せよ。
第 二
万有の根本事実は転変或いは無常の法則である。一切の存在は、土竜より大山に至るまで、一想念より天下国家に至るまで、存在の同一循環、即ち生成、発展、凋落及び死滅の道程を進行するものである。但だ万有の根源的生命のみは永遠にして、万有の間に自己を実現して行くものである。中国人曰く、『浮世は橋梁の如し、故にこの上に家宅を築く可からず。現世は流転の連続なり。故に壮美なりと雖もこれに執着する者は苦悩を招かん』と。
第 三
転変無常の法則は人間霊魂に就きてもまた同様なり。人間霊魂と呼ばるるものも不死不変ではない。但だ思議すべからざるもの、即ち最高の実在のみは流転を超越して居り、人間を始め一切の有情はこの最高実在の顕現に外ならない。何人と雖も、自身中に流動しつつあるこの根源的生命を容易に捕捉し難きことは、恰も彼の電球に光明を附与する電流の把握し難きが如くである。
第 四
凡ての事象は理法の顕現である。一切の結果に原因があり、人間の霊魂又は性格と言うも、その人の過去に於ける思想及び行為の総和に外ならない。業は動及び反動の一切を支配するものであり、人間自身こそ、その環境、その反動未来の条件及び最後的運命の唯一の創造者である。人は正しき思惟と行為とに依って、自己の本性を次第に浄化して行くことが出来よう。それ故に人々は地上に於ける一生より他生に亙りての永き生死流転の間に、何時かは大自覚に到達し、生死輪廻を超越することが出来るのである。
第 五
不断に変化する個体は無数にしてまた無常であろうが、根源的生命は全一にして不可分である。故に個体は死滅せざるを得ないが、その本体は不死である。生命の平等観より万物一如観現われ、万物一如観より慈悲心が発動する。慈悲心こそは法則の法則、永遠の調和を形成する。而してこの生命の調和を破壊する者は苦悩し、従って自己自身の正覚成就を遅延せしめるであろう。
第 六
根源的生命が全一であれば、一部の利益はまた全体の利益でなくてはならぬ。人は無知の故に自己一身の利益を追求し得べしと誤認し、その誤認に基く利己的勢力より苦悩が造り出されるのである。依って人は苦悩の原因を漸滅し、やがて之を消滅せしむべきであろう。仏陀は四聖諦の法門を教示せられて居る。四聖諦とは苦聖諦・集聖諦・滅聖諦及び道聖諦これである。
第 七
道聖諦即ち八正道とは、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念及び正定これであり。仏教は生活道であって、単なる人生理論ではないが故に、自己救済の為には八正道の実践が必要である。諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教。
第 八
根本実在は不可説であって、種々の属性を有する神は最高の実在ではない。然るに人間仏陀は大圓覚に到達して根本実在をしたのであり、人生の究極目的は根本実在の体得即ち大自覚に到達することに在る。而もこの大圓覚即ち涅槃または有限的小我の滅却せる意識状態には、何人と雖も現世に於いて到達し得るのである。万人が当成の仏であり、我等は皆成仏への道程に在る。
『内観せよ、汝は仏陀なり』
第 九
可能性としての正覚より現実の正覚に到る道程に中道がある。中道とはあらゆる両極端を避けて、対立の中間を進む向上道のことであり、それは苦悩より平和へ向かう八正道である。仏陀とはこの大道を終極まで実践した人であり、仏教に於いて要求せられて居る唯一の信仰は、先達の歩める所、これ後進の従うに値す、と言う合理的なものである。この大道は単なる得意なる一面を以てではなく全人格を打込んで修行すべきであり、これに従って情意共に向上せしむべきである。仏陀は大悲と共に大智の人であったのである。
第 十
仏教は内的禅定思惟の必要を強調する。それはやがて人々を内的霊能の開覚に導くものである。内省生活は日常業務と同様に重要であり、内省の為の静寂なる時間は調和的生活をなす上には必要なものである、仏教徒たる者は常に自制が必要であり、幻影的世相への執着は誡むべきである。自己の創造物に外ならない環境に対して、以上の如き注意的態度を持することは、人々を環境から来る反動を調節して、行かしめるのに役立つのである。
第 十一
仏陀曰く、『勤めて自己救済のために努力すべし』と。仏教は真理の問題に関しては各人の直覚以外の如何なる権威をも認めない。直覚のみが各人に取って唯一の権威である。万人がその行為の結果に対して責任を負わなければならない。而して自利々他同時に行いて平等利益の解脱に到達するのである。仏や神への祈祷も因果の理法を曲げることは出来ない。仏教の僧侶は教師であり、模範であって、決して神と人間との中間的媒介者ではない。仏教に於いては一切の異宗教及び哲学に対して最大の寛容性が保持せられて居る。それは何人と雖も他人の修行を妨害する権利がないからである。
第 十二
仏教は厭世主義でもなく、又遁世主義でもない。仏教は又神や霊魂の存在を否定するものでもない。但だこれ等の名称には仏教独自の意味を帯ばしめるのである。仏教は実に一個の思想体系であり、宗教であり、精神科学であり、生活道である。而してそれは合理的であり、実際的であり、包容的である。二千年以上の永きに亙って仏教は人類の三分の一近くにその霊的要求を満たして来たのであり、仏教は何等のドグマをも有せざるが故に、西洋にも適応し、それは理性と共に感情をも満足せしめ、異教に対しては寛容性を以て相互の自存自立を尊重し、いっさいの科学、宗教、哲学、心理学、倫理学及び芸術を抱合し、更に仏教は人間各自が唯一の人生創造者であり、自己運命の決定者であることを指摘するものである。
万物に平和あれ!
< そのまま信じてはならない >
仏陀は信者に対して明らかに教えて居られる
他人が真実だと言ったからと言って、それをそのまま信じてはならない。
幾世紀もの永い間の伝統だからと言って、それをそのまま信じてはならない。
世間の評判が高いからと言って、それをそのまま信じてはならない。
聖典に在るから、又は古聖の言に在るからと言って、それをそのまま信じてはならない。
自らがそう信じ度いから、又は一見面白そうにあるから言って、それをそのまま信じてはならない。
聖人賢者の教えだからと言って、それをそのまま信じてはならない。
我等の準縄は全然内心に見出されるものでなくてはならない。
若し、書かれたものや、説かれたものが道理に契い、又既に真実なることを知って居るものと合致し、又我々の考慮した判断と一致するならば、それを日常生活の坩堝に入れて試験して見るがよい。若し斯く試みた上、自己及び他人の幸福に資すると考えたならば、それを一つの合理的信仰として、自己の哲学組織の中に加えて、それを直観の光が信念と確信に変わるまで持続するがよい。
そこで始めて我々はほんとうに『これを知った』と言うことが出来る。
< 包容性 >
阿育王は次の如く述べている。
『他の教派を非難すべからず、原因なくして他人を侮蔑すべからず。その反対に、他の教派に対しても、何等かの敬意に値するものあらば勤めて尊敬を表せよ。かく為すことに依って、自己の宗派もまた他のものと共に利益あるべし。これに違犯することに依って、自己の宗派も、他のものも共に他を傷つけることに依って破壊し去られるべし』
これに対する理由は明白である。
仏教者は自己に並びに一切衆生の為に正覚を求むるのである。而して斯く為すことに於いて、最後まで進むべき何れかの道を選ぶ権利を主張する。宇宙一切の生類に対して、精神的自由に対する平等の権利を認めつつ、仏教者は自然に自己の欲する所を他にも付与せんとするのである。仏教者は他人の意志に反して服従を強いるこのと無駄を承知して居る。何となれば、たとえその人が要求したとても、人が他人を悟らせることは出来ないからである。最上の場合でも、人は自覚に赴く道を示し得るのみである。この精神的態度は仏教界内に於ける相違に就いても、他の宗教の教義に就いても同様に保持せられて居る。それは一面仏教の包容性に対する深い試練である。包容性とは他の者が真理を求める方法を、熱心に喜んで受け入れることであるとされて居る。この包容性を他の宗教の全然異なった見方にまで応用することは、一つの問題である。然し、同じ正法に対する、甚だしく異なった解釈に就いても、自分と同様正しいものとして、若しくは多分真実であろうとして、熱心に受け入れると言うことは一層大きな包容性を物語るものである。然るに、実際東洋には、仏教教義及びその応用に関して甚だしき見解を異にする論師達が、完全なる融和を以て同居して居る寺院がある。これは、仏教沙門達は、入寺の時に於いて、寺法に随順することを約束するのみで、彼らの精神は常に自由である、と言う事実に依って可能となるのである。
ジョンストン氏が、『支那仏教』に於いて言っておる如く、『入門者は信条にも束縛せられず、告白、信仰箇条にも束縛せられない。而して彼はその教派の聖典及び伝統的教義の解釈に於いて、自分の判断を用いる完全な自由を有するのである。正統又は権威と言うものが全然存しない為に、仏教には未だ嘗て、異見を持するが為に隣人を迫害すると言うようなことはなかったのである。』
< 仏教と科学 >
その関係は、大部分と小部分の関係である。一般的用語に依れば、科学は単に物質的宇宙にのみ関係して居る。然るに仏陀は、斯かる存在を分析したる後、感情も知性も同一法則の支配下に在ることを示した。然し、研究の両方面が交錯する所では、近代科学の傾向は仏陀の教説を裏書きして居る。而して、その原理の一と雖も、未だ嘗て、反証されてことはない。毎日我々はこの種の裏書の実例を聞くのであるが、ここにその詳細を報ずることは紙面の許さぬ所であろう。然し、生命の偏在、物体の無常、その勢力界への分解、宇宙法則としての因果法、物に対する心の影響等の原理は、凡ての科学者の手持ち品として徐に受け容れられつつあるのである。これは、我々が、科学のあらゆる部分、或いは一部分の全体を結論に於いて正確と考えることでもなく、又、科学的と言うことが凡て真理でなければならぬと言うのでもない。どうして科学が真理の試金石であると主張することが出来るであろうか?科学界に認められた指導者が相互に異見を抱くだけでなく、彼等はしばしば、ある瞬間に於いては、自分が一年前に抱いて居った結論と全く反対の意見を持つことがあるのである。それにも拘らず、西洋に於いては、物理的宇宙の各方面に関する知識で仏教の原理と全く一致するものが増大しつつある有様である。ここに我々の承知して置かなくてはならぬことは、しばしば記述される科学と宗教の離反は、実は真正の宗教との離反ではなくて科学と基督教会の教理との決裂であったことである。
原理は勿論之を教示した。然し、その原理、原則の作用を再発見することは、自然科学の領域を専門とする研究家達に遺されたのである。仏陀は、苦よりの解脱の道は、低劣なる自我或いは分離せる自我性を滅殺して、宇宙そのものである大我を実現することに依って、内面に見出されるべきであると教えた。これ等の霊性進化或いは霊性心理学の法則は、近代科学の物理的法則の高次の原型である。『上の如くに下にも』と言う格言を聞いたことがあるであろう。恰も行為が凝結せる思想である如く、物理的世界は唯だ精神的世界の反映であり、物の法則は心の法則の反対である。仏陀は精神世界の一般原則を仏教の基礎として説明した。而してその反対に物理的世界が今日の科学者の領土である。両者の関係は原物と射影の関係であって、一を研究する者は類推と帰納とに依って、他の知識を得ることが出来る。何故ならば、両者は各自の現象の分析に基礎を置くからであろう。而してその結論に於いては両者は自然に一致するのである。科学とは知識を意味する。而して仏陀は、正法の知識は今日科学知識が得られるようにして得られなければならぬことを教示した。それは分析と実験と推理とに依るのであって、教義の音信や不合理な信仰に依るのではない。約言すれば、仏教者は霊的心的科学者である。
< 仏教と政治 >
一般的に云えば、仏教者は単なる世界統治と言うことには興味を持たない。仏教者は単なる善政が貪欲、瞋恚、愚痴の滅尽(涅槃)に導かないことを知って居る。仏陀の福音はこの三毒の滅尽にのみ交渉を持って居るものであるから、仏教は実際の政治には何等関与しないのである。
世間政治に対する興味の欠如は、政治の形態が単に外面的肉体的人間にのみ関係して、精神は常に自由であるという事実に基くものであろう。仏教者は、儒教者と同じく、世界の平和は各個人の内面生活の厚生に依るものと考えて居る。
それ故に仏教者は、自分が党派政治に仲間入りする範囲に於いて、個人の自己発展に最大の余地を与えると考える党派を支持するであろう。然し、ここに於いても他の問題に於けると同様、個人の選択は絶対に自由である。斯くして仏教は何れの国の政治にも没交渉である。何故なれば、その行動の分野が、既に明瞭になったと思うが、内面的であって外面的人間ではないからである。
若し、仏教社会の統治は如何に分類せらるべきや、と言うことであれば、我々は、何ものもなしと答える。仏教は自己修養、自己発展の問題であるから、自ら課せざる限り、如何なる組織体への服従とも関係はない。一方、如何なる仏教者も、何れかの国民であるから、その国家の政治及び法律に服従する。
多分、社会の共同目的の利益の為に、同調の行動を奨励する範囲に於いて仏教政府は社会主義的であろう。然し一面に於いては、個人の自己発展を奨励する範囲に於いては、個人主義であろう。然し、社会主義的であっても、水準を高める政体であって、決して低める政体ではない。仏陀は確かに精神的平等性又は同胞団を宣説した。平等性の標準は、全人類が最後に到達すべき、彼の完全の人と全く同格であった。同胞団は必ずしも平等性を意味するものではない。何故なれば、教団の同胞はその年齢に於いて差異があるからである。それ故に、仏陀の創建した教団、即ち和合衆は、斯る自治的個人の集合体にも、ある統治が必要であるという範囲に於いて、長老の提言を若者が採用すると言う形式で統治せられたのである。その中に於いても、最長老の声が教団全体から最も多く尊敬されたのであった。ここに、小型ではあるが、王政と寡頭政との完全なる合体を見出すのである。その上に緊要の問題に関しては、全比丘衆の自由な公開投票があって、それが西洋で珍重される民主政治の精神を代表して居る。ここに於いて忘れてならないことは、一切の世間的政治の形態は程度の問題に分解されることが出来て、何れも何らの精神的価値も意義も持たないと言うことである。若しも一切の人々が自己発展の外、何ものにも交渉を持たないとすれば、一般に了解されて居る如き政治の必要は皆無であったであろう。況や暴論、暴力の使用に於いてや。
< 仏教と戦争 >
凡ての仏教徒は、常に仏教原理に合致した生活を営まんとする。その一はアヒンサー(無殺生)である。これは消極的には無傷害であり、積極的には一切生類に対する好意である。それ故に、仏教徒は平和的個人である。その兄弟たる人間に、積極的危害を加えることはなし得ない、下級な生物に対しては尚更のことである。若し、他人が自分を傷つけることがあれば、その返報として唯だ憐れみを感ずる。これは危害者がかかる害心を抱いて内験する苦痛に対する純情的な慈悲である。それは決して、如何なる形式に於いても卑怯を意味し、又は生ずるものではない。仏教は富と享楽とを漁る狂人的闘争に顕わるるような、粗暴な獣的勢力を麻痺せしむものであることは事実である。何故ならば、仏教に於ける真の安楽は物質の所有に依って得らるるものではなく、唯だ精神的、道徳的発展に依って得られるものであることを教えるからである。然し、事実に於いて、仏教者は軍人よりも遥かに努力の生活をして居る。何故なれば、彼等は不断に、たゆむことなく、内心の戦いに従事して居るからである。
『世尊よ、我々は自ら呼んで軍兵と称す。何故に我々は軍兵なりや?』
『比丘等よ、我々は戦争をする。故に軍兵と呼ばる』
『世尊よ、何が故に我々は戦争をするや?』
『崇高なる道徳に向って、崇高なる努力に向って、宏遠なる慧力に向って、我々は戦争をする。それ故に、我々は軍兵と称せらる』
斯くの如き間断なき闘争が、賤劣なる自我の勢力に対して、内心に於いて行なわれて居るにも係わらず、真の仏教者の外面的特質が、不動の平和性であると言うことは、実に不可思議な逆論である、仏教者は、利己主義、自我執着、邪心、慢心、怠惰等の心内の敵と戦い、人間の世界に於いては、疾病、貧窮、不正義、壓迫、罪悪、すべてのけいしきの醜悪に対して闘争する。この種の闘争は、同胞人類間の大量的殺戮よりも、高尚で、威厳があって、遥かに有利ではあるまいか?仏教者は闘争的勢力をより高い形式に浄化せんと努める。然し、戦争は、その原因が根絶せられねばならぬものの結果であることを知って居る。その原因たるや、他の一切の苦悩の原因と等しく、一人に関するものでも又一国に関するものでも、皆無数の形式に於いて自ら招いて居るものであることも、仏教者は能く知って居る。
如何に低級なものと雖も、如何に悪質な人と雖も、仏教者の憎悪するものは一つもない。何故ならば、憎悪は無智の子であり、仏教者は理解せんことを努めるからである。不正行為の理由が完全に理解された時には、これに対する唯一の可能な反応は、その同胞の斯る行為をなすまでに無智に沈入したことに対する深き同情である。他面仏教者にも、それを根絶する為に努力すると言う意味に於いて憎悪はある。人類を苦悩の輪に結びつけるもの、即ち、如何なる形にもせよ、罪悪と邪悪とを憎悪する。換言すれば、仏教者は、自己及び他人の本性にからまれる邪悪を憎み、これに向って戦う。然し、決して現に邪悪の犠牲となれる人は憎まない。然し、ここに於いても仏教者の態度は、一々の邪悪を排斥するよりも寧ろ必要なる道徳を修養することに在る。何となれば、一つの性質を考えることは、単にそれを力づけることとなり、従ってそれを殺尽することは一層困難となるからである。
< 仏教と美 >
共通の目標に向かうべき一切の通路は三部門に分解されると謂われて居る。主として善に向うものと、美に向うものと、真に向かうものとがこれであり、それは倫理と芸術と哲学との道である。勿論、何れも完全なる人格に依って完成せられなければならぬものである。上来我々は第一と第三とに就いて以外は取り扱わなかったのである。第二はその全体が世界に宣布すべき苦悩済度の方法と言うよりは、寧ろ個性の自己表現の問題であろう。併し歴史は明らかに示して居る。何れの国に於いても、仏教勢力の頂点は、恒にその芸術の栄光を記録して居るからである。例えば支那の巧匠的手腕、少し後れて日本の建築的栄光は皆仏教的影響に帰するものであった。而して、近代の考古学者は、印度に於いて次第に仏教芸術の宝珠を発掘しつつあり、これ等は当時の印度大陸の栄光であったものである。美の道が、ある人にとっては目標に向かう正道であったことは、経集に見ゆる仏陀の聖語にも示されて居る。
『ある時尊者阿難は世尊に白した。神聖なる生活の大半は、麗しきものとの交わりであり、麗しきものとの親しみである』
仏陀曰く
『阿難よ、神聖生活の大半と言ってはならぬ。神聖生活の全体がそうである。麗しきものの友として恵まれたる比丘は八正道を履修し、聖地によるべきことを期待せられる』
然し、仏教者は抽象的美の尋求と、その敗滅的形式を峻別する。しばしば売笑婦的華美を見て
『心は怱ちに捕らわれる、何となれば、凡て斯る外見の無常性を考えないから起こるのである。愚者は外形を優勝なりと認める。如何にして物の虚偽性を見極め得るであろうか、恰も蠶の虫が自分の繭に包まれて自己安楽の愛に纏われるようなものである』
ここに仏教詩人の一見逆論と見ゆものの解決があるのである。西洋に於いては、しばしば美術家が、享楽的感覚を上手に複写する者として扱われる。それが花に関する短歌であっても、女性の美を描いた絵であっても同じことである。然し、純真の芸術家は単なる感官の鏡ではない。彼は寧ろ、常に我々の周囲に存立する不死の美に対する自己の鑑賞を表現し、且つその存在を、自身よりも感性の劣った人の心に痛感せしめんと努力するのである。尚再言する。それは超越的なる生命であって、決して一時的外面的形式ではない。
(クリスマス・ハンフレーズ)
< 新しい生命を与えた >
『仏教の本質的部分は今日に於いては印度教の主要部分を構成して居る。仏陀は嘗て印度教を排斥したことがない。彼は印度教の基礎を拡大し、新しい生命を与え、新しい説明を加えた。と言うのが私の熟慮した意見である』
(ガンジー)