<萩女と荻女>
〜 親鸞と辯圓 〜
「辯圓!」、彼の裏面に幾多の女のあった事を、伝説は、私に幾回囁いたかしれない。加波、筑波、板敷、那珂、久慈の山々、そこを根城として、活動した雄々しい辯圓、その背景に女がつき纏ふた。そしてその纏ふ女達は、互いに嫉妬しあって、彼に愛を求めて居た。
そうした女性のなかで、伝説は二女性の名だけを伝えてくれる。一人の女性は「萩」と云ふ。今一人の女性は「荻」と云った。その名は後世転化されたものか、或いはそのままを伝えたものか、明らかではないけれど、この「萩」「荻」の二女性があって、互いに争いながら修験者辯圓から離れない様、つき纏ふたのであった、辯圓の一般から崇敬さる立場と、彼の男らしい心にゾッコン帰依したのであろう。けれどもお互いに寂しさを持って居た、満たされない痛々しさ、打ち明けられない、綿々として心にまつわる、ある淋しさがあった。愛されんとする女、我がものにせんとする男。女は一生を男に捧げたい。男は立場と勢力と金力とで、次から次へと異性の旅を続けんとするのである。その第一歩を、この二女性は経験して苦しんで居たのであった。古来男は神の栄であり、女は男の栄である、女は一人で淋しくて生きられない、怎うしても聢(し)かとした男にたよりたい、これは女性の自然であろう。男には偉大な宗教家、哲人あろう、女にはそれはない。
「萩女」、「荻女」は愛を一身に受けることの出来ない女性であった。辯圓(修験者)には二人とも捨てられなかった、そのところに矛盾を感じ、罪を感ずる様な反省深いところがなかった、それがなければこそ僻むが事を敢えてしたのである。二女性は辯圓を中心にして男を自分のものにしようと藻掻いた。辯圓はそれをよい事にして居た。尚ほ外にも数多の女性があったが様であるが伝説は代表的女性としてこの二女性を伝えてくれる。
辯圓の護摩の功徳それはたいしたものであった。それほど豪族どもや土民は信頼して居た。彼に呪われの護摩を焚かれたと知った者は、もう病気になるか発狂した、また彼に祈りの護摩を焚かれた者は、その日から病気が全快したと云われるほど信仰が厚かった、関東の素純な民衆にはそうであろう、それであればこそ流行するのである。それほど簡易に信じられるから、効験があらたかであったのである。
もう彼に呪いの祈りをされたとなっては、何とも出来ない程、苦しんだのである。それであるから、気の弱い者はすぐ怪しい病気に罹って仕舞う。
そうした現世祈祷の盛んなところへ歩を向けられたのが親鸞聖人であった、越後で内観の深い宗教の境地を培われた聖人が、この素純質朴な関東常陸へ見えたのであるから、対照は実に極端と極端とである。あの聖人の信仰がどれほどまで関東の人達に理解され信ぜられたか、私にとって今日なほ一箇の宿題である。兎も角、信ずる人の出来た事だけは事実であろう、けれど蓮如上人当時の様な伝播力、天理教の様な拡張、それは決して当時には見ることができなかったであろう。
こうした常陸へ聖人の見えた事は、聖人にとりどれほど寂しい事であったかもしれない、その寂しさがあればこそ「親鸞一人がための弥陀の宗教」を獅子吼されたのであろうと思う。
あの辯圓に絡まる二女性、それは都の法師が越後から廻って見えた都の法師、護摩を焚かない、祈祷しない、やさしき都法師、それは如何に奇異に見えたかしれない。彼方の毘沙門堂、彼方の不動堂、或いは薬師堂、辻堂に物語って「法」を喜ぶ、変わった僧、それに心を惹かれたのは当時の常陸の民衆であった。辯圓にはそれは問題にならぬ、一些事としか見えなかった「何だあんなことをしたって何になるものか、親鸞とやらは関東を知らない」と軽く侮辱して居た。
この間に奇異の感をもった「萩」は、僧とは祈祷師、行者のこととばかり思ったに、一風変わった人がきた、その法談とやらを聞いて見よと云う心が起こった、そうしてかくれて聖人の教に触れたのであった、聖人も寂しい人である、荻女は「愛」を一身に集める事の出来ない焦燥の感に悩まされる矢張り寂しい女であった。「罪悪深重」、「煩悩熾盛」、その言葉は彼の女に強く響いた、世の中のすべては、空言、戯言である、心も変わる、物も変わる、諸行は無常である、ただ変わらぬは弥陀のまことである。念仏である。念仏のみぞすえ通った変わらぬものであるの御言葉に、どんなに驚かされた事であろう。
「ああ辯圓さんをたよった妾が間違いだ」と云う、深い自覚が内心に起った、こうして足しげく聖人の御話を聞く様になってから、彼の女は辯圓から姿をかくしてもう近づかない様になった。続いて「荻」も聞法の女となって、「あらッ、萩さんではありませんか?」と、そこに醜い嫉妬の二女性は、聖人の教の前に心底から懺悔して、手をとり、あやまりあったのであった。
続いて荻も辯圓から去る様になった。ここに果然起って来たのは、辯圓修験者の怒髪天を突くの瞋恚であった。馬鹿らしく滑稽で問題にならなかった親鸞が大問題になってきた。そして数十の末社を有し数百の弟子を持つ彼は、ここに何事かなさねばならない。
「汝都くだりのデレスケ法師めッ、俺の修法の魔力を知らないか、俺の愛人を二人まで奪うとは不届き千萬、そのままにしては置かない、それものども俺の力を見よ」と云って遠く親鸞の草庵を望んで、三日三夜あの板敷の護摩壇でサイトウ護摩を焚いて部下達に己惚の通力を表わさんとした、「都法師何かあらん」忽ち死んで仕舞うぞと、弟子達にほこりながら、炎々天を焦す護摩を焚いた、萩荻はどんなに恐れた事であろう。
聖人はその噂も聞かれた。その火も遠く望まれた。けれども何等歯牙にかけられなかった。護摩は終った、聖人には何んの変化もなかった。一層元気よく法の旅に東に西にと忙しかった、辯圓は弟子達に対しても面目ない、終に親鸞の頭を刄にかけてとるより外ないと決心して、草庵に出かけたのであった。
ここで本願力の宗教が、始めて関東常陸の野に炎々天を焦す以上の烽火(のろし)をあげたのであった、祈祷以上、護摩以上の未来往生の浄土の教はこうして不毛の地を「種」として下されたのであった。そしてこの呪の辯圓が聖人の愛弟明法となったのであった。恋に破れ、通力に破れ、始めて頭巾も弓矢も雑行も、雑修も、なぐりすてたのであった。明法御房の前身に絡まるロマンス、それより起る瞋恚の炎、そして聖人を殺害せんとする心、悪に徹底した人であった、寂しい人であった、それが終に聖人のふところに入って、弥陀の愛によって本当に生きる様になった、男に迷い、恋に盲目になった、萩も荻もただ念仏のみぞまことであるの「教」に参入した、悪人と女人それは終に聖人の宗教の正客であった。生半可善人、それは深い聖人の魂に喰い入る事は出来ない、罪悪に泣くことほど寂しい事はない、そして恋に破れると云う事ほどまた寂しい事はない、そうした生きた人間の問題が、本当の宗教を地上に持ち来すのである、おお悪人よ!寂しき人よ!私は常陸を旅しながら、そう叫ばずには居られない。
(寺西慧然)