< 種・人間の起原 >
生物の形態がおそらく少数でまた単純であった、地球の歴史の早い諸期には、変化の速度はたぶんゆっくりであった。そして、生命の最初のあけぼのにおいては、もっとも単純な構造をもつごく少数の種類があっただけであって、変化の速度は極度に緩徐であったと思われる。世界の歴史ぜんたいは、いま知られているところでは、われわれにとってまったく把握できないほど長くはあるのだが、それは今後、無数の絶滅した子孫および現生の子孫の祖先である最初の生物が創造されていらい経過した諸時間にくらべれば、ただ一片の時間にすぎないとみられることになるであろう。
私は、遠い未来においては、さらにずっと重要な研究にたいして、いろいろな分野が開かれるであろうと思う。心理学は、個々の精神的な力や可能性の、漸次的な変化による必然的獲得という新しい基礎のうえに、うちたてられることになるであろう。人間の起原と歴史にたいして、光明が投じられるであろう。
最高の名声をもつ著者たちが、おのおのの種は個々に独立に創造されたものであるという見解で、すっかり満足してしまっているようである。私の思うところでは、世界に住む過去および現在の生物が生じたりほろびたりするのは、個体の生死を決定するのと同様な二次的原因による、ということのほうが、<造物主>が物質に刻印した諸法則についてわれわれが知っていることと、いっそうよく一致する。私があらゆる生物を個々の創造物としてではなく、シルリア系の最初の層が堆積するはるか以前に生存したある少数の生物から系統をひいた子孫としてみるとき、それら全生物は気高いものになるように、私には思われる。過去から判断するなら、現生のどの一つの種も遠い未来まで自分に似た姿を変化させずに伝えることはないであろうと、推論してまちがいはないであろう。そして、現生の種のうちで、はるかに遠い未来まで、どんなようすのものであれ、その子孫をのこすのはごく少数のものにすぎないであろう。なぜなら、全生物が群にまとめられていくその様相は、おのおのの属の大多数の種、および多数の属のすべての種が、子孫をのこさず完全に絶滅してしまったことを、示しているからである。われわれは未来に予見的な目を向けて、最終的に勝利をえて新しい優勢な種を生じるのは、わりあい大きくて優勢な群に属し普通にみられる分布の広い種であることを予言できる。原生生物のあらゆる種類はシルリア紀よりずっと以前に生存した生物から系統をひく子孫であるから、われわれは、生殖による通常の継続はかつて途切れたことがなく、天変地異が全世界を荒廃させたこともないということを、確実であると感じてよいであろう。それゆえわれわれは、いくらかの自信をもって、それと同等に、想像できないほど遠いさきではあるが、確かな未来を、見とおすことができる。そして、自然選択はただおのおのの生物の利益によって、またそのために、はたらくものであるから、身体的および心的の天性はことごとく、完成にむかって進歩する傾向を示すことになるであろう。
いろいろな種類の多数の植物によっておおわれ、茂みに鳥は歌い、さまざまな昆虫がひらひら舞い、湿った土中を蠕虫ははいまわる、そのような雑踏した堤を熟視し、相互にかくも異なり、相互にかくも複雑にもたれあった、これらの精妙につくられた生物たちが、すべて、われわれの周囲で作用しつつある法則によって生みだされたものであることを熟考するのは、興味ふかい。これらの法則は、もっともひろい意味にとれば<生殖>をともなう<成長>、ほとんど生殖のなかに含まれるとしてもよい<遺伝>、生活の外的条件の間接および直接の作用によって生じる、また用不用によって生じる<変異性>、<生存競争>を生じさせまたその結果として<自然選択>をおこさせ、<形質の分岐>と改良の劣った種類の<絶滅>とを随伴する、高い<増加率>である。このようにして、自然のたたかいから、すなわち飢餓と死から、われわれの考えうる最高のことがら、つまり高等動物の産出ということが、直接結果されるのである。生命はそのあまたの力とともに、最初わずかのものあるいはただ一個のものに、吹きこまれたとするこの見かた、そして、この惑星が確固たる重力法則に従って回転するあいだに、かくも単純な発端からきわめて美しくきわめて驚嘆すべき無限の形態が生じ、いまも生じつつあるというこの見かたのなかには、壮大なものがある。
人間はある下等な生物から派生したという結論は、残念なことに、多くの人にはじつに厭わしく感じられることだろう。しかし、われわれが未開な原始人の子孫であることにはほとんど疑問の余地はない。荒れはてて蕭条とした海辺で、初めて一群のフェゴ島民を見たときに受けた感銘を、私は終生忘れることはないであろう。そのとき、すぐに私の心に押しよせてきたのは、このようなものがわれわれの先祖だったのだろうという考えだったからである。
フェゴ島民たちはすっ裸で、体には絵の具を塗りたくり、髪の毛は長く伸びてもつれあっていたし、興奮して口から泡を吹き、その表情は荒々しく、驚きに目をみはり、うたぐり深げだった。技術というものをほとんどなに一つもたず、野獣と同様、つかまえられるものを手あたり次第に捕えて食べ、生活していた。またいかなる形態の政治組織もなく、自分たちの属している小部族のもの以外には情け容赦もなかった。
未開人を現地で見たことのある人ならば、自分の血管にもっと卑しい動物の血が流れていることを認めるように迫られたとしても、あまりそれを恥ずかしいとは思わないだろう。私自身は、敵を苦しめて喜んだり、血に染まった生贄を捧げたり、良心の呵責もなく幼児を殺したり、自分の妻を奴隷のように扱ったり、礼儀も知らず、きわめて愚劣な迷信にとりつかれている未開人の子孫であるよりも、自分によくしてくれた飼育係の命を救おうとして、平生は恐れていた敵に勇敢に立ち向かっていったあのあっぱれな小さなサルとか、山から下りてきて、驚いているイヌの群れをしりめに意気揚々と若い仲間を連れ去った、あの年とったヒヒの子孫でありたいと思う。
人間が生物という階梯の頂上まで上ったのは、人間自身がもっている能力を発揮した結果ではないが、最高位にあるという事実をある程度誇りに思っても、それは許されるだろう。また初めから今日の地位に据えられたのではなくて、ここまで一段一段上ってきたのだという事実は、今後もさらに高いところまで上れるように運命づけられているのだという希望を、われわれに与えるであろう。だが、われわれはここでは、将来への希望とか危惧とかを問題にしているのではなく、理性のおかげでわれわれが発見することのできる真理というものを、最大の関心事としているのである。そして、私は私の力の限りを尽くして、その証拠をあげてきたのである。
人間はあらゆる高尚な資質をもち、どんなに品性下劣なものにも同情を寄せ、人間だけにとどまらずどんな下等な生きものにも慈悲心を及ぼし、神のような知性をもって太陽系の構成やその運行まで見通すなど、このような崇高な力を身につけているのだが、それでもなお、人間の体のつくりとか器官には消し去ることのできない刻印が刻まれていて、それが人間の起原の下等なものからの由来を示しているのだということを認めなければならないのだ、と私は考えるのである。
ダーウィン