< 第二次大統領就任演説 >



〜 リンカーン 〜








 両者(南北)とも戦争が現在のように拡大し継続するとは予期しませんでした。この戦いの終結とともに、あるいはそれ以前に、この戦いの原因となったものが消滅しようとは、両者とも予測していませんでした。各々もっと容易な勝利を予期していたのでありまして、またこれほど重大なまた驚くべき結果が生じようとは思っていませんでした。両者とも同じ聖書を読み、同じ神に祈りそして各々敵に打ち勝つため、神の助力を求めています。他人が額に汗して得たパン(創世記3・19)を奪おうとして正義の神の援助を求める人があるということは、不可思議に思えるでありましょう。しかしわれわれ自らが裁かれないように、他を裁くことをやめましょう(マタイ伝7・1)。両者の祈りが双方とも聞き届けられるということはありえませんでした。彼の祈りもわれの祈りもそのままには聞き届けられませんでした。


 全能の神は自らの目的を持ち給います。「この世は躓物(つまずき)あるによりて禍害(わざわい)なるかな。躓物は必ず来らん。されど躓物を来らす人は禍害なるかな。」(マタイ伝18・7)もしもわれわれが、アメリカの奴隷制度は神の摂理により当然来るべき躓物の一つであり、神の定め給うた期間続いてきたものであるが、今や神はこれを除くことを欲し給うのであると考え、また神は躓物を来たらせた者の当然受くべき禍害として、北部と南部とに、この恐ろしい戦争を与え給うたのであると考えるとしますと、それは活ける神を信ずる者が当然持ってもよい考えではないでしょうか。われわれがひたすら望み、切に祈るところは、この戦争という強大な笞(むち)【天からの惨禍】が速やかに過ぎ去らんことであります。しかし、もし神の意志が、奴隷の250年にわたる報いられざる苦役によって蓄積されたすべての富が絶滅されるまで、また笞によって流された血の1滴一滴に対して、剣によって流される血の償いがなされるまで、この戦争は続くことにあるならば、3000年前にいわれたごとく、今なお、(われわれも)「主のさばきは真実にしてことごとく正し」(詩編19・9)といわなければなりません。


 なんびとに対しても悪意をいだかず、すべての人に慈愛をもって、神がわれらに示し給う正義に堅く立ち、われらの着手した事業を完成するために、努力をいたそうではありませんか。国民の剣痍を包み、戦闘に加わり斃れた者、その寡婦、その孤児を援助し、いたわるために、わが国民の内に、またすべての諸国民との間に、正しい恒久的な平和をもたらし、これを助長するために、あらゆる努力をいたそうではありませんか。



1865年3月4日 (抜粋)





リンカーンは演説の数日後、手紙に次のように記している。

 「私はそれがただちに歓迎されるとは思いません。人々は神と彼ら自身との間に目的の相違があったということを示されて喜ぶものではありません。しかしこの場合その事実を否認することは、世界を支配する神がいますということを否定するに同じと思います」。


彼はその数週間後の1865年4月14日に暗殺された。