< 宗教上の信仰 >


〜 ダーウィン 〜



 この二年間、私は宗教についてたくさんのことを考えさせられました。ビーグル号に乗船中、私は全く正統派だった。私は、道徳上のある問題にかんし反論不能の権威として聖書を引用したことで、数人の士官(かれら自身も正統派であったのに)に思う存分笑われたことをおぼえている。かれらをおもしろがらせたのは、私の議論がもの珍しいものであったためだろうと思う。しかし私はそのころ徐々に、旧約聖書が、バベルの塔とか”しるし”としての虹とかのようなものを含む明白に誤りの世界史であることから、また復讐心の強い暴君の感情を神に帰していることから、ヒンズー教徒の聖典や未開人の信心以上には信じられないものであると見るようになっていった。疑問はそれからのち絶えず意識にのぼり、追いはらうことができなかった。・・・もし神がいまヒンズー教徒に啓示をあたえるとしたら神は、キリスト教が旧約聖書と結合しているように、その啓示がヴィシュヌ、シヴァなどへの信仰と結合されることを許すと信じられるだろうか。そんなことは全く信じられないように私には思われた。


 さらに、つぎのいろいろのことをいっそうよく考えることによって、すなわち、キリスト教を支えている奇跡を健全な精神の持主に信じこませるにははっきりした証拠が必要であるということ、・・・確定された自然の諸法則を知れば知るほど、奇跡はますます信じられなくなるということ、・・・その当時の人間はわれわれには理解しがたいほど無知で信じやすかったということ、・・・福音書はいろいろの事件と同時期に書かれたとは証明できないということ、・・・それらの事件は多くの重要な細部に違いがあり、それは目撃者にありがちな不正確さとして許されるにはあまりにも重大でありすぎるということ、・・・わずかでも新しさや価値があるというためではなく、私に影響を与えたという理由でここにかかげた、これらのいろいろの考えによって、私は徐々に神の啓示としてのキリスト教を信じなくなった。多くのまやかし宗教が野火のように地球上の大きな部分に広がったという事実は、私にとってかなり重大であった。新約聖書の道徳性は美しいけれども、その完全さは部分的には、いまわれわれが隠喩や寓言にあたえている解釈しだいだということは、否定しがたいのである。


 しかし私にとって、自分の信仰を放棄するのはとても不本意のことであった。・・・私は、確かにそうであったと思う。なぜなら私は、ポンペイその他の地で著名なローマ人たちのあいだにとりかわされた古い手紙や写本が発見されて、福音書に書かれているすべてのことをまったくみごとに確証するといった夢物語を、何度も何度もつくりあげたことを、よく記憶しているからである。しかし私は、空想を自由に働かせても私を確信させるにたりる証拠を発明することがますますむずかしくなるのを知った。こうして不信心は非常にゆっくりした速さで私にしのびよってきたが、最後には完全になった。その速さはまったくゆっくりであったので、私は苦痛を感じなかったし、また私はその後一秒たりとも自分の結論が正しいことを疑ったことはなかった。実際、私には、なぜ人はキリスト教が真理であるということを希うのか、理解しがたい。というのは、もしそうであるなら、聖書の言葉を文字通りにとれば、不信心の人たちは永遠に罰せられることになり、それには私の父、兄、ほとんど全部の最良の友人たちが含まれることになるからである。


 そんなものは、いまいましい教理だ。


 私は、人格神の存在については、私の人生のかなり後の時期まで考えたことがなかったが、私の到達させられたぼんやりした結論をここに述べておきたい。ペイリーが与えているような、自然の計画についての古い議論は、以前には決定的なもののように私には思われたが、自然選択の法則が発見されたので、もうだめである。われわれはもはや、たとえば二枚貝の美しい蝶番(ちょうつがい)が、ドアの蝶番が人間によって作られるのと同様に、ある知的な存在によって作られたに違いないという風に論じることはできない。生物の変異性の中には、また、自然選択の作用に中には、風がどんな道を通っていくかという場合以上には、計画など存在しないように思われる。自然界のすべてのものは、確定された諸法則の結果である。しかし、私はこの問題を著作『家畜および栽培植物の変異』の最後で論じておいた。私がそこでした議論は、私の知る限り反論されていない。


 しかしわれわれがどこででも出会う際限のない美しい適応を見ないでおいたとしても、世界が一般に慈悲深い配置になっているのはどう説明したらよいのかと、問われるかもしれない。ある著者たちは、世界の苦痛の総量に強く印象づけられていて、それでその人たちは、われわれが知覚をもつ生物の全部を見わたしたとき、そこには悲惨のほうが多いか幸福のほうが多いか、・・・世界は全体としてよいものなのか悪いものなのかを、疑問とする。私の判断するところでは、幸福が決定的に優越している。もっとも、これを証明するのはむずかしい。もし、この結論の真実性が認められるならば、それはわれわれが自然選択から期待しうる効果とよく調和する。その種の個体もすべて、極度に苦しまねばならないのが普通だとしたら、それらの固体はおのれの種類をふやすことなどは怠ってしまうであろう。しかし、こうしたことがかつて、あるいは少なくともたびたび起こってきたと信ずべき理由はない。若干の他の考察は、さらに、知覚をもつすべての生物は、一般的な規則としては、幸福をたのしむようにつくられてきたという信念に到達させる。


 すべての生物の、すべての身体的および心的器官(その所有者にとって有利でも不利でもないようなものは除けば)は、自然選択すなわち最適者生存と、また使用あるいは習性によって発達してきたものであると、私と同様に信ずる人はだれでも、これらの器官は、その所有者が他の生物との競争に成功し、それにより個体数を増やすようにつくられてきたということを認めるであろう。さて、動物は、痛み、飢え、乾き、恐れというような苦しみによって、・・・あるいは食べることや飲むこと、種を広げること、その他の喜びによって、あるいは食物を探す場合のように双方が結合したところのものによって、その種にとってもっとも有利な活動の道を進むようにされるであろう。しかし、どんな種類のものにしろ、苦痛あるいは苦悩は、長くつづけば衰弱を起こさせ、活動力を弱める。ところがそれは、生物がどんなに大きな、また突然の災害にたいしても自分の身を守れるようにするために、よく適応したものになっている。他方、快感は、衰退させる作用なしに長くつづくことができる。それどころか反対に、それは、系全体を、活動を高めるように刺激する。だからほとんどの、あるいはすべての、知覚をもった生物は、自然選択によって、快感が習性的な道案内の役をするように発達してきたわけなのである。こうしたことは、活動したことによってえられた喜び、ときには心身を大いに働かせたことによって喜びがえられることで知ることができる。・・・またそれは、日々の食事の喜びや、ことに社交および家族を愛することによる喜びのなかに見られる。これらの喜びには習性的なものもあり、頻繁に反復されるものもあるが、それら喜びの総量は、大多数の知覚をもつ存在にたいして、ときに苦痛を受けるものも多くあるにしろ、悲惨より幸福をずっと多く与えているということを、私はほとんど疑いえない。いまいった苦痛も、自然選択への信念と矛盾するものではない。自然選択の作用は、完全なものではない。そうではなくて、それはただおのおのの種を他の種との、おどろくべき複雑でまた変化しつつある環境のもとでおこなわれる生存のためのたたかいにおいて、できるだけの成功をおさめるようにさせるにすぎないのである。


 世界に多くの苦痛があるということは、だれもが認める。ある人たちはこのことを、人間にかんしてだが、それはモラルの改善に役立つというふうに想像して説明しようと試みた。しかし、世界中の人間の数は、他のすべての知覚的生物の数と比較すればなにほどのものでもなく、そしてこれらの生物はしばしば、モラルの改善はなしにいちじるしく苦痛を受けているのである。全世界を創造することができた、神のように力と知識にみちた存在は、われわれの限られた知力にたいしては、全能全智であるわけだが、その神の慈悲が無限でないと仮定することはわれわれの理解に反する。というのは、ほとんど無限の時間をつうじて無数の下等動物が苦痛を受けるということに、どんな利益もありえないからである。苦痛の存在は聡明な第一原因の存在に反するというこの非常に古い議論は、強い力をもつもののように私には思われた。だがしかし、いま上に述べたように、多くの苦痛が存在することは、全生物が変異と自然選択によって発達してきたとする見解によく合致する。


 今日では、聡明な神の存在を証明するもっとも普通の論拠は、ほとんどの人が経験する深奥の内的な信念および感情からひきだされている。しかし、ヒンズー教徒や回教徒その他も同じようにして、また同等の力をもって、唯一神あるいは多数神の存在を説くであろうし、また仏教徒のように神の存在を否定するであろうことは、疑いえない。われわれが神と呼ぶようなものを信じているとはどうしてもいえないような未開な種族も多数ある。それらの種族は実際に精霊や幽霊を信じており、タイラーやハーバート・スペンサーが示したように、このような信仰がどうして生じたかを説明することができる。


 以前に私は、いま言ったような感情によって(宗教的な心情がかつて私のなかに強力に発達したことがあったとは思わないが)、神の存在と霊魂の不滅とにかんする確固たる信念に導かれた。私は航海記のなかに、ブラジルの森林の荘厳のただなかに立っているあいだ、『私の心をいっぱいにし高揚させる驚異と讃嘆との気高い感情を適切にあらわすことができない』と書いた。人間には、単なる肉体の呼吸以上のものがあると堅く信じたことを、私ははっきりおぼえている。しかし現在では、その荘厳きわまりない光景も、私の心にこのような信念や感情をよびおこさせるものとはならないであろう。実際、私は色盲になった人間のようなものであり、そして、だれもかれもが赤い色の存在を信じているために、私の現在の知覚喪失は、証拠としてまったく価値がないものにされてしまっているといえるかもしれない。この議論は、もし、すべての種族のすべての人間が唯一の神の存在について同一の内的な信念をもっているのであったら、妥当なものとなるであろう。ところが、実際はまったくそうでないということを、われわれは知っているのである。だから、私は、このような内的な信念や感情が真に存在するものの証拠としていくばくかの重みをもつものであるとは考えられない。壮大な光景が以前に私にひきおこし、そして神への信仰と緊密に結びついていた私の心の状態は、よく崇高の感情と呼ばれるものと、基本的には違っていなかった。この感情の発生を説明することは困難であろうけれども、音楽によって起こされる漠然としてはいるが力強い、またはそれに似た感情と同様に、それを神の存在の論証としてもちだすことはむずかしい。


 不滅性にかんしては、それがいかに強力でまたほとんど本能的な信仰であるかを私に示すものはなんにもない。現在大多数の物理学者が採用している見解、すなわち太陽とその全惑星とは、実際に何か大きな物体が太陽に突入してそれに新たな生命を付与するのでなければ、時がたつにつれて冷却し生命が存在しえなくなる、ということについて考えてみればよい。・・・人間は遠い未来において現在よりはるかに完全なものになろうと私は信じており、もしそう信じるならば、人間およびその他の全知覚生物が、このように長くつづいたゆっくりした進歩の後に完全に絶滅すると宣告されているということを考えるのは、耐えがたいことである。人間の霊魂の不滅を完全にみとめる人びとにとっては、われわれの世界の崩壊はそれほど恐ろしくは思われないであろう。


 神への存在への信念のもう一つの源泉は、感情にではなく理性に結びついたものだが、それは、もっとずっと重みをもつもののように、私は印象づけられている。これは、遠い過去やはるかな未来までも見る能力をもつ人間を含めて、この広大で不思議な宇宙を盲目的な偶然や必然の結果として考えるのが極度に困難である。むしろ不可能であるということからの結論である。このように考えたときには、人間とある低度似た知性的な心をもった第一原因に目を向けることを余儀なくされるように感じる。この場合、私は有神論者と呼ばれてもよい。


 この結論は、思いだせる限りでは、私が『種の起原』を書いたころ、私の心のなかに強くあった。そしてそれ以後に、たびたび強くなったり弱くなったりしながらだが、きわめて徐々に弱まっていった。しかしそこで疑問が生じる。・・・人間の心は最下等の動物がもっていたずっと低度の心から発達してきたものだと私は完全に信じているがそのような人間の心を、それがこのように偉大な結論をひきだせるものだと、信用してよいのであろうか。それらは、必然的なものとしてわれわれに感じられる原因と結果の間の結合の結果なのではなくて、おそらく単に、遺伝された経験によるものにすぎないのではないか。またわれわれは、子どもたちの心に神への信仰をいつもいつも教え込み、子どもたちのまだ十分に発達していない頭に非常に強い、そしておそらくは遺伝される影響を生じさせ、それで子どもたちが、サルがヘビへの本能的な恐怖と憎悪を捨て去れないのと同様、神への信仰を捨てるのが困難になるということがありうることも、見のがしてはならない。


 私は、このような深奥な問題に少しでも光を投じえたかのようによそおうことはできない。あらゆる事物のはじめという神秘は、われわれには解きえない。私個人としては不可知論者にとどまらざるをえない。


 人格神の存在、あるいは応報のある来世の存在を、確固としてまた永続的に信じているのではない人は、私がみるかぎりでは、その生活の規則として、ただもっとも強い、あるいはその人にとってもっともよいものに思える衝動や本能に従うことだけしかできない。犬はこのように行動するが、それは盲目的なものである。他方、人間は、前後を見、自分のいろいろな感情、欲求や記憶を比較する。そうすると、もっとも賢明な人びとの判断と一致して、もっとも高度の満足はきまったいくつかの衝動すなわち社会的な諸本能からえられるということが、知らされる。もし人が他人のためになるような行為をすれば、その人は仲間からほめられ、ともに生活している人たちから愛される。このように愛されることは、疑いなく、この世で最高の喜びである。人はしだいに、自分の高尚な衝動をこえて感覚的な激情に従ってしまうことがどうしても我慢できないようになる。そしてその高尚な衝動が習慣的になると、それはほとんど本能と呼んでよいものになる。かれの理性は、ときおり、他人の意見に反対して行動するようにかれに命ずる。他の人々の賞讃は、そのときには受けられない。しかしそれでもかれは自分の内奥の導き、すなわち良心に従ったということを知って真の満足をうるであろう。・・・私自身について言えば、私は終始変わりなく科学に従事し自分の生涯をそれに捧げるという点で、まちがいなく行動してきたと信じている。私は、なにか大きな罪を犯したということで悔恨を感じてはいないが、しかし同胞にもっと多く直接の善行をしなかったということを遺憾に思ってきた。私にできる唯一の貧しい弁解は、自分が非常に病身であるということと、私の心の構造が一つの問題から他のものに転換するのを非常にむずかしくさせるようなものだということである。私は自分の時間の一部ではなく全部を慈善のためにあてることを空想してたいへん満足することができる。そのほうがずっとよい生き方であったかもしれないのだが。


 私の後半生でなによりもいちじるしいのは、懐疑主義、あるいは合理主義がひろがっていったことである。私が婚約するようになる前に、父は私に、自分の懐疑は用心深く隠しておくようにと忠告した。こうしたことで起こった極度の不幸を自分は知っていると、父は言ったのである。妻または夫が健康でいるあいだはうまくいっていたのだが、病気になると、ある婦人たちは夫(の魂)が救済されるかどうかを疑ってみじめに苦しみ、夫のほうも苦しむようになってしまった。父はそれにつけ加えて、自分の長い一生のあいだにたった三人だけ、懐疑家であった婦人を知っていたと言った。父は非常に多くの人びとをよく知っており、しかも信頼をかちえる非凡な力をもっていたということを、思いだしてもらいたい。その三人の婦人というのはだれだったのですかと私がたずねたとき、父は、その一人である自分の義妹キティ・ウェジウッドにかんしては、じつは十分な証拠はなく、ただきわめて漠然としたヒントだけであり、非常に明敏な婦人は信仰者でありえないという自分の信念が加わっているのだということを、みとめねばならなかった。現在では私は、私の数少ない知人のなかでも、夫よりもずっと信仰の薄い既婚女性を幾人も知っている(あるいは知っていた)。父はいつも反論できない論拠を引きあいにだしたものだった。それで、父が異端なのではないかと疑っていたバーロウ夫人という老婦人が父に回心をねがってつぎのように言った。

『先生。私はお砂糖を口にいれると甘いことがわかります。私には救世主さまが生きておいでのことがわかります』




(「ダーウィン自伝」より)