仏教思想 U



 仏教は、字義通り、仏陀の教えであるが、同時に、又、仏陀に成る教である。勿論、仏教のある部門においては、必ずしも、仏陀と成る教とはせられていないこともあるが、然し、一層高次の立場から見れば、それは中途に放浪しつつ、而も、それを最高と見做している程度の考えに過ぎないのであるから、結局は、仏陀と成ることに努力しているものとなされねばならぬものである。故に、仏教本来の性質からいえば、その総ての説は、仏陀と成ることを教えるものであるといえる。仏陀とは、簡単にいえば、絶対に完全な人格の謂いであるから、従って、仏教は、即ち、広い意味での教育に外ならぬものである。然らば、又、同時に、これを実践する立場からいえば、仏教は、即ち、広い意味の倫理、道徳の道であると言わねばならぬ。然し、仏教は、いうまでもなく、一の宗教とせられているのであるから、仏教を以て、教育倫理に過ぎないと言えば、そこには、宗教と、教育、倫理との異同、又は関係、如何という如き、所謂根本的の問題が提出せられることになるかも知れぬが、宗教も教育倫理も、何も、凡て、人間を対象となしている教えである点からいえば、その相互の異同、又は、関係の究明は、寧ろ、枝葉の問題であって、決して、性質的の根本差異あるものでなく、恐らく、観点の相異と、説き方の不同となどに帰着するであろう。少なくとも、仏教としていえば、立場の相異によって、教育ともなり、倫理ともなるのであって、両方面相依って、仏教の最高目的が完成せられることになるのであるといえよう。


 大乗仏教自らとしては、大乗仏教を仏教一般の一部門と考えて居るのでは無くして、大乗仏教は仏教の全体であり、総ては大乗仏教に外ならぬと見るのであるから、この点からいえば、大乗仏教に対する小乗仏教なるものはあり得ないのである。


 仏陀の直弟子は生前の偉人格を追想するから、追想が切であればあるほど、仏陀は、歴史性を離れて、理想化せられるに至るが、更に、これを承けた次期次期の諸弟子仏教徒は、この理想化せられた仏陀のみを聞きつつ、而も、自ら学び又行う仏教が理解にも、実修にも、容易でないことを経験する度に、これを無師独悟したのが仏陀であることを思えば、その仏陀は、全く、人にして人にあらざる超人であらねばならぬという信仰を有するに至るであろうし、又、実際、しか信ずるに至ったのである。かく仏陀を超人視する信仰は、遂に、一般に行なわれることになったが、この信仰が、仏陀観発達上、極めて重要なるものとなっているのである。

 然し、超人視することが、単なる信仰にのみ終ったならば、或は、時の経過と共に、全く消失することになったかも知れぬが、幸いに、この信仰は、当時の仏教教理によって根拠付けられるに至ったから、爾来、仏教発達の根底をなすこととなったのである。仏教の教理として重要なことは、善因善果、悪因悪果の道徳的因果律である。果の多寡は因の多寡に報われたものであり、因の良否は果の良否を規定するから、因と果とは等量等質でなければならぬ。然らざれば、教育倫理も成立しないし、日常生活が不可能である。従って、この観点に立てば、超人たる仏陀には、それが果であるから、それに相当するだけの因がなければならぬ。その因は仏陀の過去の生存に於ける偉大な善行であるとせられるから、仏陀は前生に於いて、幾回も、既に、四海を統一して善政を布いた転輪聖王となり、又、数々、善良無比の輔弼大臣であったという前生談、又は本生譚、が事実として語られるに至った。而も、超人の信仰が強まれば強まるに応じて、本生談は益々多く語られたのであるが、前生談が、既に、経の中に含まれているから、これによって、仏陀の超人たることは因果律に基づいて、不動なるものとなり、信仰は教理に基づく信仰となった。


 この如き超人仏陀が、如何にして、一般人と同じく、八十歳を限って、入滅するに至ったか。入滅が、仏陀にも、不可抗力のものであるとすれば、仏陀が超人たる点と矛盾するではないか。従って、これが解釈について、種々に、考察廻らされたが、遂に、化縁完了と、任意捨命とによって解答するに至った。化縁完了と、任意捨命とは、仏陀が衆生を教化する機縁が完成して、もはや、現世に生存する要も無くなったというのと、従って、自由意思によって、任意に寿命を捨てて、入滅したのであるとなすのとの意味である。


 大乗仏教からいえば、仏教の凡ては真理を表しているものであって、決して、仏教で説くが故に真理、仏教以外のものが説くは真理に非ずと考えているのではなく、苟くも、真理たらば、これ、皆、仏教たるに外ならないとなすのである。即ち、大乗仏教の説く教育、倫理、人類凡てに、普遍必然的に妥当すべきもので、凡てをして完全なる人格者たらしめる教説たるのである。


 小乗仏教は、戒律を厳守することを以て、仏教を維持する所以と見た為に、形式主義に陥り、戒相の正しきもののみが真の仏教者であるとなし、これによって、在家信者と、出家比丘とを峻別せざるを得ざることとなり、その結果、自ら、世外に超然たるを好しとなした如き極端に奔り、ここに、世間と、出世間とを別って、出世間には、一種神秘的の権威あるかの如く見るに至った。その精神、又は、趣意、に於いては諒とすべき点も存するが、然し、人間社会を教導すべき仏教としては、恐らく、邪道となった点なしとはいえない欠点を含む、というべきであろう。これに対して、大乗仏教は、その一部に於いては、以上の型を、完全には、捨て得なかったにしても、むしろ、実社会に即する方面を強調し、形式よりも、実質を主とし、何人によっても、条件を問わず、実践し得る説を与えることに努力した。従って、何れの行をなしつつも、これ、皆、仏陀と成る行に外ならぬとなすから、かかるものを、凡て、菩薩と称する。


 自というのは、通常の対立的自他を含めた自であり、他というも、亦、同じく、対立的自他を含めた他である。この点に於いて、宗教的に自利と名づける行の内容が利他であることは、事実上、可能であり、利他は、又、自他両利を成立せしめる利他であることは明瞭である。この如き自他融即を基となすから、大乗から見れば、小乗の自利も、そのままで、大乗の利他に契うているとなすを得るのである。


 大乗では、この自他を含む大なる自の心を理心と称し、自他を考える心を事心と名づける。理心は真心とも、一心ともいい、縁慮作用をなすものでは無く、理そのものであるとなすのである。この点から、一切凡ては、唯心のみとなすことになるから、空の実践は、この唯心の実践であることになり、大乗倫理は唯心の倫理となるのである。


 仏教でいえば、真の智慧は、必ず、禅定によって、生じ、又は、明かとなったものでなければならないのである。


 大乗極致の説では、理を仏陀としてこれを法身と呼べば、人類凡ても、亦この理の現われに外ならぬから、如来蔵仏性で、この点でいえば、衆生も仏陀と性同であるとなしている。而も、仏性如来蔵は吾々がこれを有するとせられると同時に、吾々は法身という大海中の一波浪に外ならぬとなすから、必ずしも、修行を俟って、初めて、仏陀たるのではなくして、既に、最初から、仏陀に外ならないのであると見るに至ったのである。


 禅系統は、仏心宗とも称せられる如く、直に仏心に参ずる行の宗であって、一般仏教を凡て経説に拠る教となして、自らは、これに対して、教外別伝となしている。常に、その要旨を直指人心見性成仏といい詮わす如く、心がそのままに仏陀に外ならぬとなすのであるから、心性を頓悟することが、そのまま、仏たるのであるとなす。見性は性を見るの意味ではなくして、性を見(あら)わすの意味と見るべく、而も、性を見わして仏陀に成るのではなくして、性を見わすことが即ちこれ仏陀たるのであるという意味になる。見性は、故に、頓悟であって、自己即仏と体達するのである。


 頓悟者の行は、凡て、仏行であるから、その為す利他は仏行としての利他である。故に、吾々にして、もし即心即仏を覚悟するならば、それ以後の日常行事は、凡て、仏作仏行となるのであって、決して、漸進漸悟の手段たるものでなく、而も、職業そのものに貴賤の別が無いから、一一の為す所が、一一完全性を有することになるのである。


 一般仏教の形式に従えば、勿論、仏前に於いて、身心凡てを捧げて、自己そのものを発露白仏するのであるが、然し、これのみが懺悔の形式ではなく、理を観ずるのも、亦、懺悔である。この懺悔によって、自己を殺し尽くすとき、凡てが他に支えられて、却って、大なる自己として活きるを得ることになるのである。


 帰依三宝は理に帰依することであり、理は自心に現われるのであるから、従って、自心に帰依することになるのである。


 釈尊から起こった仏教なるものが、遂に釈迦仏を離れて、普遍的となったもので、一見奇なるかの如くであろうが、然し、そこには、何れも、歴史必然の発達が存するのであって、その点の根本は、既に前述した中にも、多少触れられていたと考える。而も、かかる発達変遷の中でも、凡てを自力と他力とに判つものが、今ここで注意に価すると思われる。自力門は浄土他力門以外の凡てを指すが、自力門なる名は、自力門と呼ばれる内から起こったものでは無くして、自ら他力門と称する側から、命名せられたものであり、そして、自力門としては、恐らく、上に述べた禅系統が、殆ど、代表的なるかの如く見られているといえるであろう。これ、禅系統に於いて、第一義的に言詮わす時は、諸仏を殺し祖師を罵り、仏の一字すら心田の汚れとまでなすから、自ら仏祖を代表すると任ずる程であるが為であろう。今、且らく、自力他力の教義教相を離れて、一般的に観察すると、ここに、大乗仏教の趣意の表れているのを看取し得られるであろうと思う。


 自力は、自が他の一切の中心として、あらゆる他を生活せしめる方面を見たものである。自力を単なる個人的とのみ見て、吾々には聖道門を実践するの力なしと難ずるのは、第一義門よりは、むしろ浅薄と評すべきで、当たっているとはいえない。事実上、自力門に於いては、最初に先ず、自を殺すことを不可欠の必須事となしている。然らざれば、自は全く個人的を出づることにならないからである。勿論、個人的を殺さずして、自のみに恃むものもあり得ようが、この如きは仏教ではなく、人間的でないから、問題として評破するの価値もない。故に、実際は、自の全く無力なることを実感し、自を全部他に託し終るべきであるが、この際、理のみの世界となり、理が自に現われて来るから、自力は、結局、理力である。或は、逆に、自心の心性を徹見することによって、個人的が無みせられ終るにも至るのである。何れにあっても、そこに大なる自信が現われるのであろう。而も、この如くに、自力は理の動きの現われであるから、一切を成り立たせることになる。然し、既に動きであるとすれば、そこには、他と対立的な自が存するのではないから、もしこの理の動きを、他力と言い詮わすとすれば、所謂自力は他力でもあるといえよう。然し、理の動きは自に現われるから、理は自の外の他では無い。即ち、そこに、菩提心、即ち自信、の発現となり、倫理がそのまま教育、教育がそのまま倫理となっていることになるのである。

 自力と、他力とは、畢竟、見方の相違に帰着するであろうが、他力は、一応、どうしても真の向かう対象的のものを立てざるを得ないから、たとえ自の全部をその中に融没せしめ終るとしても、いはば、大なる他の中に自他が存していて、その対象的のものが自とはなって来ない。この点に於いて、俗諦的の見方を離れていないといわねばならぬが、自力は対象的のものを立てずに、他を凡て自の中に含ましめる趣意であるから、むしろ、真諦的であるといえるであろう。然し、自力も、他力も、実は、自他を融即した無差別平等の、差別的に現われた所に、立てられた区別であるから、俗諦的、真諦的というのも、亦、真俗を超越し、真俗を含む高次の理が、差別的に動く所を見て、方面を異にしたものに過ぎないのである。従って、これ、決して、対立的、又は、排他的と見るべきではない。以上の如く見れば、大乗の倫理は、日常生活に於いて、或は自力的に、或は他力的に、各、その性能を尽くして、行ずる所に存するといえることになるであろう。


 自力と他力との法門は、印度にも、支那にも、あったものなることは言うまでもないが、然し、自力と、他力とが明瞭になったのは、恐らく、我国に於いて、殊に鎌倉時代以後に於いてであって、この点は、印度、支那の及ぶ所ではなかろう。この自力と他力とは、大乗に於いて、初めて、現れた訪問であって、而も、前述の如く、実は、自他の融即した無差別の上に、差別せられた二門であり、数々いうた如く、理の現われの差別であるから、理から出でて、分かれて見える二門とせられるのである。然し、この点には、更に、一歩を進めて考察を加うべきものがあろう。


 悟りを果と言詮はせば、一切は果であって、その果から一切を眺めるから、たとひ未だ悟らないと言われるものでも、凡て、この果上のものであるとなして、悟りから凡てを説くことになる。厳密にいえば、悟らざるものは存しない訳で、所謂未悟は唯果上のものとなることを意識しないまでのものを指すに過ぎない。この見方を、前のに対して、従果向因と称し、又、これを本覚の法門と名づける。凡てを悟りの世界と見るのであるから、一法も捨つべきものもなく、一切は先天的に、既に、救われているのであり、又、この意味で日常の行事は、皆、仏作仏行であるとなされるのである。始覚法門は根本智を得るまでの方面、本覚法門は後得智で凡てを見る方面に当たる如くであるが、本覚法門はそれと異なって、凡てが根本智を得ていると見る見方のものである。この見方が日本仏教の特色であって、日本佛教は印度支那の仏教のそのままでは無いといわれる点の一つである。


 真言宗は、殊に、無相を有相で、理を事で説く説であるし、日本天台は、更に、平安時代の中頃よりは殊に本覚法門が盛となって、事をそのまま理と見るから、眼前の事物一一を本有無作の仏陀となし、この土がそのまま仏土であり、必ずしも、擬人視して仏陀となすのでは無いといわれる程である。勿論、実際上、汚穢もこの土に存すると見られるであろうが、これは、大乗として言えば、凡て見る者の心に差別観の見が存するが為である。従って、仏見に立てば、一切は汚穢なく、清浄ならざるは無い。


 自力としての禅宗は、学者数々、支那の禅宗そのままを伝えたものに過ぎぬとみなすこともあるが、実際は、決して、そうではない。支那禅が理から事の現われる方面を主となしたのを、日本禅に於いては、これを転換して、事即理の説となったもので、まさしく、本覚法門と揆を一にしている。


 人は凡て仏陀という絶対完全な人格者たらむとして、努力しつつあるに外ならぬものであって、決して、大乗人のみが仏陀たり得るとなされる所以はない。


 一乗は一仏乗であり、一仏乗は即ち大乗で、これは仏教と同じであるとすれば、仏教は仏の教で、又、同時に、仏に成る教であり、一仏乗は仏と成る教えであり、道であるから、従って、ここに仏とは何ぞやという問題が起るのである。仏は仏陀ともいい、覚者の意味で、覚には自覚、覚他、覚行窮満の義がある。自覚は自ら悟ること、覚他は他を覚らしめること、覚行は今いう両方面の覚の行をいい、窮満は完全という意味。自覚は、結局は、智で、仏陀の有する一切智である。智と名づけているのは主観的に見ているからであって、元来、この智は理と不二たるものである。智の名が主観的であるから、これに対すると、理は対象的に見られるから、理は客観的の名であるが、智も理も絶対的であるから、この二が相対しているのではない。故に、本来は理智不二で、二と分かれているのではないから、智と名づけるにしても、特に無分別智と呼ぶ。理は事に対する名であるが、事は現象で、差別対立しいるものを指し、理は無差別未対立の絶対であるから、宇宙一切に遍満し、凡てを支配維持し、凡てをして、各そのところを得しめている真如である。理そのものとしては、常に、隠れる所なく、顕れているが、知られることが無くば、明かとはならないから、知られると見るとき、これを智と名づけることになるのである。これが無分別智であるが、智そのものとしては、必ずしも、その働きを考えずとも差支えないにしても、理が、既に、働を内含しておらねばならぬから、無分別智としても、亦、働を内含しておらねばならぬ。無分別智が働を表したときは、これを後得智と呼び、これは覚他に当たるのであるし、また、一切種智とも称する。この覚他の方面が仏教となっているに外ならないが、その覚他の現われの一段が、印度の釈尊となったのである。印度の釈尊が説いた教であるから仏教と呼ぶのではなく、理と不二なる無分別智が仏そのもので、これが覚他の働を表し、後得智が実際に働く為に、言語を発する人的の形相を取って教として説いたから、その形相も仏である点で仏教と称せられるのである。釈尊は人的形相の中の一に過ぎない。従って、仏教は釈尊の説いた一定特殊の宗教としての仏教とのみ解すべきではなくして、無差別未対立の理が動いて、差別対立の事となっての教的組織である。然らば、必ずしも、仏教と名づけなくともよい道理であり、実際、仏教と呼ばなくともよいが、慣例上、仏教と呼び做しているに過ぎないのである。人たり限り、何人か、今いう理に従わないものがあろうか。人々が日常生活していることが、即ち、これ理に従いつつある所以である。故に、一乗といわれる大乗は勿論のこと、小乗に対する大乗も、また、大乗と対する小乗も、仏教と呼ばれる特定の一宗教の各一部門であるとか、又は、修養の仕方に対する解釈であり、その仕方の指示と、仕方の道とをいうに外ならぬ、と見るべきである。実大乗の極致の考はかくあるべきである。


 仏教は歴史的に見れば、印度に生まれた釈尊の説いた説であり、釈尊が仏陀で、全く、史的人物であったのである。釈尊は仏陀伽耶で成道して仏陀、即ち覚者、となった時、法の根源に徹底し、それに契当し、それを体現して、一切の勝者、一切の知者となったと覚したのであるが、これが釈尊の自覚であり、それが、直に、覚他に向かって、以来、45年間の教化運動となったのである。一切の勝者というのは、一般人としての凡ての心的悪徳を克服制御したから、すべてに打勝ったものと言われるのであり、凡ての悪徳が征せられて、完全な人格となれば、智の本性が全露するから、一切知者と言われるのである。従って、この仏陀の下に集まった弟子信者は、多数、又、複雑であったが、これ等から見ると、仏陀は、現前に、人として現われて居りながらも、人以上の仏格者であるとして、信じられていたのである。仏教で用いる法という文字は、広くいえば、少なくとも、教と、善行と、ものと、理法との四義を有するが、この中、理法の意味が、この語から見て、第一義的のものである。故に、法の根源に契当し、それを体現したといえば、この根源的の法と成ったことを意味するのであって、これが仏陀の自覚であり、弟子信者の見た人以上の仏格者であるに外ならぬのである。従って、仏陀の感化は偉大であって、弟子信者は、仏陀に生命を託してまで、随従し、仏陀を偉人と見、又、超人と見ていたのである。然るに、この仏陀も八十歳で入滅し去ったから、そこに、弟子信者にとって、突如として、大問題が提出せられたことになった。即ち、仏陀は法の根源に徹した偉人であり、超人であるのに、一般人と同じく、八十歳程にして死滅し去ることは、何としても、解けざる問題であったに相違ない。勿論、仏陀入滅の直後に、弟子信者が、かかることを問題としたのでは無く、弟子信者は、ただ生前の偉人たる、又、超人たる仏陀を追想し、その大人格を回想していることのみであったであろうが、この追想の間に、右の大問題が考察に上がって来て、種々に、研究せられることになったのである。然し、その追想は、漸次、仏陀を、全く、理想化するに至るのが必然の経過である。従って、次期次期の諸弟子法孫には、仏陀は、全く、理想化せられた超人とのみ映ることになるのであるが、この超人視の信仰が、遂に、仏陀を、全く、歴史以上となすに至るのである。然し、超人視するのみでは、それは単なる信仰であるが、この信仰に教理的の根拠が与えられるに至って、確固たるものとなった。教理的の根拠というのは、善因善果、悪因悪果の道徳的因果律と結合したことであって、仏陀が超人たる為には、それに相当する原因があったからであるとなすことである。仏教に於いては、この道徳的因果律は、最も重要な、根本教理であって、これ無くしては、仏教は成立しない、のみならず、凡てのものの、日常生活が成立しないとなすのである。


 仏陀の一生は、全く、自由意志に由るものであったとなすのである。然らば、仏陀は、何が為に、世に出生し、入滅したかといえば、これ、一に、衆生を教化し、済度する為であったと見る外には見方はないから、仏陀は、全く、衆生を教化せむとする誓願の力で、出生したに外ならないと言われるのである。故に仏陀は、業力所生でなくして、全く願力所生である。


 禅は、仏心宗といわれる如く、仏の心を伝えているとなすから、禅以外の仏教は仏語宗となる理であり、経中の言語の教える所を主となしているとみるのである。常に譬えられる如く、教は月を指示する指であるが、禅は、直に、月に当たるとせられる。蓋し、仏語は心を宗となすといわれ、語の示す究竟的のものは心であるから、語に立つ諸宗派は、心に至る道を組織的に示したものに過ぎない。故に、心を伝えている禅は、即ち、不立文字、教外別伝であって、以心伝心に外ならないのである。既に伝心というとすれば、そこには仏心を伝えた遞代の祖師がなければならぬ。ここに、禅宗の伝統説の起る所以があり、西天二十八祖、東土六祖等がいわれるのである。心というについては、仏教一般として見るに、事心と理心とが説かれている。事心は縁慮をなす心であるから、日常心であり、理心は、縁慮の用のない堅実心であり、自性清浄心とも、仏性とも、如来蔵とも、称せられる心である。畢竟、これ理を心と言い詮はしたのに外ならぬ。前に述べた理は、元来何処に求められるかといえば、大乗仏教として見れば、心に求める外なきものである。既に、智と不二即一であり、智は主観的であるから、理も、決して、外部に存するものでないことは言うまでもない。然らば、理仏としての法身も、これを心に求める外なく、心が法身ならば、その心は理心でなければならぬ。これを自性清浄心と呼び、仏性、即ち仏そのもの、と称し、更に、理心が日常心と共にあると見たとき、特に、如来蔵と名づける。


 直に、心に徹することを実行するのである。この徹することを頓悟といい、また、即心即仏とも、即心是仏とも、是心即仏とも、非心非仏ともいう。これが即ち禅である。


 禅では、むしろ、直指人心見性成仏というている。見性は性を見るの意ではなくして、性を見(あら)わすの意味に見るべきであり、而も、性を見わしてから後に仏と成るというのではなくして、性を見わすことが、そのまま、仏たるのであるという意味である。成仏は仏と成るというよりも、仏と成って居るの意味に見ねばならぬ。故に、頓悟は仏たるの自覚である。この自覚を保持することによって、以後、日常に思惟。言語、動作、凡てが、仏思、仏語、仏行となるのであり、従来の貪怒愚が戒定慧となり、煩悩即菩提、生死即涅槃となるのである。故に、これ頓悟成仏であって、この外に、別に、仏が存するのでは無い。即ち、直に無差別平等の理に徹して、そして、理が事と現われる現われ方に沿って、思惟し、言語し、動作することになるのである。


 吾々は、決して、その努力を放抛して、自爆自棄に陥るべきではない。実現すべからざる最高次の理想を追って、無限の努力精進をなす所に、人生の真意義があるのであって、弛緩退嬰とならずに、緊張前進となるのが、吾々の本然の姿であることは、何人にも否定はせられない所である。


 禅は、一般にいわれる如く、自力法門の代表的のもので、この点では、他力法門と両極的の対立をなしているともいえる。禅の自力は、そのままでは、如何にも、個人的の自力である如くに見えようが、然し、禅ほどに、自力を排外するものも、少ないであろう。自力の分別を行詰らせて、何とも考えの出ないようになすから、譬えによって、鼠入銭筒伎既窮といわれる程になる。かく自力を徹底的に否定することによって、そこに大なる自力が顕れて来るのである。


 思想的に見れば、大乗仏教の方が仏教本来の正系で、小乗仏教は傍系というべく、歴史的発達返還の表面的傾向からいえば、出づべくして出でたのが小乗仏教で、これに対して、一種反動的進歩的に発達し出でたのが大乗仏教であるともいうべきであろう。


 我とは何ぞ。仏教は、その最初から、我なるものを認めることがないのであるから、我の考えは仏教から起こったのではなくして、仏教以前、又は、仏教当時の、一般の考えを借用しているものに外ならなぬ。この借用せられた方面を見れば、我の考えは種々に分かれている。ウパニシャッドの如きは、我は宇宙を生ずる実体であって、従って、この我から生じた一切のものは我に外ならぬとなし、同時に、個人個物でいえば、一一に我が存するとなすが、ヂャイナの如きは一我を認めることなく、而も、一切を生命あるものと否とに分ち、その生命を実体視して、我となしている。


 仏教は、独り、無我を主唱するのであるが、この無我の考えは、決して、本来の有を無となす損滅の考えではなく、却って、実有ならざるものを有となす増益の考えに対して、これを正しきに復せしめるものとなすのである。


 縁起説は、一切の実態を無みして、凡てを関係依存性として見ることであって、諸行無常といわれる点からいえば、一切は統一せられた相依関係の不断の連続であって、岸も一点もない流れのみとなす考えである。


 空は、実に、仏教をして仏教たらしむる所以のものであり、小乗仏教すら、この根拠を取り入れられて、それぞれ活躍するを得るに至るのである。従って、小乗仏教が小乗仏教の立場のみに終始して居れば、たとえ、それが仏教ではないとなすを得ないにしても、また、これ、法執に執われたるものに過ぎぬものになり終るのである。


 自他を融即することは、即ち、無我たることであるが、この上に立てば、自というも、対立の自他を含めた自であり、他となすも、対立の自他を含めた他であって、自我直に他であり、他がそのまま自である関係になっているのである。そこに、初めて、真の利他が現われるのであるが、実際は、これを自利と言詮わしても、何等差支えないものである。大乗仏教の利他は、まさしく、自他を融即した上に於いて、説かれるものである。これ、全く、空思想を根底となすが為に外ならぬ。

 我空法有と我空法空とを通じて最も重要なる中心点は、一切は心の現われに外ならざること、一切は心に考え浮べられた限りのものなること、換言すれば、一切は心のありように応じているもの、という点である。仏教に於ける諸方面の実践の意義は、凡て、ここから出づるに外ならぬと考えられる。


 仏教は印度思想の一産物に過ぎないが、然し印度思想の中に於いて、他の総てと全く異なる思想に立脚している。それは何かといえば、確かにこれ空思想である。この空思想こそは、仏教が印度に起りながらも、印度のものとしてのみは終始しない根本基調であると考えられる。


 仏教の主張としては、一切皆空は決して一切虚無の意味ではなく、また決して経験的事物をそのままに否定せむとするのではないから、対破に価しない如きものではない。


 吾々は通常自己を考える時には、かかる主観を指して自己となしているのではなくして、自己の心、自己そのものを考える時、その自己が何を考えていたかを反省する場合に現われる如く、対象と相対する主観を以て、自己となすのである。かの絶対に対象化せられない真の主観は、即ち、対象とそれに相対する主観とを結び付ける基底をなしているものである。故に、この点から見ると、以上の考え方に於いては、真の自己、真の主観は、実は、常に対象とそれに対する主観との、いはば、圏外に在って、一種第三者の如くになっているといわねばならぬであろう。印度一般の考え方は以上の如き種類のものが多いのであって、勿論、仏教の中に於いても、亦、この考え方が存するのを見るが、然し、仏教の空思想としては、これとはその考え方を異にしているから、その間の区別を明かにしていなければならぬのである。


 空は梵語のシューニヤ、又は、シューニヤターの訳語であるが、もともと、無という意味で、数学に於いていえば、零のことである、故に、字義そのままでいえば、無であって、虚無に外ならない。従って、仏教で空というのを、仏教以外の印度の諸学派でも、無とのみ解して、諸法皆空といえば、諸法虚無の意となし、西洋の学者も、亦、かく解して、これ虚無論であるとなすのも、決して、全然、誤解とのみはいえないであろうが、然し、仏教でいう空、即ち術語として用いられる空、は、元来、何に対して空というのであるかを考察すべきであって、本来の字義が如何に適用せられているかを明かにすれば、空に対する理解も、従って、その訳語も、異なってくるであろう。西洋の学者の中で、スチェルヴッキーの如き有数の学者が、空を相関と訳したのは、流石に、優れた理解を示すものである。仏教の空を、直に、西洋哲学の無と同一視せんとして、このスチェルヴツキーの相関と訳したのが、真意を得ないかの如く批評し、空を西洋哲学の無と同じであるかの如く解せんとする説を見受けるが、仏教の空は仏教によって解すべきものである。


 仏教に於いては、一切を含む一刹那の現在が不断に、永遠に、流れて行くと見ているのであって、凡ては現在のみであるとなすから、時間なる実体があるとはなさない。この流れ行く現在に於いて、これを反省的に思惟すれば、そこに、過去と現在と未来とが考えられ、これを事物の上で区別して見るから、時間をいうに至るのであるが、時間は全く概念的思惟の上に現われたものに過ぎないのである。故に吾々の日常生活のすべての経験は、今いう根本心の具体的状態が、一刹那一刹那に行なわれ、それが、同種の具体的経験であることもあり、又、異種のものであることもあるから、親に対する子として、又は、吾子に対する親として、その場合その場合、現われて行くのである。


 固定的実体を許さないのが空思想である。


 真の自己は、通常経験でいう、自己と他者とを総括している大なる自己である。即ち空であるから一切を容れているのである。



(宇井伯寿)