< 太 陽 讃 美 >
〜 モンテーニュ 〜
万人の光、世界の目。 もしも神に目があるとすれば、万物に生命を与え、われわれを維持し、この世の人間のおこないを見守る太陽こそはその輝く目だ。 この美しく、偉大な太陽は黄道十二宮を経めぐりながら四季をつくり、世界を明らかな徳で満たし、一瞥を投げるだけで雲を散らし、世界の精、世界の霊として、灼熱しながら一日にして天界を廻り、無限の大きさに満ち、円く、動きながら確固として、眼下はるかに全世界を見はるかし、休みなき安息のうちに休らい、怠惰のうちにもとどまることがない。 自然の長子、日の父。
太陽の偉大さと美しさはもちろんのこと、この天体はわれわれからもっとも遠くに見え、したがってもっとも知られないものであるから、彼らから讃嘆され畏敬されたのも無理はない。
タレスはこの事柄を最初にたずねて、神は水で万物をつくる聖霊だと考えた。 アナクシマンドロスは、ときどき死んだり生まれたりする無数の世界だと考えた。 アナクシメネスは、神は空気であり、生み出された無限のもので、常に動いていると考えた。 アナクサゴラスは、はじめて、万物の配置や秩序が無限な精神の力と理性に導かれているものと考えた。 アルクマイオンは、太陽と、月と、星と、精神を神と考えた。 ピュタゴラスは、神を、万物の本性に遍在する精神であり、われわれの精神もそこから分かれたものであるとした。 パルメニデスは、輝かしい光で天を取り囲み、世界を維持する輪であるとした。 エンペドクレスは、万物の元である四つの元素であるとした。 プロタゴラスは、神があるかないか、いかなるものであるかは何とも言えないと言った。 デモクリトスは、神は思考とその輪を描く運動だと言ったり、これらの思考を発する自然だと言ったり、われわれの知識と知性だと言ったりした。 プラトンは、自分の考えをいろいろな形で書き散らしたが、「ティマイオス」では、世界の父を名づけることができないと言い、「法律」では、その存在を詮索してはならないと言い、その同じ書物の別のところでは、世界と天と星辰と大地とわれわれの精神が神であると言い、さらに、それぞれの国家において昔から習慣によって認められた神々をも神として認めた。 クセノフォンは、ソクラテスの説にも、同じような混乱があったとして、彼がときには神の形態を詮索してはならないと言ったり、ときには、太陽が神だとか、神は一つしかないとか、たくさんあるとか、と自分に言わせたりしたことをあげている。 プラトンの甥のスペウシッポスは、神は事物を支配する力であり、この力には生命があるとした。 アリストテレスは、精神を神だと言ったり、世界を神だと言ったり、この世界には別の支配者がいると言ったり、天の熱を神だと言ったりした。 クセノクラテスは、八つの神々があると考えた。 その中の五つは惑星の中にあり、六番目の神はそれらの手足としてすべての恒星から成り、七番目の神と八番目の神は太陽と月であるとした。 ポントスのヘラクレイデスは、いろいろな説の間をさ迷ったが、結局、神は感情をもたず、次々と形を変えるものであると言い、天と地であるとも言った。 テオフラストスも、同じように決断がつかずにあらゆる説の間を迷い、ときには思惟が、ときには天が、ときには星辰が世界を支配するものだとした。 ストラトンは、神を生んだり殖やしたり減らしたりする力をもち、形も感情もない自然だとした。 ゼノンは、神は善を命じ悪を禁ずる自然の法で、その法には生命があるとした。 そして従来のユピテルとユノーとウェスタの神々を廃止した。 アポロニアのディオゲネスは、空気だとした。 クセノファネスは、神は円く、目と耳をもち、呼吸せず、人間と何の共通点ももたないものであるとした。 アリストンは、神の形態を理解できないものと考え、神には感覚がなく、生命があるかないかもわからないと言った。 クレアンテスは、神を、理性としたり、世界としたり、自然の霊魂としたり、万物を包囲する天上の熱であるとしたりした。 ゼノンの弟子ペルセウスは、人類に何かのいちじるしい貢献をした人々と、有用なもの自身が神と名づけられたと考えた。 クリュシッポスは、以上のすべての意見を雑念と積み上げて、いろいろな神の姿をつくり出したが、その神々の中には不朽になった人間も入っている。 ディアゴラスとテオドロスは、神々の存在をきっぱりと否定した。 エピクロスは、神々を、光り輝いて、透明で、空気を通し、まるで二つの城塞の間にあるように二つの世界の間に位して、打撃を受けることがなく、人間の顔と手足(ただしそれらは彼らには何の役にも立たない)をもっているものとした。
私は常に、神々が存在すると考えてきたし、これからもそう言うであろう。だが、
神々が人間のすることに心を煩らわすとは考えない。
by キケロ